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名も知らぬ感情の種

 クラリッサが席に戻り、教室にはようやく静寂が戻った。


 緊張はまだ薄く残っていたけれど、あの瞬間よりはずっと呼吸しやすい。

 けれど、俺は窓の外を見るふりをしながら、意識の一部を前方の少女に向けていた。


 アリシア・ホワイト。


 銀色の髪に、儚げな印象。

 さっきまでは明らかに戸惑い、押し黙っていたはずなのに――今の彼女の横顔は、何かが変わっていた。


 まるで、心の奥に一本の芯が通ったような。

 まだ不安定なままだけれど、それでも確かに“前を向こう”とする意志を感じる。


(……立ち直り、早いな)


 内心でそう思いながらも、少しだけ目を細めた。


 クラリッサの問いは、決して優しいものじゃなかった。

 むしろ、あの場で一番鋭く、重い“選別”だったはずだ。

 それでも彼女は逃げなかった。


 ふと、妙な違和感が胸の奥をよぎる。


(……どこかで見たような)


 彼女の雰囲気、その姿勢、その表情。


 思い出せない。

 けれど、記憶の奥底を撫でられるような感覚だけが、確かにあった。


(いや、まさかな)


 自分でも何を思ったのか、わからない。

 ただ、彼女を見ていると、なぜか心がざわつく。


 それは、彼女が“ヒロインだから”なのか。

 それとも――


「……殿下」


 不意に、クラリッサの声が届いた。


 俺が振り返ると、彼女は机に座ったまま、表情を変えずに俺を見ていた。


「ご気分でも優れませんか? 先ほどから、少々落ち着きがないようでしたので」


 その言い方はどこか皮肉めいていて、でも本心では心配しているようにも聞こえる。

 俺は軽く頭を振って、苦笑いを浮かべた。


「……いや、大丈夫。ありがとう、クラリッサ」


 クラリッサは何も言わず、わずかに視線を逸らした。


 この教室には、いろんな“物語の種”が撒かれている。

 そのうちのどれが芽吹くのかは、まだわからない。


 けれど、さっきの彼女――アリシアの顔だけは、しばらく頭から離れそうになかった。


 教室の扉が静かに開いた。

 足音は軽いのに、なぜか耳に残る。その瞬間、空気がふっと変わる。


 ゆったりとした歩幅で入ってきたのは、一人の男だった。

 黒髪を丁寧に撫でつけ、落ち着いた色合いの細縁眼鏡をかけている。

 姿勢は完璧だが、それを“見せつける”ためではなく、自然に身についたもののようだった。


「初めまして、皆さん。今日からこの第一組を担当します、ユベール・ラッセルです」


 声は低く柔らかく、それでいて芯が通っている。

 聞く者に安心を与える響きなのに、なぜか胸の奥が少しだけざわめく。


 あらゆることを見通すような視線。

 口調は親しみやすいのに、どこか近寄りがたい。

 距離の取り方が、完璧だった。


(……ああ、これは“年上ルートの本命”ってやつだ)


 思わずそんな感想が浮かぶ。

 落ち着いた話しぶり、他人の話に耳を傾ける余裕、そして言葉の選び方。どれも洗練されていて隙がない。


「皆さんがここにいるということは、実力も、将来性も、すでに証明されているということです。

 私はこの一年、あなた方が“どのような人間になるか”を見届ける役を担います。……それは教師としての幸運であり、責任です」


 その口調には誇張も演出もない。

 ただ、彼自身が“言葉を裏切らない人間”だということを、自然に信じさせてくる。


 そして──ふと、その視線が教室の隅々を巡る。


 生徒一人ひとりを、決して急がずに。

 まるで“名前を呼ぶ前から覚えている”かのような眼差し。


 その眼が、アリシアのところでわずかに止まった。

 けれど、何も言わない。彼女を“特別扱い”することも、“試す”ような真似もしない。


 ただ、彼女の選択を、そのまま受け止めるような目。


(やばいな。落ちるな、これ)


 内心で冗談めかして思う。

 でも実際、ここにいる女子の半分以上が、すでに“あの先生”に一度は心を傾けただろう。


 ただ甘いだけじゃない。

 ただ厳しいだけじゃない。


 柔らかさの裏にある深い器と、ふと見せる一瞬の影。

 そしてなにより、誰の人生にも踏み込みすぎない、けれど見捨てることもない絶妙な距離。


「さて、今日は自己紹介は省いて、まずは学院生活の導入説明を行います。後ほど、初回の課題もお渡ししますね」


 その一言に、誰もが無言で頷いた。

 気づけば皆が、彼の言葉を“待っている”状態になっていた。

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