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品位を問う者、問われる者

 教室に入ると、重く乾いた空気が出迎えた。

 広く整った石造りの空間には新しい机と椅子が並べられ、壁には精緻な紋章が刻まれている。


 生徒たちは誰もが緊張を隠しきれず、静かに席を探していた。

 俺も、案内された窓際の席に腰を下ろす。視線を感じながらも、あえて深く息を吐いた。


 クラリッサは俺の斜め前。アリシアは数列前の中央寄り。

 距離は近いが、その間には確かに“空気の層”があった。


 そして、静寂の中に、細く冷たい声が割り込んできた。


「……あら、あなたがアリシア・ホワイト?」


 数人の少女たちが、アリシアの机を囲んでいた。

 髪を結い上げ、身にまとうのは上質な布の制服。

 彼女たちは微笑んでいた。けれど、それは優しさからではない。


「平民って聞いたけど……本当に? 推薦枠って、そんなに緩かったかしら」


「ご挨拶の仕方も知らないのね。あら、でも仕方ないわよね。そういう“世界”の子じゃないんだもの」


 声はあくまで穏やかで、芝居がかった好奇心を装っていた。

 けれど、言葉の刃は鈍らず、確実にアリシアの肩に重くのしかかっていた。


 アリシアは……反論しようとしていた。


 わずかに目を見開き、口を開きかける。

 だが、声は出なかった。喉の奥で、言葉が震えて消えた。


 その様子を、クラリッサは黙って見ていた。


 顔を正面に向けたまま、横目で。

 指一本動かさず、背筋を伸ばしたまま。

 けれど、視線だけは外さなかった。まるで、測るように。


(……見てる)


 彼女が観察している。アリシアの態度、表情、息遣いまで。

 そして、見極めている。


 そのとき。クラリッサが静かに立ち上がった。


 声を張り上げることもなく、淡々と、しかしよく通る声で言った。


「――その程度の礼儀も知らずに、家名の誇りだけを掲げるのは、貴族のすることではありませんわ」


 教室の空気が凍るように止まった。


 囲んでいた少女たちが、一斉に振り向く。


 クラリッサは、何も変えずに言葉を続けた。


「お生まれがどのようであれ、この学院に入学を許された以上、彼女は“学院生”です。

 それを否定するのなら、学院の判断そのものを侮辱していることになりますわよ」


 沈黙。


 貴族の少女たちは互いに目を合わせると、何も言わずにアリシアのそばから離れた。

 教室に静けさが戻る。


 けれど――クラリッサは歩き出した。


 その足音は柔らかく、しかし誰も逆らえない気迫を帯びていた。


 アリシアの前で立ち止まり、彼女をまっすぐに見下ろす。


「……ですが、あなたにも問います」


 表情は変えず、声色は冷たくなかった。だが甘くもない。


「あなたは、この学院に相応しい振る舞いができると、自らを信じていますか?」


 アリシアは、一瞬だけ戸惑った。


 だが、やがて静かに、確かにうなずいた。


 クラリッサはその様子をじっと見つめたまま、ほんの少しだけ目を細めた。


 そして、何も言わずに自分の席へと戻っていった。


 クラリッサが席へ戻っていく背中を、俺は黙って見送った。


 教室には静けさが戻った。けれど、それはただの“落ち着き”ではなかった。

 さっきまでの緊張が、まるで形を変えて沈殿したような、張り詰めた静寂。


 アリシアはゆっくりと席に座り直し、誰とも目を合わせず前を向いた。

 クラリッサは一言も発さず、自分の机の前に座っている。

 その姿は凛としていて、誰も口を挟めない空気を纏っていた。


(……すごいな)


 気づいたときには、自然とそう思っていた。


 俺の記憶にある“クラリッサ”は、もっと傲慢で、感情を振りかざすような人物だったはずだ。

 平民出身のヒロインに嫉妬し、嫌味を言い、最後は見事に婚約破棄される。

 その記憶を思い出すたびに、俺は「悪役令嬢」というテンプレート通りの存在として、彼女を見ていた気がする。


 けれど、今目の前にいる彼女は、全然違った。


 感情を爆発させることなく、言葉で場を制し、貴族の論理で周囲を抑え、

 それでいてアリシアには、ただの擁護でも攻撃でもない、“問い”を投げかけた。


 品位。

 誇り。

 その重さを、自分自身にも他人にも突きつける、静かな気高さ。


 俺は今、初めて「クラリッサ・フォン・ルクレール」という人物を正面から見た気がした。


(……これが、あのクラリッサかよ)


 思わず、心の中で呟いていた。


 彼女は“悪役令嬢”なんかじゃない。

 少なくとも、今のところは──まるで逆だった。


 悪役にされるような役回りを、彼女自身が誇りと理性で押し返そうとしている。


(もし俺が、あのまま彼女を捨てるルートを選んだら……)


 その続きを考えるのが、少し怖かった。


「もう一度、幸せを選ぶために」


 教室の空気が静まり返っている。

 クラリッサ様の言葉は、周囲のざわつきを鎮めただけでなく、私自身の中にも深く入り込んでいた。


『あなたは、この学院に相応しい振る舞いができると、自らを信じていますか?』


 その問いに、私はただ頷くことしかできなかった。

 でも――胸の奥では、答えていた。


(信じたい。今度こそ、幸せになれるって)


 前世のことは、もう夢のように曖昧になってきている。

 けれど、ひとつだけ、はっきり覚えている。


 ――私には、兄がいた。


 優しくて、ちょっと臆病で、でも本当はとても賢い人。

 私が推しに沼って話すと、少し呆れながらも聞いてくれた。

 くだらないことで笑って、いつか一緒にゲームの世界を歩けたらいいな、なんて冗談で話したこともあった。


 でも――兄は、ある日突然いなくなった。


 何の前触れもなく。理由もわからず。まるで最初から存在しなかったみたいに。


 私の人生は、そこから音を立てて崩れ始めた。


 家族の誰もがバラバラになっていって、温かかった家が冷え切った空気だけを残した。

 私は必死に何かを守ろうとしたけど、何も守れなかった。


 だから、この世界に目覚めたとき、思った。


(今度こそ、私は私の物語を歩く)


 もう兄はいない。けれど、その分、私はこの世界で幸せになってやる。


 だって、ここには――あの人がいるから。


 前世で何度も何度も泣かされた、私の“推し”。

 理想を全部詰め込んだような存在で、彼のルートだけは何度もクリアして、セリフを覚えるほど繰り返した。


 今、この学院には彼がいる。

 そして私は、物語の“ヒロイン”。


(私は、この世界で幸せになる。絶対に)


 この手でつかみ取ってみせる。

 推しと手を取り合って、今度こそ最後まで笑っていたい。


 机の上で指を握りしめる。

 顔を上げて、ゆっくりと、前を見据えた。


 私の物語は、ここから始まる。

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