運命のヒロインと、不器用な視線
石畳を踏みしめるたびに、身体の奥で何かがじわじわと固まっていく。
背筋を伸ばせ。目線は正面。そう言い聞かせても、緊張は肌の奥にこびりついたままだ。
隣を歩くクラリッサは、風に揺れるブロンドの髪すら計算されたように美しく、まるで舞台の登場人物のようだった。……いや、あの物語では“敵役”だったかもしれないけれど。
俺たちは、セレスティア学院の入学式会場へと向かっていた。
(ここが、学園。始まりの場所……)
目の前に広がるのは、荘厳な校舎。整えられた庭園。そしてその中に整列し、出番を待つ新入生たち。
けれど、空気は明らかに違っていた。
周囲の視線が一斉に、俺へと集中している。
(見られてる……めっちゃ見られてる)
クラリッサと婚約していることは、すでに周知の事実だ。
だが、それでも今この場で、最も注目を集めているのは──“王子レオンハルト”という存在だった。
「殿下、深呼吸なさいませ。あまりに緊張した顔では、皆の記憶に残ってしまいますわ」
クラリッサの囁きに、心臓が跳ねた。
声音は柔らかいが、視線を受け止めることに慣れた者の余裕があった。
「……慣れてるのか、こういうの」
ぼそりと漏らした問いかけに、クラリッサはほんの一瞬だけ視線をこちらに向けた。
それから、ごく自然な仕草で前を向いたまま答える。
「もちろんですわ」
たったそれだけ。けれど、その一言には揺るがぬ自信と、積み重ねてきた誇りが滲んでいた。
無理に飾らず、誇示せず、それでいて圧倒的に堂々としている。
彼女の背筋はすっと伸びていて、その姿に、思わず言葉を失った。
……美しいと思った。ただ、表面的なことではない。その姿勢に、心が引き込まれた。
けれど、視線を落とすと、彼女のドレスの裾がわずかに震えているのが目に入った。
その微かな揺れが、彼女もまた、緊張と戦っているのだと告げていた。
式典会場──学院のホールに入ったとき、空気が一段と静まった。
天井が高く、光を受けたステンドグラスが足元に揺れる。
新入生たちは皆整列し、教師たちが前列に並んでいる。
ざわめきが起きることはない。けれど、空気が微かに波打つのが分かった。
そして、その中に──彼女がいた。
アーチの陰から、一人の少女が姿を現した。
光に透けるような銀色の髪。緊張に包まれた表情で、制服の胸元を何度か整えている。
アリシア・ホワイト。
あの乙女小説で、ヒロインとされていた少女。
(……あれが、アリシア)
記憶の中の彼女はもっと……眩しくて、理想的すぎて、なんだか合わないと感じた存在だった。
けれど、今目の前にいる彼女は、確かに“現実”の中で生きていた。怯えながらも真っすぐで、誰よりも目立っていなかったのに、不思議と目が惹きつけられる。
彼女が、ふと顔を上げた。
目が合ったわけではない。
それでも、その一瞬──場の空気が、静かに変わった気がした。
そして、隣からわずかな動きを感じた。
クラリッサが、静かに俺を見ていた。
言葉はない。ただの一瞥。
けれど、それは問いかけでもあり、静かな拒絶でもあった。
(違う。俺は、ただ確認しただけで……)
けれど、言い訳は喉に張りついて出てこなかった。
壇上に立った瞬間、世界のすべてが音を失った。
セレスティア学院 入学式。
高くそびえる天井、金と白で彩られた空間には、新入生の視線、教師陣、貴族たちの親族──数百の目が、ただ一人の登壇者を見据えている。
そう、俺だ。
レオンハルト殿下。国王の長子。……という“設定”の男。
(ちょ、ちょっと待て。この空気、思ったよりガチじゃないか……?)
手のひらは汗でじっとりと湿っていた。
なのに、肩は妙に冷えている。緊張のせいだ。目の奥が重い。息の仕方がわからない。
式典の司会が、荘厳な声で俺の名を告げる。
「新入生代表、生徒総代──レオンハルト=フォン=シュタインベルグ殿下よりご挨拶です」
(な、長っ……毎回これ全部言われんのか?言えるかな、俺)
内心で突っ込みながらも、足は一歩、壇の中央へと進んでいた。
まるで舞台のスポットライトの下に立つような感覚。空気が重い。いや、固い。息がしづらい。
(深呼吸。……今ここで噛んだら終わりだからな、俺)
喉を鳴らし、声を出す。
「……この度、セレスティア学院に入学いたしました、レオンハルト・フォン・シュタインベルグです」
言えた。ちゃんと、言えた。心の中で小さくガッツポーズ。
……でも表情には出さない。出したら絶対変な顔になる。
場の空気はまだ固いまま。全員が息をひそめ、続きを待っている。
「本学院は、未来の担い手として学び、鍛え、繋がりを築く場であると伺っております。
私は、この場に集う皆様と共に、誇りを胸に歩んでいきたいと考えております」
言葉が口から離れていく感覚。震えていないことが、逆に不思議だった。
(落ち着け、まだ終わってない……あと一文だ)
「未熟者ではございますが、どうぞよろしくお願いいたします」
一礼する。
その瞬間、あれほど張り詰めていた空気が、わずかに揺らいだ。
拍手が起きる。整然と、けれど確かに温度を持った音だった。
体の奥に詰まっていた何かが、音と一緒に溶けていくのがわかる。
俺は顔を上げ、ふと隣を見る。
クラリッサがこちらを見ていた。
驚いたような、けれど少し安堵したような──そんな目。すぐに彼女は視線を逸らし、またあの完璧な仮面を被る。
(……うん、今のは少し、カッコよかったんじゃないか、俺)
そう思った次の瞬間。
視界の端で、ひときわ静かなまなざしが俺をとらえていた。
アリシア・ホワイト。
銀の髪に柔らかな光を宿し、まっすぐにこちらを見ている。
その目は、静かで、揺るぎがなかった。
敵意も好意もない。ただ、見ている。その姿を、目の奥に焼きつけるように。
(……やっぱり、始まったな)
心の奥で、そっとつぶやく。
ここからすべてが、動き出す──そんな確信だけが、胸の中心に灯っていた