揺れる静寂、交錯する思惑
朝食を終え、寮の自室で身支度を整えていたところに、扉がノックされた。
「殿下。ユリウスです。緊急の報せがございます」
嫌な予感がした。
「入れ」
扉を開けたユリウスは、きっちりと整えた制服のまま、眉一つ動かさずに言った。
「アリシア嬢に関する騒動が発生しております。
本日朝、クラリッサ様が“自ら報告”にいらしたとの情報が学園内に流れました」
「……報告?」
「はい。内容は、“アリシア嬢に対する不当な噂や陰口が教室内で発生している可能性がある”というもの。
クラリッサ様はそれに対し、“事実無根であり、殿下や学園の名誉を傷つけかねない”として、調査の要請をされたとのことです」
俺は一瞬、言葉を失った。
(クラリッサが……アリシアを庇うような行動を?)
あのツンと澄ました完璧な令嬢が――だが、昨日のあの出来事を思い出せば、あり得ない話ではない気もする。
「わかった。……行こう」
* * *
教室に近づくにつれ、妙なざわめきが耳に入ってくる。
「……クラリッサ様が命令したって、ほんとなの……?」
「昨日の注意、根に持ってたらしいよ? やっぱり怖い人なんだって……」
囁かれる噂。その一つ一つが、教室の空気を汚していた。
そして、教室の扉を開けた瞬間――
そこにいたのは、呆然と立ち尽くすアリシアだった。
彼女の前には、破り裂かれ、切り刻まれた教科書が床に散乱している。
机の上にも刃物の痕跡があり、まるで“見せしめ”のように残されていた。
アリシアはその惨状を見つめたまま、声も出さず、ただ静かに、じっとそこに立っていた。
「……アリシア、大丈夫か」
肩に手をかけて声をかけると、彼女はびくりと小さく震えた。
それでも、うまく言葉にならない。
そのとき――
「――何の騒ぎですの?」
冷静で、澄んだ声が教室を満たした。
扉の方を振り向くと、クラリッサ・エルフォード嬢が立っていた。
いつも通り、凛とした佇まいで。表情ひとつ乱さずに。
「クラリッサ」
俺は彼女の名を呼び、一歩踏み出した。
「お前が命じて、これをやらせたという報告を受けた。……それは、本当か?」
沈黙。全員の視線がクラリッサに集中する。
だが、彼女は眉一つ動かさず――
「そのようなこと、いたしておりませんわ」
落ち着いた声音。明確で、言い訳のない否定。
「私はアリシア嬢に対して不当な扱いを命じたことはありません。
この場で初めて事態を知りました。騒動の報告を受け、確認に来たまでです」
彼女の言葉には揺らぎがなかった。
だが、その場の空気はまだざわついていた。誰もが真偽を測りかねている。
そんな中――
「――殿下、そのご報告なら、私のところにも入ってまいりました」
やわらかく、しかし芯の通った声が教室の後方から響いた。
静かに歩み出たのは、一人の少女。
栗色の髪に控えめな微笑み。制服の胸元に、伯爵家の紋章。
「……あなたは?」
「マリエット・フロレンティーナ。フロレンティーナ伯爵家の令嬢にございます」
その名を聞いた瞬間、記憶がよみがえった。
――妹が話していた。「ちょいキャラだけど、妙に印象に残る子」。
アリシアを陰ながら支え、時に道を示してくれる、静かな味方。
(……まさか、本当にいたのか)
この世界は、俺の知っている物語とは少しずつ違う。
でも、だからこそ――何かが動き始める予感がした。
「――殿下、そのご報告なら、私のところにも入ってまいりました」
その声に、教室の空気が再び張り詰める。
現れたのは、栗色の髪を美しくまとめた少女――マリエット・フロレンティーナ。
伯爵家の令嬢であり、温和な雰囲気と知性を兼ね備えた“良家の優等生”。
彼女はクラリッサをまっすぐに見て、丁寧に一礼した。
「クラリッサ様が、このようなことを“命じる”ことはないと、私も信じております。
……ですが――」
その言葉に、ほんの一瞬、クラリッサの眉が動いた。
「事実として、**クラリッサ様のご友人が、実際に“アリシア嬢の教科書を傷つけた”**ということを、
私は先ほどご本人たちから確認いたしました」
彼女の後ろには、顔色を失った二人の生徒が立っていた。
クラリッサの取り巻き――そう噂されている者たち。
「おふたりとも、どうぞ正直に」
促されるように、一人の少女が口を開いた。
「わ、私たちは……クラリッサ様が、以前“アリシア嬢は少し礼節に欠ける”と仰ったのを聞いて……それで、少し、躾けようと……」
「直接命令されたわけではないんです……! でも、クラリッサ様のお考えに沿いたくて……」
ざわっ、と教室の空気が揺れた。
マリエットはあくまで冷静に、けれど聞こえるような声で言った。
「命令ではなく、空気を読んだ――そう彼女たちは申しております。
ですが、その“空気”が、どれほど強い力を持ちうるかは、皆様ご存じのはず」
まるで中立を装いながら、その言葉は明確にクラリッサを“空気を作った張本人”として印象づけるものだった。
「クラリッサ様に悪意があったとは申しません。
ですが、“影響力のあるお方”が何を言うか、どう言うか――それが、周囲にどう響くのかを、
今一度、皆で考えるべきではないでしょうか」
その一言で、クラリッサを“権力でいびった”存在に仕立て上げる空気が、じわじわと教室に満ちていった。
そして、マリエットはふわりと微笑んだ。
「もちろん、すべては“誤解”であれば、それが何より幸いですわ」
その笑みは、まるで何も知らぬ善意の人間のようだった。
けれど――
(……この子、ただ者じゃねぇな)
俺の中で、小さな警鐘が鳴り始めていた。
教室の空気は、明確に変わっていた。
マリエットの一連の言葉は、直接的な攻撃ではない。
けれど、“クラリッサは影響力を自覚せず他人を傷つけた”――
そんな印象だけが、静かに、確実に広がっていく。
俺は黙って、その場の空気とマリエットの言葉を反芻していた。
(……あれ? なんか、変だな)
丁寧で上品で、正しいことしか言ってない――はずなのに。
違和感だけが、妙に残る。
マリエットは終始「誤解であれば幸い」と繰り返し、断定を避けていた。
それなのに、彼女の語り口は“クラリッサが責任を逃れられない空気”を作るように仕向けている。
(それに……クラリッサの味方なら、取り巻きの行動をまず“制止”するだろ。
なのに、証言まで引き出して、しかもこのタイミングで教室で披露?)
俺は思い出す。
前世で、職場の人間関係で地味に怖かったあのタイプ――
“善意を装って、誰かの足元を崩す人間”。
(これは――“告発”じゃない。“演出”だ)
わかる人間にはわかる。
あの“誰も直接は責めてないのに、責任だけがのしかかってくる空気”。
俺はそっと視線をクラリッサに向けた。
彼女は、何も言わず、ただ静かに立っている。
その表情に感情は浮かんでいなかった。けれど――ほんのわずかに、唇がきゅっと結ばれている。
クラリッサ・エルフォード。
あのプライドの高い令嬢が、今、何も言えずに立っている。
(このままじゃ、クラリッサが“無言の加害者”にされる)
たとえ、命令していなくても。
たとえ、悪意がなかったとしても。
“空気”が真実を決めてしまう――
そんな状況に、俺の中の“元社会人”が、強烈な警鐘を鳴らしていた。
(……やるしかないな)
俺は一歩、前に出た。




