俺がこの物語の“王子”なら
目を開けると、そこは見知らぬ部屋だった。
高い天井、天蓋付きのベッド、肌に触れるシーツはやけに柔らかい。目に映るどの家具も、細やかな装飾が施された高級品ばかり。
昨夜までの記憶は──ぼんやりしている。確か、残業が続いて疲れていたはずだ。それが目覚めたらこれだ。
状況が飲み込めないまま、ノックの音が響いた。
「殿下、馬車のご準備が整いました」
殿下。……誰のことを言ってる?
着替えを手伝う使用人に流されるまま服を着る。鏡に映った自分の姿には、どこか見覚えがあるような──いや、ないような……。
外に出ると、装飾過多な馬車が待っていた。まるで舞台のセットのようだ。
中へ案内されると、すでに一人の少女が座っていた。
金の髪を丁寧に編み込み、涼やかな目元に気品を湛えた美しい少女。彼女は俺をちらと一瞥しただけで、何も言わず窓の外に視線を戻した。
……会話を切り出すべきか。
沈黙を破るために、俺はなるべく丁寧な口調で訊ねた。
「あの、すみません……ご一緒させていただく方だと聞いたのですが、お名前を……?」
その言葉に、少女の肩がわずかに動いた。
伏せられたまつげの奥に、何かが沈んでいる。
「……そう、ですのね。殿下は、私のことをお忘れになったのですか」
その声は、静かで、けれど確かな痛みを帯びていた。
「私はクラリッサ・フォン・ルクレール。殿下の、婚約者です」
クラリッサ。
どこかで……聞いたことがある。いや、どこだ……?
クラリッサ。クラリッサ……その名前……。
記憶の底で、何かがゆっくりと浮かび上がってくる。
淡い色彩のイラスト。華やかな制服。確か、妹が話していた……乙女向けの小説か、ゲームか──。
クラリッサ。婚約者。貴族の学園。
ああ、そうだ、たしか“悪役令嬢”とか呼ばれていたキャラクターがいて──でも彼女は、確か……。
(……まさか……)
そして、ヒロインの名前。なにか……ア……アリ……アリシア?
脳裏にパチッと火花が散る。
断片だった記憶が、次第に線となって繋がり始める。
クラリッサ。婚約者。王子。学園。
アリシア。無垢で人気者のヒロイン。
そして──その王子が、クラリッサを振って、アリシアと結ばれる……。
(……俺は、あの話の“王子”なのか?)
鼓動が強くなる。嘘だろ、と思いながらも、目の前のクラリッサの存在が、その答えを否応なく裏付けていた。
「……申し遅れました。私はクラリッサ・フォン・ルクレール。殿下の、婚約者でございます」
その名を聞いたとたん、胸の奥がざわついた。
クラリッサ──聞いたことがある。記憶の底に沈んでいた名前が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
だが、それ以上に気になったのは、彼女の声音だった。
毅然とした口調の裏に、かすかな揺れがあった。プライドと、何かもっと深い感情が滲んでいるような。
気まずさに、喉が乾く。なんとか言葉を繋ごうとしたが、先に彼女が口を開いた。
「……殿下が、私にご興味がないことは、存じておりますから」
静かだった。けれど、あまりにもはっきりとした言葉だった。
息が詰まった。
その声に、怒りも悲しみもない。ただ、淡々と――そして、どこかもう諦めた人間の響きがあった。
彼女の姿が、揺れて見えた。いや、俺の視界が滲んでいるだけかもしれない。
こんなふうに自分を紹介する人間がいるだろうか。
名乗ると同時に、自分が「興味を持たれていない」存在だと断言するなんて――。
思わず言葉が喉の奥で絡まる。
「あ、いや……そんなつもりじゃ……!」
それが事実だったかどうか、俺にはわからなかった。
だけど、彼女にそう思わせてしまったのは紛れもなく俺自身だ。知らないふりをして、名前すら尋ねて。
彼女のまつ毛が、ふるふると微かに震えた。けれど、目は伏せたまま。
「どうか、お気になさらずに。もともと、形式だけの婚約ですもの。殿下が私にご興味をお持ちでないのは、当然のことでしょう」
その声の冷静さが、かえって胸を締めつける。
誇り高い貴族の娘が、何度も何度も“そう思われてきた”からこそ、こうして何でもないように言えるのだと──そう思うと、言い知れない罪悪感がこみ上げてきた。
何か、言わなきゃ。
否定しなきゃ。これは違うって──
「俺は……君のことを知りたいと思っただけなんだ」
やっと絞り出した言葉は、あまりにも頼りなかった。
でも、それが今の俺にできるすべてだった。
「俺は……君のことを知りたいと思っただけなんだ」
それは、酷く稚拙で、不完全な言葉だった。
言い訳のようで、誤魔化しのようで、けれど、心からの本音だった。
沈黙が落ちる。馬車の中に響くのは、車輪のきしむ音と、馬の蹄が石畳を踏むかすかな振動だけ。
クラリッサは、すぐには何も言わなかった。返事の代わりに、そっとこちらに視線を向けた。
まっすぐではなかった。どこか探るような、迷うような、そんな目。
拒絶でもなく、肯定でもない。ただ、測るような──けれど、どこか、わずかに揺れている。
瞳は琥珀色。けれど、そこに宿る光は淡く、遠い。
まるで自分の価値を信じきれていない者の目だった。
そして、ほんの一瞬だけ。
その瞳が、かすかに緩んだ気がした。
けれど、すぐにクラリッサは視線を外し、また窓の外へと顔を向けた。
その仕草は、何も言わないことを選んだようにも、言葉にできないものを抱えたようにも見えた。
俺は、何も言えなかった。
けれど、それでも確かに感じた。あの一瞬、彼女の心が、ほんのわずかに――こちらへ、傾いたことを。
馬車が止まったとき、静寂が不意に破られた。
わずかに車体が揺れると、御者の低く張った声が響いた。
「セレスティア学院、到着いたしました」
その一言が、現実を突きつける。
夢のような空間で、自分が“王子”などという役割を与えられている事実が、またひとつ深く身体に刻まれる。
クラリッサがゆっくりと立ち上がる。
滑るような動作だった。ドレスの生地が控えめに揺れ、香り立つように彼女の気配が空気を満たしていく。
まるで、ここが舞踏会の舞台でもあるかのように、優雅に。
その姿を見て、思わず呼吸を忘れた。
彼女は、完璧だった。誰もが振り返るにふさわしい“令嬢”だった。
そして、次に目を向けたのは──俺。
自分の手に、彼女の白く細い指先がすっと差し出されていた。
言葉はなかった。だが、その手は言っていた。「さあ、“殿下”としての顔を」と。
俺の中の何かが、ごくりと喉を鳴らす。
(……いけるのか、俺に)
緊張が喉を締めつけた。汗が背筋を伝う。
だけど、その手を取らない選択肢はなかった。
指が触れた瞬間、手袋越しに感じた体温が、不思議と現実感を持って迫ってくる。
俺は、無言のままクラリッサの手をとった。
そして──馬車の扉が開いた。
眩しい光が、視界を焼いた。
広がるのは白い石畳と、緑に囲まれた荘厳な校舎。まるで古代神殿のようなアーチと柱が並び、そこに佇む無数の視線。
貴族たちの子弟が、整列しながらこちらを見ていた。
王子と、その婚約者の到着。それは彼らにとって特別な“観覧式”のようなものなのだろう。
(うわ……これ、マジでやばい)
自分の心の声が、無様に震えた。
堂々と歩かなければならない。王子として。
でも俺は中身がただの一般人で──何かを間違えれば、彼女の人生がまた間違った方へ転がるかもしれない。
そのとき、クラリッサがわずかに振り返った。
視線が交差する。
何も言わないけれど、そのまなざしには、明確な“期待”が宿っていた。
(……わかったよ)
内心でそう呟いて、俺は一歩、地面に足を踏み出す。
その音が、確かに石畳に響いた瞬間──
俺は、レオンハルト王子として、この世界を歩き始めた。