第一章 6話 『行ってきます』
「ほぉ〜、それはそれは……大変だったんだなあ」
マスターはカウンター越しに腕を組みながら、どこか楽しげに相槌を打つ。けれど、口調があまりにもいつも通りすぎて、リオットは身を乗り出した。
「いやいや、気持ちこもってなさすぎですって……! 俺、本気で驚いて、びっくりしすぎて、孤児院のじいちゃんばあちゃんに泣きつきましたからね? この歳で!」
身振り手振りを交えて大げさに話すと、マスターは目を細めて肩を揺らした。
「おまっ、それはお前……あの人たちを困らせんなよ」
「あー、冗談ですってば。マスター、そんなに引かないでくださいよ。……ちゃんと報告しましたから。胸張って、堂々と」
「はは、分かってるって。リオットは、ちゃんと頑張ってるよ」
彼のひと言に、リオットの胸の中にふわっと安堵が広がる。まるで、第二の実家に帰ってきたような気分。
五日前の出来事を思い返しながら、いつの間にかカウンターに置かれていたジュースへと手を伸ばす。口に含むと、やわらかな温もりが喉を伝い、胸の奥へとじんわり広がっていった。
五日――。
そう。リオットが記紡者の試験に合格し、アゼルやミレイユと出会い、祝福部門への配属が「決定事項」として告げられた、あの日から。
ある意味で運命を変えたあの日から、もう五日もの時が流れていた。
そして、リオットをよそに盛り上がっていた、あの場の4人が口にした「旅」という言葉。
それはまぎれもなく、リオットとクラリス、ふたりで歩む“祝福者たちの記録の旅”の始まりを意味していた。
「リオットも、ついに記紡者として旅立つんだな。……それで、王都を発つのはいつだ? ヴァルミナ地方ってことは、いずれまた戻って来るんだろう?」
「ああ、その出発が実はきょ――」
「あー! リオット! また、飲んだくれてるー!」
「てるー!」
「う゛っ……」
マスターと会話を続けようとした矢先。かん高い声と同時に、リオットの腹部に小さな衝撃が飛び込んできた。横にぐらりと傾きかけた身体を、咄嗟に机のへりをつかんでどうにか持ちこたえる。
ほっと息をついて視線を落とすと、そこには焦げ茶色のふわふわした、丸みのあるふたつの頭がリオットにぴったりと寄り添っていた。
「ヒナリ、ルシオ。危ないって。俺が転んだら、お前らまでケガするだろ?」
「えへへ、ごめんなさーい!」
「さーい!」
二人は笑い、まったく反省する気配もなく、もぞもぞとリオットの膝によじ登ってきた。気づけば、リオットの膝にヒナリが、ヒナリの上にルシオが乗っかってくる。
まるでお団子みたいにぎゅうぎゅうとくっつく。とはいえ、リオットがこの店を訪れると、たいていこうなるのが定番で、本人たちも、周囲の常連客たちもすっかり見慣れた光景になっていた。
髪を頭の上でふたつのお団子にゆるくまとめているのが、姉のヒナリ。ややくせのある髪がふわふわと無造作に広がっているのが、弟のルシオ。
二人とも、髪の色は父親ゆずりの落ち着いたこげ茶色で、瞳は母親に似た、やわらかい黄みがかった色をしている。ぱっちりとした大きな目で見上げられるたびに、リオットはつい、顔がゆるんでしまう。
「おおっ、久しぶりだな、ふたりとも! 会えて嬉しいよ」
リオットがふたりの頭をわしゃわしゃと撫でると、キャーと嬉しそうな悲鳴が上がり、満点の笑顔がうまれる。
「ヒナリも会いたかった! だって、リオット最近来なかったでしょ!」
「ルーもあいたっ!」
「悪かったな。ちょっとバタついてて、なかなか来れなかった。……でも、会えてよかったよ。ほんとに」
そう言って笑うリオットの声には、どこかいつもと違う響きがあった。張りつめていたものが、すっと和らいでいく感覚。
マスターは手を止めることなく、黙々とグラスを拭き続けていた。視線だけをリオットへと向け、目尻をやわらかく緩める。
「あら、急に走るからびっくりしちゃった。でも、そういうこと。リオットがいたのね」
店の裏口から入ってきたのだろうか、一人の女性がカウンターに現れて、マスターの隣に立った。
亜麻色のやわらかな髪が歩みにあわせてふんわり揺れ、蜂蜜色の瞳がこちらを見やって、穏やかに微笑む。
「ご無沙汰してます、女将さん。……相変わらず、華がありますね」
「ふふ、また調子のいいこと言ってる。でも、元気そうで安心したわ。リオット」
女将の声には、そっと包み込むようなあたたかさがあり、リオットの肩の力がふっと抜けていくのを感じる。
「おいおい、リオット。俺の前でうちの嫁さん口説くとはいい度胸じゃねえか? ん?」
「女将さんに会ったら毎日美貌を褒めろって言ったの、マスターの方ですよね? 俺、ちゃんと実行しただけなんですよ。……これで怒られたら、ちょっと理不尽ですって」
リオットが慌てて言い訳を口にすると、彼女は小さく肩をすくめ、呆れ交じりに笑みを浮かべた。
「ほんとにもう、イツキってば……リオットが戸惑ってるでしょ?」
「なあシャリー、あれ見て笑わない方が無理あるって。リオットの反応、最高だったろ?」
「最高だったー!」
「だったー!」
リオットの膝の上で、ヒナリとルシオが息ぴったりに声をそろえる。勢いにぐらつきそうになりつつも、リオットは二人が落ちないよう、身体を支えた。
「ほら見ろ、シャリー! うちの子たちは大喜びだぞ! これが正義ってやつだよ、シャリー!」
どこまでも調子のいいイツキに、シャリエットは小さくため息をついた。けれど目元には、呆れと一緒に、やさしい笑みが滲んでいく。
そんな、にぎやかであたたかな空気の中。
リオットの前に、この店を形作る全員の姿が揃った。
酒場の店主であり、家族の父でもあるトオノ・イツキ。
そして、妻であり女将のトオノ・シャリエット。
二人の子どもたち、トオノ・ヒナリとルシオ。
この家族が営む店は、今やアルセリア聖王国でいちばん人気の酒場として知られている。
そして――。
リオット・アーロイが、この“気のいいマスター”こそが、10年前に厄災を討った英雄だと知るのは、もう少し先の話になる。
◎◎
「そういや、リオット。さっきはあの子たちが来たから話が途切れたけど……今日なんだろ。出発は」
イツキが、ぼそりとつぶやいた。
あの子たちとは言うまでもなく、ヒナリとルシオのことだ。今二人は、リオットの膝を降りて、せっせと店の配膳を手伝っている。ヒナリがトレーを抱え、ルシオがそれに続く。
その様子は、微笑ましくもどこか危なっかしくて。だから客たちは、二人が近くを通るたびに、無言で足を机の内へ引っ込めるようになった。気付けばそれが、この店の決まりごとになっている。
そんな二人を見守っていたリオットは、不意に耳に届いたイツキの声に顔を上げた。ぱちりと重なる瞳。イツキはすぐにヒナリたちへと視線を移す。
イツキのリオットを見つめる瞳が、眩しげで、真っ直ぐで、まるで、自分には過ぎた光でも見るかのような眼差し。
そこにあったのは、祈るような希望。手放すことへの未練。そして、わずかに滲む安らぎ。複雑でありながら、否定しようのない優しさを宿した瞳。
「出発? リオットは何処かに出かけるの?」
間に入ってきたシャリエットに、救われた気がして、リオットは肩を緩め、息をついた。イツキの眼差しが彼女へと逸れたのを感じ取り、胸の奥が軽くなる。
イツキのあの目が意味するもの――なぜ、あんなふうに自分を見ていたのか。リオットには、理由がどうしても分からなかった。
「記紡者になったのは五日前で、今日が出発の日みたいだ。リオットもこの店の常連だけど、昼の鐘が鳴る前に来るなんて滅多にないしな。わざわざ、顔を見せに来てくれたんだろ……な、リオット」
「まあ、記紡者になれたのね。おめでとう。私もとても嬉しいわ。確か……植物部門を目指していたんでしょう? 希望の部門には入れたのかしら」
「祝福部門って言う、少し特殊なケースらしいぜ」
不思議そうに頭を傾げたシャリエットに向けて、リオットはここまでの出来事をかいつまんで話した。アゼルとミレイユとの出会い、そして新たに祝福部門が立ち上がったこと。
今日が、クラリスと共に旅立つ日だということも。
「そう……祝福者を記録するのは、きっと、とてつもなく困難な道のりになるでしょうね。あなたの家族たちには、ちゃんと報告したの?」
「クラリスと、昨日のうちに行ってきました。それに、記紡者になった当日には、真っ先に孤児院へ顔出してますよ」
「寂しくなるわね」
「とはいえ、しばらくは別の地方に行く指令は出てないので……下手したら、七日も経たないうちに、またひょっこり帰ってくるかもしれませんよ?」
言葉を口にしたあと、リオットは照れ隠しのように、頬をかいた。そのとき、クンッ……とズボンの裾を引っ張られる感触に気づく。
目線を落とすと、先ほどまで店内を元気に配膳していたヒナリとルシオが、足元でじっとこちらを見上げていた。
ヒナリはどこか寂しげな表情を浮かべ、言葉にしきれない想いが、顔ににじんでいた。
一方のルシオは、まだ何も分からない様子できょとんと目を丸くし、ヒナリの服の裾を小さくつまんでいる。
「何処かに行っちゃうの?」
今にも泣き出しそうな、悲しみに沈んだ声だ。リオットは椅子を降り、二人と同じ高さに視線を合わせて、しゃがみこみ、優しく頭に手を置いた。
「旅に出ることになったんだ。すぐ戻ってこれるかもしれないし……もしかしたら、ちょっとだけ時間がかかるかも」
二人とも、まだ十歳にも満たない幼い子どもだが、それでも聡い子たちだということは、リオットもよく分かっていた。
だからこそ、この子たちにも、しばらくは会えなくなることを、ちゃんと伝えておきたかった。じわりと、ヒナリの瞳に涙が浮かぶ。
そんな彼女の様子を見て、リオットは苦笑をこぼした。
――ずいぶん懐かれたもんだな。
自然と思い浮かんだのは、昨日訪れたばかりの孤児院での光景。ひとりが泣き出すと、それに釣られて周りにも涙が広がって、泣き止ませるのにはずいぶん苦労した。
そして、リオットまでついもらい泣きしてしまった、という心温まるエピソードだ。
「でもさ、もう二度と会えないってわけじゃない。俺、ちゃんとまたここにくるから。また一緒に遊んでくれるよな」
そう、別れはあっても、帰る場所がなくなるわけじゃない。
記紡者の拠り所である世界樹は、この国に根付いている。だからどれほど遠くへ旅立とうとも、記紡者たちは必ず、この場所へ戻ってくる。
王都に、ゴーン――と澄んだ鐘の音が二度、ゆっくりと鳴り響く。太陽が天頂に差しかかり、昼の訪れを告げる合図だ。
ヒナリたちの頭に手を添え撫でたあと、リオットは静かに立ち上がった。
「道中、気をつけてね。無理はしないようにね」
「いい人材がいたら、スカウトして来てくれよ。うちも人手が足りてないんだ」
「明日には戻ってこいよー!」
「こいよー!」
店内の常連たちからも、それぞれに温かな言葉をかけられ、リオットは扉の取っ手に手をかける。そして一度だけ、名残を惜しむように振り返った。
「それじゃあ、行ってきます!」
お読みいただき、ありがとうございました。
明日は幕間という感じで、少し短めの話を投稿する予定です!
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