第一章 4話『光の輪郭に触れながら』
眠たげだったリオットの瞳が大きく見開かれ、くすんだグレーグリーンだった虹彩が、透き通った翡翠色へと変容していく。
彼の瞳に舞い上がったのは、花を思わせる繊細な紋。
それがゆっくりと回転を始めた途端、音も風も静まり返り、まるで世界が息を潜めたような感覚が広がった。
リオットの目に映る景色だけが、異なる理に導かれるように、静かに姿を変えていく。
世界全体が、束の間の暗がりに包まれたような感覚。
この力を使うたびに、リオットはそう思わずにはいられない。
景色はぼやけ、人の姿だけが際立つ。
リオットの目には、二つの人影――その内側には、脈動が絶え間なく続いていた。
片方は、あたたかな風に揺れるようなきらめき。もう一方は、隙のない線を描く整った輝き。
右がミレイユ、左がアゼル。そう感じ取ったリオットは、躊躇なく意識を左へ向けた。
祝福は、持ち主によってまったく様相を変える。
色も、形も、それぞれの本質に応じて変化するのだ。
アゼルから放たれているのは、彼自身の髪色を思わせる銀灰色。
それは脳を中心に蜘蛛の網のように幾重にも縫い込まれていた。糸目は意図された美を持ち、ひとつひとつが秩序立ってリオットの眼には映る。
身体じゅうに張り詰められたその模様は、まるで彼自身が繊細な工芸品と化したかのようだ。
輪郭がはっきりしてくると、リオットの脳裏にひとつの単語が滑り込む。遠い時代の記憶が、静かに開かれた頁のように、正確な形を持って現れてくる。
《視記》
「分類:感応系」
「性質:視覚記録型祝福」
アゼルの祝福は、外に向かう攻撃性も、他者を変える干渉性も持たない。すべては彼自身の内にあって、静かに、確実に、完結する。
目にしたすべてを刻み込み、必要とあらば正確に再現する――沈黙の底に広がるのは、膨大な知の蓄積。
静けさのなかに、重厚な情報を宿しながら、彼は記録という標本へと昇華していた。
◎◎
「内にある力を読み取られるって、どんな感覚? アゼル」
「中身を覗き込まれているという感覚だな。ただ、不快ではない」
「それって、アゼルがリオットに力の中身を覗かせてるからじゃない〜?」
「可能性は高いかもしれない」
「ふふっ、だったら。私の番は、ちょっとだけ抵抗してみようかしら?」
「なら、視認距離の対応範囲も確認したい。彼と10メートルほど離れた位置で試してくれ」
リオットが祝福を発動し、アゼルを凝視している一方で――アゼルとミレイユもまた、変化した彼の様子をじっと見守っていた。
沈黙のなか、彼の瞳がかすかに揺れた。くすんでいた色が濃くなり、瞳孔がゆっくりと広がっていく。
やがて、その中心に花びらの形をした魔法陣が浮かび上がり、音もなく静かに回り始めた。
アゼルは顎に手を添え、何かを測るような沈黙を落とし。唐突にアゼルが一歩動く。すると、その動きに引かれるように、リオットの視線も自然と追う。
アゼルが元の位置へ戻ると、リオットもわずかに重心を移し、まるで影が本体に寄り添うように視線を戻した。
「僕が走った場合、どう対応すると予測する?」
アゼルの問いかけに、ミレイユは軽く肩をすくめながら、意地悪く微笑む。
「そうね。きっと頭だけじゃなくて、体の向きも変わるでしょうねえ」
「……無防備だな。あの状態で攻撃されたら、防御は可能か?」
「ふふ、それも確認の余地あり〜、ね」
落ち着いた語り口の中には、対象を見透かそうとする鋭さを持っている。柔らかく届く声に耳を傾けながら、アゼルの指は黙々と動いていた。寸分の狂いもなく刻まれた数は、すでに90を超えている。
96、97、98――そして99。
「――ふう!」
100に届く寸前で、指の動きが止まった。
「99」
「かかった時間?」
アゼルは小さくうなずいた。
リオットはひとつ、深く息を吐いて呼吸を整えている最中だ。だが、振る舞いに極端な疲れは感じ取れない。
「視覚に過剰な負荷がかかっていないか?」
アゼルがわずかに眉をひそめながら尋ねる。
「あ、はい! 祝福者の力を読み解いたのは、今のところアゼルさん含めて三人ですけど、意外と何とかなってます。……たぶん、毎日ちゃんと修行してきたおかげかもです」
「修行ってどんな事をしていたの?」
「照明球に火のエーテルを込めて、明かりが消えるまでのあいだだけ、祝福を行使するってやつです。それから……俺の祝福って、ただ能力が分かるだけじゃなくて、祝福の流れみたいなものも、映るんです。それを追っていくと――先に祝福者がいるんじゃないかって思ってます」
「先へ辿ったことは?」
「……何度か、ありますよ。でも見ての通り、祝福使ってる時って集中しすぎて、歩けますが、色々とぶつかっちゃうんです。瞳の色も変わるみたいで……目立つっていうか。だから俺の祝福を知ってる人には、絶対に人前で使うなって、口が酸っぱくなるほど言われてて……はい」
苦笑まじりのリオットに、ミレイユは口元をそっと手で隠し、くすくすと楽しげに笑った。
「それで〜、あなたには、アゼルの力がどう映ったのかしら〜?」
「えっと……祝福者が纏ってる光の輪郭を認識すると、頭の中に言葉が浮かんでくるんです」
「言葉……?」
ミレイユが小さく首をかしげる。
隣のアゼルも、興味を引かれたのか、眉をわずかに動かした。
「祝福のかたちや微光の揺らぎを感じ取ると、その力がどの“系統”になのかが、ふっと頭に落ちてくるんです」
「ほう……祝福の系統か」
「へえ~、面白いわねえ」
ミレイユは微笑みながら、わずかに首をかしげる。
「先ずは、祝福者だけが知ってる名前――それが、心に響いてきます。そして次に、系統とか性質が頭の中で整理されて、言葉になってく……」
リオット自身、仕組みを正確に言葉にすることはできない。けれど、漠然とした感覚には、アゼルやミレイユもきっと覚えがあるだろう。
物心がついた頃から、誰にも聞こえない声が耳に届いたり、目に映るものに違ったり、言葉のやりとりがどこか噛み合わなかったり――。
そうした違和感が少しずつ積み重なった先に、自分が祝福者なのだと気づく。
そして、自らの理解とともに、生まれたときからずっと傍にいた“祝福の名前”が、自然と芽吹くのだ。
祝福とは何か――本質はいまだ解き明かされていない。なぜ限られた者にだけ、生まれつき特別な力が宿るのか。
世界樹からの贈り物。
そう語られることは多いが、真実かどうかは定かではない。
「把握できた。さて、僕の祝福がお前の目にどう映ったか、聞かせてもらおうか」
アゼルは瞳をまっすぐに向けたまま、落ち着いた声で促した。響いた声は、張り詰めた水面のように澄んでいて冷ややかで、感情の揺れひとつ許さない、完璧に整えられた音なき気配。
けれど、自分だけの名と力が、誰かの目に触れ、言葉にされるということ。それがどれほど重いことかを、すべてを記憶に刻むアゼルは、きっと誰よりも知っている。
無意識に背筋を伸ばしたリオットは、胸の奥でそっと息を吸い込む。唾をひとつ飲み込み、緊張に唇がかすかに動き、乾きを訴えるように舌が動いた。
「アゼルさんの祝福は、一度捉えた光景を逃さず記憶に刻み込む力。そして、祝福の名が“視記”と、頭の中に降りてきました」
リオットの言葉が、アゼルの胸にどう響いたのかは分からない。
だが、何かがかすかに波立つ気配がある。奥底に沈んでいたものが、そっと息をつくように動き出した。
静寂のなか、時間そのものが一瞬、凍りついたような時間が過ぎた気がして。やがて、僅かに息を吐き――。
「……視記、か」
呟きは、誰かに向けたものではなく、さながら自分の心に問いかけるような響き。
ついには、アゼルの整然とした表情が、小さな沈黙を挟んでわずかに緩む。それは、リオットがこの場で初めて見た、アゼルの柔らかな笑み。
「アゼルで構わない、リオット。……君の祝福が、僕の祝福を正しく見極めたということに、疑いの余地はない」
落ち着いた声の奥に、確かな信頼がやわらかく宿っていた。
「視記は、僕が生まれた時から持っていた祝福だ」
「あら〜、ふふっ。良かったわねえ、リオット。アゼルがあなたのこと、ちゃんと認めたみたいよ〜」
「え、ああ……ありがとうございます?」
ミレイユの独特な調子に、まだ馴染みきれないリオットは、戸惑いを隠せずに頭をかいた。
彼女の歩調に自然と引き込まれ、そっと背中を押されているような感覚がある。落ち着かないのに、不思議と安心してしまう――居心地の悪さと心地よさがないまぜになった、妙な空気に包まれていた。
緩んだ空気を引き締めるように、隣のアゼルがひとつ短く息を吐いた。何気ない仕草には、今まで感じさせなかった、親しみを感じさせる柔らかさがある。アゼルは顎に指を添えたまま、彼は落ち着いた声音で口を開いた。
「はあ。それで、君が言っていた系統についても、詳しく教えてくれないか」
「えっと……俺の中では、この祝福は感応系って整理されてて。性質は、視覚記録型とか、そういう方向に分類されます。……自分では、そんなふうに“捉える”って感じです」
「意外とそのままだな」
「結局のところ、全部俺の脳内が勝手に命名してるだけって話なんで」
肩をすくめて言うリオットに、ミレイユが小さく笑った。場の温度が少しやわらぎ、形式ばったやりとりの中にも、ほんのわずかに同僚としての感触が混じり始めていく。
「それじゃあ、次は私の祝福を――」
そう言って、ミレイユがふわりと手を上げた、と、そのとき。
リオットの背後から、さらりと風が吹き抜ける。
吹き込んだ風には、通り過ぎる空気とは異なる、微かな人の気配が混じっていた。後方から、木の根が絡み合いそのまま扉となったものが、「ズズッ……」と重々しく軋む音を立てながら、ゆっくりと開いていく。
続けて、コツ、コツ――と、均等な硬い足音が二度、静かに響く。軽快さは感じられないが、歩みに迷いはない。
それは、揺るがぬ自信と、研ぎ澄まされた品格をまとっていた。
リオットの身体が振り返る。先にいたのは、見慣れた顔。
「あ……」
「アルセリア聖騎士団のアレクシオン・トーミラン。ただいま、参上いたしました」
静かな威厳をまとった声が、部屋に落ちる。誇示することもない。にも拘わらず、空間を支配する風格を持っていた。
「同じく、アルセリア聖騎士団所属――クラリス・ロゼル、参上しました」
隣に立つ少女もまた、凛とした声で名乗りを上げる。けれど、名を告げられるより先に、リオットの意識は彼女を捕えていた。
「クラリス……」
ぽつりと名前が呟かれると、クラリスは蕾がほどけたみたいに、ぱっと笑みを浮かべた。晴れやかな笑みには、彼だけが感じる、温かなぬくもりがあった。
お読みいただき、ありがとうございました。
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