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エルの庭  作者: 空乃 みづい
第1章『記憶を紡ぐ者』
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第一章 1話『その声が試すもの』

 恐るおそる足を踏み入れた先は、薄暗く静まり返った空間。肌にまとわりつくような冷気に、思わず肩がすくむ。息を吸うだけで、空気の重みが肺にのしかかる。

 

 ところが――目の前には、まるで地下とは思えないほどの広がりがあった。装飾のない石の床と壁が無言で囲い、天井は高すぎて輪郭さえ曖昧に霞んでいる。


 唯一、視界に引っかかったのは、壁面を斜めに走る巨大な樹の根。

 その姿はまるで、この部屋の“血脈”のよう。脈を打つわけでもなく、それでも何かが確かに流れている気がする。


 辺りは、いくつかの小さな灯りが宙を漂い、地下特有の湿った空気にほのかな輪郭を与えていた。

 

 頼りないその灯りでは、奥の方までは見通せない。

 それでも誰かがそこにいる。そんな気配だけは、はっきりと感じられた。

 

 リオットの喉が勝手に鳴った。

 反射的に視線を左右へと滑らせた。


 その瞬間、小さな光の球がいくつか、ふわりと浮かび上がる。淡い炎のようにゆらめきながら宙を漂い、やがてひとつ、またひとつと照明球の光の中へと吸い込まれていく。

 

 火のエーテル。リオットはそれと直感的に理解した。

 直後、空気がぱんと跳ねたように反応し、天井に埋め込まれた光源が脈を打つ。爆ぜるように闇が割れ、視界が一気に開ける。


 「――っ」

 

 部屋の中央、一本の根の前に立つ人影が、ゆっくりとこちらを振り向いた。


「やっと来たか、リオット・カーロイ。……僕の時間感覚がおかしくなったのかと思った」


 低く落ち着いた声が、静寂を切り裂く。

 振り返ったのは銀灰の髪を持つ青年。その瞳は、氷を思わせるほどに澄みきっている。感情の起伏は読み取れず、それでいて視線は鋭く、何もかも見透かしているようだ。


「ふふ、気にしないで大丈夫よお。びっくりしちゃったよね、急に呼び出しちゃって」


 続いて姿を現したのは、腰まで届くモカ色の髪をふんわりと束ねた女性。

 その微笑みには冷たさも緊張もなく、春風のような穏やかさがあった。リオットの張り詰めた背筋が、ほんの少しだけ緩む。


「え、あ……はい」


 戸惑いながらも返事をするリオットに、彼女はにこやかに頷く。

 二人の姿が、あたたかな光に照らされている。

 片や刃のような静けさを纏う青年。片や陽だまりのような温もりを抱く女性。並び立つだけで、正反対の空気が交錯していた。


「緊張してる?」


「はい……緊張しすぎて、手の汗が気持ち悪いくらいです……」


「ふふ、なら、深呼吸してみましょうかあ。ほら、ゆっくり空気を吸い込んで……吐き出して……。もう一度、深く……そうそう、上手よお」


 彼女の優しさに導かれるように、リオットはゆっくりと息を吸い込み、吐き出す。胸の奥にこびりついた不安が、少しだけ剥がれ落ちていく気がして。


 その様子を銀灰の男は、呆れたようにちらりと一瞥した。


「……ミレイユ」


「ちょっとでも落ち着けたらいいなって、思ったのよお。ふふ」


 モカ色の髪をもつ女性――ミレイユをたしなめる男性の声に、彼女は楽しげに肩をすくめてかわす。その様子に、男はため息をつき、リオットをまっすぐ見据えた。


「僕の名前はアゼル・アルヴェルト。それで、彼女が――」


「ミレイユ・カータレット。これから、よろしくねえ」


「リオット・カーロイです……えっと、よろしくお願いします?」


 アゼルとミレイユが順に自己紹介を終えると、リオットもどこか不安そうに自分の名前を名乗った。

 するとミレイユは、パンと両手を打ち合わせ、もともと微笑んでいた表情を、いっそう嬉しそうに綻ばせた。


「礼儀って大事なのよ〜。ちゃんとできる子は、それだけで好印象なの」


「ミレイユ、毎回茶々をいれるな」


「でも、堅苦しいのって疲れちゃうでしょう?」


「無駄話は性に合わないんだ。本題に入ろう」


 わずかなやり取りだけで、どちらが主導権を握っているか、察しがついた。

 ミレイユが気ままに振る舞い、アゼルがそれに付き合う。整った顔立ちの青年だが、案外苦労人かもしれない。


 そんな思考が表に出たのか、アゼルの視線が鋭く刺さる。氷の刃のような眼差し。

 リオットは咳払いでごまかしつつ、姿勢を正して取り繕った。


「で、その……本題とは?」


「リオット・カーロイ。――自分がここに呼ばれた理由、わかっているか? 」


「……試験で、何か……不正を……とかですか?」


「あら〜、リオットはズルをしていたのかしらあ?」


 ミレイユは頬にそっと手を添え、困ったような笑みを浮かべながら小さく首をかしげた。その仕草は柔らかく親しげでありながら、どこかつかみどころのない奥行きを感じさせる。


 そのとき、不意に細めていた瞳がまつ毛を揺らして、開かれた。琥珀色の輝きがわずかに垣間見え、鋭くリオットを射抜くように注がれる。


 ヒュっと、喉の奥が鳴った。


「これは俺が軽はずみでした! でも誓ってやってませんから! 信じてください!」


 焦燥に駆られて声を上げ、両手を振り回すリオットの姿は、無実を訴える少年そのものだ。


 ミレイユが本気で怒っていないことは、どこかでわかっていた。けれど、あの瞳だけは別だった。魂の奥にまで刺さるような、底の見えない光。


 ――これは、やばい。


 心の奥で警鐘が鳴る。帰りたいという感情が一瞬、喉元まで込み上げた。


「ふふ、冗談よ。少しからかっただけだから、安心してね」


 その言葉に、リオットは膝の力が抜けそうになりながら、安堵の笑みを浮かべた。


「ははは、は〜。冗談でとても嬉しいです」


「……で、僕はいつになったら本題に入っていいんだ、リオット・カーロイ」


 この場に、自分の味方はいない――リオットは悟る。

 下手に口を挟めば、余計に事態をこじらせるだけだ。そう判断し、気まずそうに頭をかく。

 今は黙っているのが一番。それが自衛本能の囁きだった。


 対してアゼルは目を伏せたまま、わずかに眉をひそめた。

 その表情には、呆れ。そして、まだ始まってもいないのにすでに疲れているといった感情が、すべて凝縮されているかのようだった。


「これ以上、話が逸れないことを祈ってるよ。無駄が過ぎる」

 

 呟くように吐かれたその一言は、音量こそ控えめながら、場の空気が一瞬にして引き締まっていく。


 リオットは思わず返事が出そうになったが、寸前で押しとどめた。代わりに、わずかに頷いて応える。


 沈黙が一拍。


「では……まず、世界樹エルグラムとは何か。その問いから始めるとしようか」


 鋭利に細められた氷のような瞳が、リオットを射抜く。

 それは、試す視線。どんな細部も見逃すまいとする緻密な観察の気配をたたえていた。


 隣に立つミレイユは、相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。口元に手を添えながら、どこか楽しげに、けれど一言も発さず、じわじわと肌に染み込む重みを持って。

 

 リオットは、無意識に喉の奥を鳴らす。

 乾いた空気が気道を焼くようで、言葉すら弾かれるような、静謐が満ちていた。背筋を伸ばそうとしたが、わずかに震える。


 ――怯むな。ここで答えられなければ、すべてが無駄になる。


 自分に言い聞かせるように胸中で叱咤し。リオットは、胸にそっと空気を満たした。


「世界樹エルグラムは、この世界に起きたすべての出来事。草花の種類、魔法の発動、文明の終わり、人の始まり――それらを『記憶』するために存在しています。起源は……世界が始まったとき、最初に芽吹いたひとつの種とされていて、その記録が、今もなお残っています」


 アゼルの言葉が静かに続く。

 

「次に問う。我々記紡者が、なぜ世界樹に記録を刻む必要があるのか。答えてみろ」


「……世界樹エルグラムに記録されなかった出来事や存在は、やがてこの世界の理から抜け落ちていきます。忘れ去られたものは、概念としても消失し――やがて“忘魔”という異形の存在へと変質します」


 静寂の中で、リオットの声が広がっていく。


「だから記紡者は、記憶を記録し、繋ぎとめる役目を担うのです。出来事の証明であり、存在の保証。それが私たちの役割です」


「……では次。“忘魔”について詳しく述べよ」


 リオットは、瞬き一つ分の間を置き、答える。


「……忘魔は、『誰にも思い出されず、記録されることもなく、この世界からこぼれ落ちた存在』が、思念の塊となって異形化したものです。形も性質もさまざまですが、基本的には、小型・中型・大型・超大型……それと、人型の、五種に分類されています」


 ひと息置いたリオットは、そっと唇を舐め、ゆっくりと再び言葉を紡ぎ始めた。


「そして、世界樹エルグラムに『記憶』されて、完全に消える存在です。ですから、討伐しただけでは不十分で……記紡者がその情報を記録し、エルグラムに届けるまでは――何度でも、同じ場所に現れてしまいます」


 言い終えると同時に、喉の奥がからりと乾いた。しん、と張り詰めた空気が支配する。

 ミレイユは、柔らかい微笑みを崩さないまま、それでも確かに、どこかで彼の答えを秤にかけていた。


「最後に問う。祝福者とは何か――貴様は、それをどう見ている?」


 声のトーンに変化はなかった。けれど、微かに覗く鋭さが、尋問のようにリオットの胸を締めつける。


 リオットは一瞬だけ息を止め、意識的に空気を取り込む。

 喉の奥が焼けるように熱く、言葉が出てこない。


 ――ここまで来ただろ。声を出せ。

 

「……祝福者は、生まれながらにして“特別な力”を持っている者たちのことを指します。魔法とは異なる系統に属し、その多くは先天的に備わったものとされます」


 そこまで言って、リオットは唇をそっと舐めた。

 続けるべきか、それともこのまま黙るべきか――判断に迷いながらも、彼は口を開く。


「……その力の正体については、未だ不明な部分が多く、神話や伝承の中でも断片的にしか語られていません。けれど、それでも確かに、“世界が選んだ何か”であることに違いはないと、自分は……思っています」


 言葉を絞り出すように話し終えたあと、唾を飲み込むことすらためらわれる。ごくり――その音が、あまりにも場違いに響いてしまう気がして。


 室内に響いているのは、照明球のかすかな揺らぎと、エルグラムの根が軋むような音だけだった。

 腹の奥がじわじわと焼けるように熱く、喉の奥には一息さえも詰まったままだ。


 ――まずかったかもしれない。


 記紡者と忘魔については、自信があった。だが、祝福者に対する説明は、あまりに抽象的で、誰でも言えるような内容だった。


 この場で、あえてアゼルが祝福者に話題を振ったということは、その先を、求められていた可能性がある。


 アゼルの口元が、ゆっくりと開く。

 その動きが、判決のように見えた。


 ――終わった。


 胃の奥が重くなる。目の奥に、じわりと熱がにじむ。

 叱責の言葉が来る。それを待つように、ゆっくりと目を閉じた。


「まあ、こんなものか」


「え」


「ちゃんと勉強出来ていて、偉いわね〜」


「は」


「リオット・カーロイ。貴様をここに呼んだ理由を、これから説明する」


「……了解です」

お読みいただき、ありがとうございました。


今回は世界観の導入回ということで、まだ静かな立ち上がりですが、ここから少しずつ物語が動いていきます。


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