第二章 13話 『晴れのち、一歩』
リオットは、記録紙と小瓶から取り出した一枚の葉をそっと重ねる。空気が変わったのは、その一拍の後。
微かな音とともに紙と葉が淡い光に包まれていった。
風に揺れる若葉のように、淡い光はふわりと空間に舞い、ゆっくりと揺らめきながら形を変えていく。
光はやがて一本の軌跡を描き、中心に淡い輝きを残したまま、そこにひとつの影が浮かび上がった。
それは、小ぶりな鳥のような姿をしていた。
くちばしに書簡を咥え、羽をすぼめたまま、今にも飛び立とうとする瞬間をじっと待っているかのように、慎ましく佇んでいる。
全身は薄緑がかった半透明の葉で構成され、陽を受けるたびに微かに透ける。その翅の縁には、まるで生きた文様のように金の葉脈が細やかに走り、ゆらりと身じろぎするたび、きらりと陽光を反射した。
「……これが、使葉って言うんだ。今から、エルグラムへ飛ばすよ」
リオットが窓を開け、そっと飛ぶように促す。
使葉の身体がわずかに震え、ザワザワと葉の重なる音が室内に広がった。
ふわりと舞い上がったそれは、部屋の中を一周、また一周と旋回し――やがて勢いよく、窓の向こうの空へと羽ばたいていった。
光を受けてきらめく背が遠ざかるにつれ、小屋の中には、どこか柔らかな静けさが漂いはじめた。
風見鶏の軋む音だけが、ときおり微かに耳をくすぐる。
ベックは椅子の背もたれにぐっと体を預け、深く、大きくひとつ、息を吐いた。長い時間、胸の奥に溜まっていたものを手放すように。
「……村から出るのも、いいかもしれねぇな」
ぼそりと漏れた小さな声に、リオットがぱちりと瞬きをする。
「え?」
「いや……なんて言やいいか、うまく言えねぇけどさ。
今までずっと、足が動かなかった。でも……祝福が飛んでったの見たら、少しだけ、前に進めそうな気がしてきたんだよ」
言葉を探しながら、ベックは頬をぽりぽりとかいた。
その仕草には、どこか吹っ切れたような落ち着きがあった。迷いを抱えながらも、ようやく一歩を踏み出せそうな人間の姿。
ほんのわずかに背筋が伸び、視線は宙を見据えている。心の中で、長く降り積もっていた何かが、ようやく静かにほどけたのかもしれない。
そんなベックを見て、リオットが両手を机に置き、にっと明るく笑った。
「だったら、王都に来てみませんか? 俺の行きつけの酒場が、ちょうど人手を探してるらしくて。マスターもいい人ですし、住み込みで働けるって聞きましたよ」
「……ははっ、なんだそれ。やけに都合がいいな、おい」
「もちろん、すぐに決めてほしいとは言いません。でも……俺たちと途中まで、一緒に行ってみませんか? ウーレンの都まで。そこから引き返してもいいし、進んでもいい」
リオットの提案に、クラリスもそっと頷いた。
「今のベックなら、大丈夫だよ。……もう、ちゃんと前を向いてるから」
ベックはぽりぽりと後頭部をかきながら、ばつが悪そうに視線を逸らし、ふと窓のほうへと目を向ける。
古びた木枠の隙間から差し込む陽の光が、斜めに射しこみ、小屋の空気をやさしく包み込む。
埃が舞い、光の帯のなかで金色に揺れていた。
「……なるほど、差し込みやがったな。こりゃあ、本格的に追い出されてるのかもしれねえ」
苦笑混じりにそう言って、ベックはようやく立ち上がった。椅子が小さな音を立て、床板が軋む。
「……ちょっと荷物まとめてくるわ。少しくらいなら……歩いても、いいかもな」
静寂に落ちた響きを残して、小屋の奥へと足を運ぶベックの背中を、リオットとクラリスが並んで見送る。
窓辺から差し込む光が、薄く埃の舞う空間をゆるやかに照らしていた。光は、長らく止まっていた誰かの時間を、そっと動かす合図のように、静かにそこに在った。
昼下がりの空にはまだ少し霞がかかっている。けれど、麦畑を抜ける風はどこかやさしく、平穏な道のりを歓迎しているかのようだった。
三人は、村への戻り道を肩を並べて歩いていた。
ベックの背には、必要最低限の荷を詰めた、使い慣れていない小さな袋がひとつ。
歩幅はどこかぎこちなく、それでも確かに前へと進んでいた。
やがて、村の屋根並みが見えてくる。
通い慣れた道の先に、小さな宿屋がぽつりと姿を現し――その入口の前で、女将がのっそりと立っていた。
腕を組み、仁王立ちのまま尻尾を揺らしながら、じっとこちらを見据えている。まるで、彼がこの道を通ると初めから分かっていたかのように。
「いらっしゃい、ベック。……あら、アンタ、泣いた顔してるじゃないの」
どこか茶目っ気のある声が、いつも通りの調子で響く。女将の耳がわずかに動いた気がした。幻獣のそれが、ほんの一瞬だけ感情を伝えているように見えた。
ベックはわずかに肩をすくめて、そっと視線をそらす。
「……風が強かったんだよ。埃が目に入ってな」
「ふうん?」
女将はわざとらしく首を傾げて見せる。
「まあ、いいわ。ようやく話せたのね。あの子のこと」
ベックは一瞬だけ表情を固くした。だがすぐに、苦笑し、肩の力を抜いてうなずく。
「……ああ。あいつらのおかげでな。少し、吐き出せた」
「そうかい」
女将はそれ以上何も言わなかった。ただ、彼の目と声を確認するように、しっかりと見つめ返していた。
しばらくの静寂ののち、ベックがふっと息をついて口を開く。
「……明日の朝。コイツらと行こうと思うんだ」
ベックの放ったひと言は短かったが、そこに込められた決意は、誰の耳にも届くものだった。
女将はわずかに目を細め、やわらかく微笑んだ。
「そう。……じゃあ今夜は、あんたの門出に乾杯しなきゃね。特別な酒、出してあげるわよ」
「いらねえよ、高い酒は胃にくる。いつもの麦酒で頼む」
「はいはい、じゃあ麦酒にするから。お代は、明日の分も込めて前払いでね?」
そんな何気ないやりとりのなかに、小さな別れと新しい始まりの気配が、たしかに芽吹いていた。
その日の夜。
酒場には、賑やかな笑い声とグラスの触れ合う音が満ちていた。
ゆるやかに揺れる照明球の灯りが、天井に柔らかな陰影を落とし、誰かの冗談に沸く声が、木の梁を伝って心地よく反響する。
テーブルの上には、いくつもの空になったグラスが乱雑に並び、飲み干された酒の残り香が、暖かい空気の中にわずかに漂っていた。
交わされた言葉たちは、笑いと共に弾み、冗談交じりの吐息となって、少しずつ夜の帳へと溶けていく。
ベックは、テーブルの中央に据えられたエーテルの火をじっと見つめていた。燃え尽きかけの炎が、かすかに揺れながら、彼の瞳に映る。
幾度となく繰り返した深いため息をひとつ吐き、凪いだ揺らぎに身を委ねていた。
テーブルの端では、クラリスがすっかりリオットにもたれかかっている。
あどけない寝息を立てながら、眉間にわずかな皺を寄せ、夢の中でも誰かを守ろうとしているような顔。
肩を貸すリオットのまぶたも、次第に重くる。もうすぐ眠りに落ちる、少年と少女の、穏やかな時間が流れていた。
そんな様子を見やりながら、カウンターの向こうでグラスを拭いていた女将が、不意に声をかけた。
「なあ、ベック。……明日の天気はなんだい?」
女将の問いかけが、夜の静けさの中に溶けていく。
彼女のひと言に、ふと、酒場の空気が揺れた。笑い声はぴたりと止み、静寂が場を包む。
壁際の照明球が、小さな風にかすかに揺れ、揺らめく灯が空になったグラスの影を長く伸ばした。
ベックはほんのわずかに首を傾け、遠くを見るように目を細めた。そして、口元をほころばせる。
それは、いつもの飾らない笑み。けれど、その奥にあった何かが、遠くへ解き放たれていくような、そんな清々しさをまとっていた。
「明日、か……あの重てぇ空も、ようやく晴れそうだな……やっと、足が前に出る気がするよ」
声が告げた未来に、誰からともなく、小さな笑みがこぼれる。火の灯る夜の隅で、ひとつの旅の終わりと、始まりが、確かに重なり合っていた。
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