第二章 12話 『祝福者:ベック・アトン』
「ミナは今……何をしているのですか?」
「……ミナは、別の行商人と一緒に村を出たって、聞いたよ。俺はあれから、ミナに会うのが……怖くてな。ほんと、どうしようもなく怖かった。それに、あの村に行くとさ――ミナと過ごした、あの数日間が……まざまざと思い返されてきちまうんだ。だから今は、こうして一人で、ひっそり暮らしてる。……ハッ、笑えるだろ? いつまで引きずってんだか、な」
ベックの声は、乾いたようで、どこか湿っていた。
言葉の端に絡みつくのは後悔か、それとも安らぎか。リオットには、まだ分からない。
「上手く言えないけど……ミナさんのこと、ずっと大事にしてきたんですね。誰にも、打ち明けられないままで」
クラリスは息を詰め、そっと目を伏せた。
リオットは、そんな彼女の横顔をちらりと見やってから、視線を逃がさず、真芯からベックを捉える。
「でも――だからこそ、ベック。……そろそろ、自分のことも、許してあげてもいいんじゃないですか?この部屋は、とても温かい。でも、それと同じくらい……寂しい。ベックの祝福を“優しい”って言う人は、ちゃんといます。少なくとも――ここに二人。そして、村にも、もうひとり」
「優しい、か……なあ、リオット。ありがとな。……俺の祝福を、そんなふうに言ってくれてさ。……そうか。優しいのか、俺の祝福は。――もしかしたら、ミナの奴も……そう言ってくれたのかもなあ」
ぽつりぽつりと紡がれる言葉は、自分自身を宥めるようだ。ベックは片手で顔を覆い、もう一方の手で膝を握る。小さく息を詰めるようにして、肩を揺らす。
背中が音も立てずに丸まっていくその姿から、堪えきれない想いが滲み出していた。
外の風音がかすかに耳に触れる――それだけが、静まり返った部屋の音。
誰もその沈黙を破ろうとはしない。
ベックの胸に積もった年月と、言葉にできなかった痛みが、いまようやく形になって溢れ出しているのを、リオットもクラリスも、黙って受け止めていた。
「恥ずかしいとこを見せちまったな。いい歳した大の大人が泣いちまうなんてさ」
顔を伏せたままの声は、どこか自嘲気味で、それでもどこか清々しい。涙に濡れたその声には、ほんのわずかだが、張りつめていた何かがほどけた柔らかさがみえた。
「良いと思いますよ。私の同僚にも、ベックさんと同じ歳で訓練中にヒーヒー泣いてる人、いますからね」
茶化すというよりも、肩を叩くような言葉だった。ベックの頬がわずかに引きつる。
「その泣くは俺のとはまた別だろうよ。クラリス嬢ちゃん」
ベックは肩をすくめ、冗談めかして笑ったが、笑みの裏で、まだ少し赤い目元を隠しきれずにいる。
それでも、隠そうとはしない。過去と祝福を、ようやく真正面から見つめる覚悟が、そこにあった。
「ベック……貴方の祝福を記録して行きますね」
リオットは一歩、前へと踏み出す。
その声にはやわらかさがありながらも、芯の通った強さが宿っていた。言葉の端々から伝わるのは、責任と誠意――彼は視線をそらすことなく、まっすぐに相手の存在を受け止めていた。
その瞳には、揺るがぬ決意の光がしっかりと宿っている。
「おう……俺の祝福をよろしく頼むわって、その記録とか俺たちが見てもいい感じなのか?」
ベックが、わずかに首を傾けた。慣れない状況に戸惑いながらも、その瞳の奥には、どこか興味を引かれたような色が浮かんでいる。
「もちろん構わないよ。私も、記紡者の人たちに忘魔の細かい特徴とか、何度か質問されたしね」
「なんで俺の代わりに、クラリスが答えてるんだよ……。ま、そういうわけで、これからベックにもいくつか質問しながら、記録を進めていきます」
腰に提げられた筒状ケースは、深い栗色の革製だ。二本の細いベルトが真鍮色のバックルで留められ、口からは巻物がわずかにのぞいている。
リオットはその巻物を取り出して机の上で広げると、それを囲むようにクラリスやベックも近付いて来た。
「これは記録紙って言うんだ。世界樹から作られた紙で、ここに必要な情報を書き記していくんです。そして、この紙を世界樹に読み込ませることで、エルグラムはその情報を記憶していきます」
筒状のケースの中には、小さな仕切りがあり、そのひとつに細身のペンが丁寧に収められていた。
リオットはそれをつまみ上げると、掌で軽く転がしながら息を整える。そして、意識を集中し、ゆっくりとエーテルを流し込んだ。
すると、無機質だったはずのペンの軸から、音もなく、やわらかな枝がすっと伸びていく。続けて、小さな芽吹きがその先に現れ、やがて青々とした葉をひとつ、またひとつと広げ始めた。
葉紡筆――それは、記紡者だけに使用が許された特別なウィクラー。その材料については、特殊な鉱石から作られていること以外、一切が秘匿とされており。この筆はインクではなく、使用者のエーテルを糧にして、記録を綴っていく。
リオットは、先ほど視た祝福の流れや形、光の色を思い返しながら、記録紙に一つずつ情報を記していく。
浮かんだ性質や分類を整理しつつ、保持者の名前、祝福の名称、発現する能力の概要を文字に起こし、簡略な人型を描き、その上に祝福の形を重ねる。
「……これが俺の祝福」
リオットの手元で、一筋の線がゆるやかに走る。
祝福の形が、まるで命を宿すように記録紙へと描き込まれていく。その様子をじっと見つめながら、吐息と共に、言葉がこぼれた。
「……あるんだな、ちゃんと。いや、祝福者って言われてるんだ。あること自体は、まあ分かっちゃいるさ。でも、こうして形になって見えるなんてよ……正直、思っちゃいなかった」
「祝福は俺たちの傍にずっといますよ」
記録紙から目を離さず、手を止めることなくリオットが空気をすくうように呟く。
彼の筆先から記される祝福《空しるべ》は、まるでベックという人間を抱きしめるかのように、穏やかに紙面へと広がっていった。
「……リオット。お前さんには、祝福がまるで、生きてるみたいに見えてるんだな」
「そうかな。あんまり、そう見た事はないけど」
リオットは1度手を止めて、ベックを見上げた。
「ま、そういうふうに見えるのも……祝福が見えるお前さんならでは、ってとこか」
「……かもしれないですね」
言葉をひとつ零し、リオットは再び筆をとる。
静かな時間の中で交わされるやり取りを、クラリスは黙って見つめていた。
「よしっ! こんなものかな」
リオットは額の汗をぬぐいながら、手にしていた筆をゆっくりと置いた。クラリスが記録紙を手に取ると、ベックも身を乗り出して一緒にのぞき込む。
「すげぇな……ってか、意外と丸っこい字をしてんだなリオット」
ベックは肩越しに覗き込みながら、素直な感想を漏らす。
「まず指摘するのが字ですか、ベック。もっと、ほら、ありません? 祝福の形とかもろもろ」
「へぇ、ベックの祝福って青なんだ。私のはピンクだったよね。しかも……ほら、祝福の光が空に昇っていってる」
「ん?……クラリス。お前さんも祝福者なのかよ」
ベックが目を丸くして聞き返すと、クラリスは肩をすくめて答えた。
「ああ、そうでした。言ってませんでしたね。私も祝福者のひとりです」
「お前さんはどんな祝福の形だったんだ?」
視線を向けながら問いかけるベックに、クラリスは少し思い出すように首を傾げる。
「私のは確か……何だっけ、リオット?」
「クラリスの祝福は、心臓から光が広がっていく感じだったよ。……えっと、ベック。これを、世界樹に記憶させていくけど――いいですか?」
「気ぃ遣わなくていい。……お前さんが、筋の通った奴だってのは、ちゃんと分かってるからな」
言葉のあとに続いたのは、照れを隠すかのような小さな鼻息だった。
「ありがとうございます!」
クラリスが持つ記録紙を受け取り、リオットは締めくくるように自分の名前を書き加える。
「……で、記録紙はどうするんだ? 今からそれ持って、王都まで戻るってわけか?」
ベックは紙の上に視線を落とし、興味深そうに眉をひそめた。丁寧に記された線と文字のひとつひとつが、淡い光を帯びているようにも見える。
それは、祝福という名の“記憶”が、そこで確かに息づいている証なのかもしれなかった。
「いえ、これを使葉にして飛ばすんです」
「なんだそれ」
「見て貰った方が、早いと思うな」
リオットはそう言って、腰に吊っていた小瓶を手に取った。中には、エルグラムの葉と思しきものが何枚も、折り重なるように入っていた。
瓶の蓋を開けると、リオットはその中から一枚の葉を取り出し、掌にのせる。その指先には、微細なエーテルの気配が、淡く漂っていた。
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