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エルの庭  作者: 空乃 みづい
第1章『記憶を紡ぐ者』
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プロローグ 『記紡者のはじまり』

  思ってたのと違う。こんなはずじゃなかった。

 でも、きっかけなんて、たいてい、前触れもなくやってくる。


 エルグラム歴1462年、アルセリア王都の片隅にある酒場――『シャリエの杯』。


 古びた木の(はり)に、色褪せた航路地図。磨き込まれた床には、擦り切れたような靴の痕が床に刻まれている。


 焦げた香辛料の匂いと、揚げ油の甘い残り香が鼻をくすぐる。扉が開くたび、外気とともに漂う街の埃。

 銅製のランプが低く揺れ、グラスと皿の触れ合う音が、ざわめきの隙間を縫う。


 壁際のテーブルには、仕事終わりの傭兵、長旅に疲れた商隊、次の街へ向かう吟遊詩人。誰もがこの場所で、ほんのひととき心を休める。


 その隅、カウンター席のひとつに、ひときわ沈んだ背中がある。

 

 リオット・カーロイ、17歳。


 青黒い短髪に、灰緑の瞳。気怠げな目元には、疲れとも眠気ともつかない色が浮かんでいた。


「……やっと記紡者(きほうしゃ)になれたってのに、えらく浮かない顔だな、リオット」


 声をかけてきたのは、酒場『シャリエの杯』のマスター。しなやかな黒髪を後ろで短く束ねた長身の男で、黒い瞳はいつものように呆れた色を湛えていた。


「ぅぅ……聞いてくれよ、マスター!」


 バンッ。


 突っ伏していたリオットがカウンターを両手で叩いて顔をあげた。鼻先がぶつかりそうなほど、一気に距離を詰めた。


「近い近いな。お前は相変わらずパーソナルスペースって概念がないな」


「その、“ぱーそなるすぺーす”って……何かよく分かりませんけど、それより聞いてください、俺の話!」


「無理だ。あと、何回も言ってるが近い。離れねえと、あと三秒経ったら鼻をもいでやる」


「えっ!?」


「はい、三秒」


 マスターに額を軽くはたかれたリオットは、わずかに顔をしかめ、「鼻じゃない、でこだ」と小さくぼやいた。再び机に突っ伏すと、頭上から大きなため息が聞こえてくる。

 

「話なら聞いてやる。その前に、何かひとつ頼んでくれ。店に入ってすぐ突っ伏すやつなんて、見たことないぞ……いや、たまにいるな……」


「じゃあ、いつものカレー大盛りでお願いします」


 リオットは顔を伏せたまま、小さな声で注文を告げた。マスターは「はいよ」と応じると、彼の頭を軽くポンと叩き、調理台へと向かっていった。


 軽やかに響くフライパンの音、スパイスが香る湯気、窓から差し込む朝の光――どれもが、ごく当たり前の風景としてそこにある。


 けれど、それらはすべて、「当たり前」が壊された日々の果てにようやく戻ってきたものだった。


 あの災厄は、世界中に深い傷を残したまま、まだ完全には癒えていない。

 それでも人々は立ち上がる。今日という日常を、少しずつ取り戻そうとしている。


 リオット・カーロイも、そんな誰かのひとりだった。


 十年前、家族をすべて失ったリオットは、小さな孤児院に身を寄せることになった。

 腰の曲がった老夫婦が営むその家は、決して裕福とは言えなかったが、そこにはたくさんの幸せがあった。


 共に暮らした家族。血は繋がらなくとも、心を寄せ合った兄弟姉妹たちは、それぞれの道を歩き出している。


 騎士として軍に入った者もいれば、魔術を学ぶために他の地方へ渡った者もいた。

 それぞれが自分の未来へ歩み出すなかで――リオットは、幼い頃から胸に決めていた記紡者の道を選んだ。


「それで……記紡者になったってのに、なんであんな顔してたんだ?夢だったんだろ?お前にとって」

 

「いや……理由はあるんです。ちゃんと。希望してた部署と全然違うとこに配属されまして……なんというか、運命のいたずらというか……」


 はっきりとしない態度のリオットにマスターは片眉をあげて、グラスの拭いていた手を止める。


「あーあれか、魔物部門にでもされたのか?」


「……もっとヤバいかもしれない」


 リオットは力なく肩を落とし、スプーンを皿に置いた。スパイスの香りが漂ってきても、気持ちはまだ戻らない。そして、リオットはぽつりぽつりと、これまでのことを語り出した。


 ◎◎


 この世界は、五つの地方によって形づくられている。

 ヴァルミナ、カリサン、フィレナ、ベルミス、そしてノワルダの地。

 

 それぞれが異なる文化と自然を持ち、異種族が入り交じっているが、その中でも、最も長い歴史と、重みを持つ場所があった。


 ――アルセリア神聖王国。


 ヴァルミナ地方に広がるその国には、世界樹エルグラムが根を下ろしている。


 そのため、人々はアルセリアを“世界の中心”と呼ぶ。


 この世界には、こんな言い伝えがある。

 命には、三度の終わりがある――と。


 一度目は、肉体が朽ちたとき。

 二度目は、人々の記憶から零れ落ちたとき。

 そして三度目は――世界樹にすら記されなかったとき。


 記録されなければ、いずれこの世界から完全に消えてしまう。


 誰にも見送られず、誰の記憶にも残らず、ただ消えていくという終わり――

 忘却という名の死。


 記紡者とは、その忘却に抗うために存在する者たちである。


 世界中の出来事、人々の声、文化や記録――過ぎた時間の証を採集し、世界樹エルグラムに届けるのが彼らの役目だ。

 

 組織としての記紡者は、ふたつの役割に分かれている。


 ひとつは、情報を〈集める者〉

 植物、魔法、風土、生物……あらゆる分野に特化した部門が存在し、それぞれの専門家たちが現地へ赴き、記録を回収する。


 もうひとつは、それらを〈精査する者〉

 収集された情報を分類し、整え、保管する。通称“分類部門”は激務として知られている。


 分野は枝分かれのように細かく、すべての部門を把握しているのは、ただ三人。

 世界樹エルグラム本部にて職務にあたる継記主と、その直属の副官ふたりのみとされている。

 

 そして、記紡者になるには、ふたつの道がある。


 ひとつは、すでに記紡者として活動している者。五人からの〈推薦〉


 もうひとつは、記紡者になるための〈選定試験〉を受けることだ。


 選定試験は三段階に分かれており、まずは筆記による共通試験。記録の倫理、中立性、そして主観に流されない観察力が問われる。


 次に、志望する役割に応じた専門試験がある。

〈収集系〉と〈精査系〉に分かれ、現地での調査力や記述能力などが見極められる。


 最後は、面接だ。

 記すという行為の重みを問われ、覚悟がなければ通過はできない。


 なお、推薦を受けた者に限っては筆記・専門試験が免除され、面接のみで判断される――という特例がある。


 記録とは、ただの情報ではない。

 それはこの世界が確かにあったという、最後の証明なのだ。


 それでも、記されなかったものは、いったいどれだけあるのか。


 ◎◎


 面接を終え、合格を言い渡された直後のことだった。ようやく肩の力を抜こうとしたその瞬間、背後からひとつの声がかかる。


「君、ちょっと来なさい」


 声の主は、面接官のひとり。


 ややつり上がった目元に、世知辛そうな顔立ち。口調は丁寧だが、どこか有無を言わせない響きがあった。


 リオットが返事をする間もなく、男は踵を返し、足早に歩き出す。

 

「……え、ちょ、どこ……?」


 困惑を飲み込んだまま、リオットは慌ててその背を追った。男が向かったのは、エルグラム本部の中でもひときわ異質な構造をした場所。


 木の幹が幾重にも折り重なり、空洞のような通路が地下深くまで続く、螺旋階段の入口だった。


「下へ行きなさい」


 ただ、それだけを言い残し、男は姿を消した。


 ――ズルはしていない。というより、そんな余裕すらなかった。


 自分の力も、頭の出来も、特別じゃないことはリオットが一番よく分かっている。


 唯一、誇れるとすれば“祝福者”という素質だけだ。だがそれは、今回の試験では一度も使っていない。というか、使っても意味がなかった。


 今回志望していたのは〈収集系〉。外に出て記録する、いわば外回りの職種。


 だから、出題も実地形式だった。山道を越え、地形を記録し、環境と生態をまとめていく――かなりの体力勝負だったが、そこそこ準備はしてきたつもりだった。


 ――だったのに、どうして。知らず知らずのうちに、違反を起こしていたのか?


 考えても考えても、自分がどうして、こんなところに連れて来られたのか、皆目見当もつかない。


 リオットは、編み込まれた木の扉の前で足を止めた。その表面には、世界樹エルグラムの文様が刻まれており、目の前に立つだけで、何かを試されているような気配がある。


 喉の奥が詰まりそうで、息を呑んだ音だけがやけに鮮明だった。


「大丈夫だ、問題ない」


 リオットは小声で呟く。


 小さく呟いたそれは、酒場のマスターが教えてくれた“魔法の言葉”だった。

 不安なときはこれを言え――気休めでも、口にすれば少し楽になる。そう言って笑っていた。


 さらに、掌に“人”の字を三度なぞり、それを飲み込む。緊張を和らげるためのまじない。効果は分からない。でも、何もしないよりはマシだと信じた。


 両頬をパンッと叩いて、気合を入れる。


「ナムサンっ!」


 これもまたマスターの教えだ。


 「助けが欲しいときは、そう言え」と真顔で教わったが、当然ながら誰も現れない扉の向こうから返事はない。


 そりゃそうか、とリオットは小さく笑った。


 息を吸って、ためらいがちに、手を伸ばす。

 木の扉は音もなく、まるで待っていたかのように静かに開く。


 そして、リオットはその先へと、一歩を踏み出した。

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