第二章 10話 『あした天気になあれ』
少年には、少しだけ不思議な力があった。
朝の風の匂い、草の揺れ、空のかすかな明るさ――それらを感じ取ると、なぜか明日の天気が分かった。
村の人たちは驚いたりはしなかった。そして、少年の言葉にはそっと耳を傾けてくれた。
「明日は晴れるよ」
そんな一言で、畑に種が蒔かれたり、洗濯物が並んだりした。
ただひとり、村長だけは少しだけ違う顔を見せた。
ある日、少年を呼び寄せて、少しかしこまった声で言った。
「外の者には言うでない。その力のことは、口にするな」
理由は分からなかったけれど、少年は何度もうなずいた。最近、セカイはどうも騒がしいらしい。そう村長が言っていた。
そんなある日。
行商人の一行がやってきた。この村に人が来るのは、めずらしいことじゃない。けど、その中にいたひとりの少女に、少年はふと目を奪われる。
◎◎
小麦畑を抜けたその先、山を背にしてぽつんと建つ一軒の小屋が姿を現した。
木造の古びた家で、飾り気はほとんどない。ただ、色褪せた風見鶏の飾りが数個、屋根の縁に並べられているのが目を引く。
柵もなく、人気もないその小屋は、人が暮らしている気配すらなく、どこか物置のような佇まいだった。
リオットが無言で「ここ……?」と視線を送るよりも早く、ベックが肩越しに振り返って言い放つ。
「ボロ屋とは言わせねえぜ。此処が俺の一等地よ」
まるで自慢の城を紹介する騎士のような口ぶりだった。が、どう見てもその“城”には濠も門番もなく、せいぜい軒先の風見鶏たちが防衛線といったところだ。
「まだ、何も言ってませんが」
クラリスが即座に返す。言葉にはしていないものの、目線だけは雄弁だったらしく――、
「何言ってんだ嬢ちゃん、俺ん家が見えてからずっと、ボロっちいなって目ぇしてたよな」
思いっきり図星を刺されたクラリスは、口を開きかけてからぴたりと止まり、明後日の方向を視線を飛ばす。
リオットはそんなクラリスをじとっと見つめる。
「クラリス〜……」
「ちなみにな、記紡者――お前さんも、だ」
「リオット……」
今度はクラリスがじとりとリオットを見る番だった。
リオットは何も言わず、ただ麦畑の風見鶏に向けて小さくため息をついた。
その風見鶏もまた、「知ってたぞ」とでも言いたげに、ぎい、と鈍く首を回していた。
扉をくぐれば、ひんやりとした空気と、木と土の匂いが鼻をかすめた。
靴を鳴らす土間の先には、小さな卓と椅子がふたつ。素朴な暮らしぶりがそのまま形になったような、質素で手入れの行き届いた室内だ。
リオットの後ろから部屋を見渡していたクラリスが、小さくつぶやく。
「……中は意外と整ってますね」
その言葉に、ベックが肩越しにちらりとこちらを見やる。ふっと口元をゆがめ、呆れたように言った。
「礼儀がいいのは見た目だけかい、お嬢ちゃん。……案外、失礼なとこあるじゃねぇか」
「うっ……失礼しました」
「はッ……別に構いやしねぇさ。嬢ちゃんみたいな方が接して気が楽だ」
差し込む陽の光に照らされて、卓の上には一冊の手帳と一枚の紙が置かれていた。
年季の入った手帳に視線を落としていると、ベックが「見てもいいぜ」と軽く声をかけてくれる。
リオットが手帳を手に取ると、クラリスも静かに歩み寄り、隣から中身を覗き込んだ。
日付の横には今日の天気が簡潔に記されており、言葉は短いが、そこには不思議と几帳面な人柄がにじんでいる。
きっと毎朝、空を見上げて書きつけているのだろう。そんな姿が目に浮かぶような記録だった。
ベックは、手帳に夢中になっている二人をちらりと横目に見てから、キッチンへと足を運んだ。
使い込まれた棚からカップを三つ取り出すと、手慣れた手つきで湯を沸かしながら、背後に声を投げかける。
「お前さんらコーヒーは飲めるか?」
「俺は飲めないです」
「私も飲めません」
即答した二人に、ベックは心底呆れたというように息を吐く。
「ガキふたりって訳か……」
ぼそりとこぼしたその声に、思わずリオットとクラリスが顔を見合わせる。だが、文句を言う前に、ベックはすでに手を動かしていた。
慣れた手つきで粉を量り、コポコポと音を立ててお湯を注いでいく。その間にも表情は変わらず、どこか不器用な気遣いが滲みでる。
湯気の立つカップが三つ。
ベックはそのうちの二つに、惜しげもなくミルクを注いでいく。
「客なんて滅多に来ねぇからな。……ちょっとワクワクしてんだ、俺。だからまあ、ちゃんと――おもてなしはさせてくれよ」
ぶっきらぼうな口ぶりとは裏腹に、どこか照れくさそうな口元を隠すように、ベックはそっとカップを卓へ置いた。
白い湯気がふわりと立ち昇り、土間の空気をやさしく包み込む。
その横で、彼は棚から小さな缶を取り出すと、二枚のビスケットを手に取った。乾いた音と共に、控えめにカップの脇へ添えられる。
まるでこれくらいしか無いけどよと言わんばかりの、控えめだけど、それでいて温かな心遣い。
リオットとクラリスは顔を見合わせ、声を揃えて「ありがとうございます」と礼を述べた。
警戒されていると思っていたが、ベックの不器用ながらも誠実な心づかいに、ふたりはほんの少し肩の力を抜く。
緩やかな空気の中で、リオットは手帳を閉じ、静かに卓に置いた。目を向ければ、窓辺で小麦畑を見つめながら、ぼんやりと物思いにふけるベックがいた。
「……ひとつ、お願いしてもいいですか」
「ん?」
ベックが眉をわずかに上げる。
リオットは一拍おいてから、静かに口を開いた。
「俺の祝福……“識眼”は、人の祝福を視て識る力です。ただ、それを使うにはベックさんの許可が必要なんです」
ベックは目を細めると、ゆっくりと歩み寄り、リオットを見下ろした。その視線は威圧と探るような気配を帯びていた。
「視るだけで分かるんだろ? ……だったら、わざわざ許可なんて取らなくてもいいんじゃねぇか?」
「盗み見るなんて器用なこと、俺の祝福にはできません。どうやら、勝手に視ようとすると、相手のほうに、“見られてる”って感覚が伝わるみたいなんです。しかも、それが嫌悪感として反応することもあるようで」
旅に出る前の五日間、リオットは副官の二人から、「協力の要請は済んでいる。彼らに気づかれないよう祝福を視てくれ」と頼まれた。
数人の祝福持ちの記紡者に《識眼》を向けてみると、その反応は想像以上にわかりやすい。
多くは視線を受けた途端、何かに見透かされたような違和感に戸惑い、そっと周囲へ視線を巡らせていた。
後から聞いた感想は決まって同じで、「なんとも言えず、気味が悪かった」というものだ。
「それに、祝福を記すってことは、その人の生き方に触れることなんだって、初っ端から叩きつけられました」
脳裏に浮かぶのは、昨日会ったヴェネリカの、あの悪辣とした笑顔。
心のどこかを冷たく撫でていくような声色と、皮肉混じりの視線。そのくせ、言葉の芯は妙に的を射ていた。
一瞬、リオットの表情がわずかに揺らいだ。
ヴェネリカという同い年の少女に対して、どこか苦手意識――あるいは、妙な対抗心のようなものが自分の中に芽生えているのを自覚する。
対するベックは、湯気の立つカップをじっと見つめたまま、しばらく黙っていた。
やがて鼻先で軽く笑い、肩をわずかに揺らす。
「叩きつけられたぁ、ね……そりゃまあ、よっぽど下手な祝福者にでも会ったのか?」
じろりと暗い目がリオットを見る。
その視線に臆することなく、リオットは「そんなものです」と小さく笑って、姿勢を正し、まっすぐにベックへ向き直った。
短い沈黙。
ベックはひと息ついて、つぶやくように言った。
「……ああ、構わねぇよ。視てみな。どうせ、もう使ってねぇもんだ」
その言葉には、どこか遠くを見るような、静かな投げやりさがあった。
リオットは深く頭を下げる。
「ありがとうございます。それじゃあ、失礼します」
そっと目を閉じ、胸の奥で波立つ感情を押し沈めるように、ゆっくりと呼吸を整える。空気が肺に満ち、静かに吐き出されるたび、周囲の音が遠のいていく感覚があった。
そして、瞳を開ける。
リオットの視界が、じわじわと滲み始める。色彩が薄れ、音が遠ざかり、ただ一つ、光の流れだけが輪郭を強めていく。
自らの内側にあるものが、ひとつの回路を開いたのを感じた。
静かな覚悟とともに、リオットは《識眼》の祝福を解き放つ。
世界が切り替わる。現実の上に、もうひとつの真実が重なる音もしない変化が、彼の中に走った。
目の前に立つベックの身体から、一本、また一本と、淡い蒼の光がゆるやかに立ち上っていく。
その光は、鋭さも力強さも持たない。細く、どこか儚い。
風にたゆたう糸のように、静かに空へと昇っていく。
リオットは更に瞳を凝らす。
すると、それぞれの光の束の中に、かすかな揺らぎが存在しているのが見えた。
あるものは、湿った匂いを連想させる粒子をまとい、あるものは、遠くの空で鳴りかける雷鳴のような、微細な振動を孕んでいた。
それらは天へ向かいながら、途中でゆるやかに分岐し、何本もの細い糸となって空に溶けていく。まるで「明日」という名の空に向け、そっと問いかけるように。
やがて、情報が――言葉ではなく、感触のような確信として、リオットの脳裏に流れ込んできた。
《空しるべ》
「分類:感応系」
「性質:自然予知型祝福」
この祝福は、まだ訪れていない明日の兆しを、空気の中に見つける力。
視るのではない。嗅ぎ、聴き、触れ、味わい、そして感じ取る――五感すべてが「明日」のためだけに調律されているかのような祝福。
そこまでを確認すると、リオットは意識をゆっくりと戻し、祝福を閉じた。
張り詰めていた身体から力が抜ける。無意識のうちに止めていた息を、静かに吐き出した。揺らいだ空気の残滓が、ふわりと彼の前から消えていく。
胸元にそっと手を当て、リオットは自分の感じたままの言葉を紡いだ。
「空しるべ……ベックの祝福は、そう呼ぶんですね。優しくて、素敵な名前だと思います」
お読みいただき、ありがとうございました。
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