表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エルの庭  作者: 空乃 みづい
2章『祝福者たち』
18/26

第二章 9話 『小麦畑の邂逅』

「ベック……ベック・アトンさん。今は32歳らしいよ」


「天気が分からなくなったって……リオットは、それをどう感じた?」


 クラリスの声は、静かにリオットの思考を後押しする。やわらかな響きを帯びていた。

 足を止めたリオットは、ゆっくりと空を仰ぐ。高く澄んだ空を、細くたなびく雲が、音もなく流れていく。


 昨日も空はあった。そして、明日もきっと。

 けれど、その人の目には、もう映らない。


 リオットは胸の奥に浮かんだ感覚を、うまく言葉にしようとしながら、ゆっくりと口を開いた。


「うーん……祝福者から祝福が消えることは、たぶん無いと思うんだ。だから、単にベックさんが祝福を使うのをやめただけじゃないかな」


 祝福は“個”に刻まれた特別な力。

 それが消えるとすれば、それは本人もこの世から亡くなることを意味する。


「ベックさんが子供だったってことは……もう20年くらい前か。厄災の影響が、じわじわ広がり始めた頃と重なるね」


「……祝福者って噂が立つだけでも、人攫いに狙われやすいんだ。きっと、誰かがベックさんに忠告してくれたんだと思う」


 厄災が世界に牙を剥いたとき、各地は混乱の渦に呑まれていった。忘魔の襲撃により、数多くの村が滅びたという。

 混乱に乗じて人攫いも横行し、老若男女を問わず、多くの人々が行方知れずとなった。

 

 中でも被害が最も深刻だったのは――人間とエルフ、人間とベスタル、あるいはエルフとベスタルの間に生まれた“ハーフ”と呼ばれる者たち。

 

 そして、真偽が不明の“祝福者”と囁かれていた人々。


 2人は、ふいに重くなった空気を振り払うように、ゆっくりと周囲へと目を向けた。


 目の前に広がる光景は金の海。


 リオットとクラリスは、小麦畑を縫うように続く小道を、ゆっくりと歩いていた。


 人の気配はなく、風に揺れた麦の茎が時おり腕に触れては、くすぐるように通り過ぎていく。麦の穂がそよ風に撫でられ、さらさらと耳にやさしい音を立てていた。


 昨日、夕焼けに照らされた光景には静けさと余韻があった。けれど今、足元から視界の端まで続くこの景色は、生きている。


 目の前で息づき、きらめき、静かに語りかけてくるようだ。


 ただ中を歩く自分たちが、まるで夢と現の境をたゆた、不思議な浮遊感に包まれていた。


「……見てよ、この穂。麦ってさ、風に揉まれるほど、根を強く張るって言われてるんだ」


 リオットは、道端に揺れる一本の麦へと手を伸ばした。


 青みを帯びた若い穂が指先にふれ、かすかに震える。静かに触れただけなのに、小さな命が確かにそこに息づいているのを感じるほど。


芽季(がき)に播いた種が、葉季(ようき)には穂をつけて、収穫されるんだ。どれだけ土の水分を吸えるかで、出来が決まる。だから、この村の山間地って条件は、すごく理にかなってるんだよね。昼と夜の温度差もあるし、雨もほどよいし」


「……詳しいのね、リオット」


 クラリスが感心したように言うと、リオットは少し視線を逸らし、頬をかすかに赤らめた。


「これでも、植物部門を目指してたんだよ。……ま、気がついたらいつの間にか、俺は勝手に祝福部門にされてたみたいだけどさ」


 言葉の終わりに、リオットはじとりとした目でクラリスを見やる。あの日、突然現れた彼女に向ける、ささやかな抗議の眼差し。


 クラリスは気まずさを振り払うかのように、わざとらしく空を仰ぎ、後ろ手に組んだまま歩く速度を上げた。


「いや~……あはは」


 クラリスのとぼけた態度に、リオットは思わず吹き出した。肩の力が抜け、張っていた気がふっと緩む。


 大きく息を吸い込み、麦の香りを胸いっぱいに取り込む。朝露が土に沈んだ匂いと、空の青さが交じり合い、どこか懐かしいような安らぎが胸に広がる。


 ――静まり返った空気をやんわり破るように、背後から声が届く。


「お前さんが、俺を探してるっていう記紡者か?」


 クラリスはその声が届くよりも早く身構えており、リオットも一拍遅れて振り返る。


 風がひときわ強く吹き抜け、麦の穂をかき分けるように、ひとりの男が姿を現した。


 小麦色の肌に、無造作に束ねた長い髪。口元には、気怠そうに麦の茎をくわえている。くたびれた作業服には薄く泥が跳ね、膝や袖口はすっかり色褪せていた。

 

 陽を受けた土の上で、根を張ったかのように静かに立ち尽くす。鋭さを宿しながらも、どこか包み込む眼差しが、リオットとクラリスを静かに見据えていた。


「ベック・アトン……さん、ですか?」


 リオットが名を呼ぶと、男はわずかに顎を引いて頷いた。


 無言のまま、額に滲んだ汗を手の甲でぬぐう。その仕草には飾り気がなく、ただ日々を耕してきた者の静かな重みがあった。


「記紡者が俺に、何の用だが」


 彼の言葉にはかすかに()んだ響きをもち、疑念を含んだ目が二人に向かう。リオットが一つ息を吐いて前に出ると、クラリスは静かに構えを解き、彼の背へと下がった。


「記紡者のリオット・カーロイです。そして、隣にいるのは――俺の旅の仲間、クラリスです」


「クラリス・ロゼルと申します」


「……俺の名前、もう知ってるみてぇだけど。一応、名乗っとくよ。ベック・アトンだ。ベックって呼び捨てで構わねぇさ。……で? 記紡者のリオットくんは、俺に何の用だ?」


「じゃあ、ベック。あなたの祝福を記録するために、こうして会いに来ました」


 リオットの言葉が、麦の穂をそよがせる風に乗って、そっと広がっていく。


 数秒の沈黙が流れ、ベックは頭の後ろに手をやりながら視線を逸らした。

 小さく肩をすくめるその動作には、「やれやれ」とでも言いたげな、面倒くささの色がにじんでいる。


「……あ〜……あの、女将に何を言われたか知んねえけどよ」


 ひとつ息を吐いて、ベックは半ば笑うように言葉を継いだ。


「俺には祝福なんてもんはないぜ」


 人を突き放す声音だ。あっけらかんとした口ぶりの裏には、深入りされたくないという本音が透けて見える。

 長年の習慣のように、壁をつくることに慣れてしまっている男の響き。


 けれどリオットは、怯まずに小さく息を吸った。

 呼吸を整え、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「それじゃあ……確認してもいいですか? 本当に、ベックが祝福を持っていないのかどうかを」


「確認って、どう確認するんだよ」


「俺の祝福で、ベックを視させてもらいます」


 静かに、しかし決意をにじませて告げたリオットの言葉に、ベックの目がわずかに細められる。


 先ほどまで揺れていた麦がふと静止したように、彼の瞳にも言葉を飲み込んだ沈黙が落ちた。警戒。戸惑い。

 

 そして、どこか諦めにも似た色。

 

「……はあ、お前さんも祝福者かよ」


 困ったように頭をかきながらも、ベックは笑みを浮かべた。けれどその声には、戸惑いがはっきりとにじんでいる。

 否定も反論もせず、受け流していた。――それでも、触れられたくない領域に足を踏み入れられたことは、空気が雄弁に物語っていた。


「お前もってことは……やっぱり、ベックも祝福者なんですね」


「ご名答ってやつだな。ま、こんな所で立ち話も何だし……俺の家に来いよ」


 ベックは小さく肩をすくめ、観念したように口に咥えていた麦の穂を上下に揺らした。軽く手招く動きには、どこか茶化すような気安さが混じっている。


 リオットとクラリスは顔を見合わせ、短く頷き合うと、歩き出した彼の背を追っていった。


 柔らかな土の感触を確かめながら、三人は麦畑の小道をゆるやかに進んでいった。金色の穂が、肩先を撫でていく。


 先導するベックは、ときおりちらりと後ろを振り返った。その仕草には、無言の探りがにじんでいた。


 己の後ろを歩く少年――リオットの存在を測る動き。気軽に踏み込むには重く、かといって距離を置くには近すぎる。そんな微妙な間合いが、麦畑を渡る風の中に静かに溶けていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ