第二章 9話 『小麦畑の邂逅』
「ベック……ベック・アトンさん。今は32歳らしいよ」
「天気が分からなくなったって……リオットは、それをどう感じた?」
クラリスの声は、静かにリオットの思考を後押しする。やわらかな響きを帯びていた。
足を止めたリオットは、ゆっくりと空を仰ぐ。高く澄んだ空を、細くたなびく雲が、音もなく流れていく。
昨日も空はあった。そして、明日もきっと。
けれど、その人の目には、もう映らない。
リオットは胸の奥に浮かんだ感覚を、うまく言葉にしようとしながら、ゆっくりと口を開いた。
「うーん……祝福者から祝福が消えることは、たぶん無いと思うんだ。だから、単にベックさんが祝福を使うのをやめただけじゃないかな」
祝福は“個”に刻まれた特別な力。
それが消えるとすれば、それは本人もこの世から亡くなることを意味する。
「ベックさんが子供だったってことは……もう20年くらい前か。厄災の影響が、じわじわ広がり始めた頃と重なるね」
「……祝福者って噂が立つだけでも、人攫いに狙われやすいんだ。きっと、誰かがベックさんに忠告してくれたんだと思う」
厄災が世界に牙を剥いたとき、各地は混乱の渦に呑まれていった。忘魔の襲撃により、数多くの村が滅びたという。
混乱に乗じて人攫いも横行し、老若男女を問わず、多くの人々が行方知れずとなった。
中でも被害が最も深刻だったのは――人間とエルフ、人間とベスタル、あるいはエルフとベスタルの間に生まれた“ハーフ”と呼ばれる者たち。
そして、真偽が不明の“祝福者”と囁かれていた人々。
2人は、ふいに重くなった空気を振り払うように、ゆっくりと周囲へと目を向けた。
目の前に広がる光景は金の海。
リオットとクラリスは、小麦畑を縫うように続く小道を、ゆっくりと歩いていた。
人の気配はなく、風に揺れた麦の茎が時おり腕に触れては、くすぐるように通り過ぎていく。麦の穂がそよ風に撫でられ、さらさらと耳にやさしい音を立てていた。
昨日、夕焼けに照らされた光景には静けさと余韻があった。けれど今、足元から視界の端まで続くこの景色は、生きている。
目の前で息づき、きらめき、静かに語りかけてくるようだ。
ただ中を歩く自分たちが、まるで夢と現の境をたゆた、不思議な浮遊感に包まれていた。
「……見てよ、この穂。麦ってさ、風に揉まれるほど、根を強く張るって言われてるんだ」
リオットは、道端に揺れる一本の麦へと手を伸ばした。
青みを帯びた若い穂が指先にふれ、かすかに震える。静かに触れただけなのに、小さな命が確かにそこに息づいているのを感じるほど。
「芽季に播いた種が、葉季には穂をつけて、収穫されるんだ。どれだけ土の水分を吸えるかで、出来が決まる。だから、この村の山間地って条件は、すごく理にかなってるんだよね。昼と夜の温度差もあるし、雨もほどよいし」
「……詳しいのね、リオット」
クラリスが感心したように言うと、リオットは少し視線を逸らし、頬をかすかに赤らめた。
「これでも、植物部門を目指してたんだよ。……ま、気がついたらいつの間にか、俺は勝手に祝福部門にされてたみたいだけどさ」
言葉の終わりに、リオットはじとりとした目でクラリスを見やる。あの日、突然現れた彼女に向ける、ささやかな抗議の眼差し。
クラリスは気まずさを振り払うかのように、わざとらしく空を仰ぎ、後ろ手に組んだまま歩く速度を上げた。
「いや~……あはは」
クラリスのとぼけた態度に、リオットは思わず吹き出した。肩の力が抜け、張っていた気がふっと緩む。
大きく息を吸い込み、麦の香りを胸いっぱいに取り込む。朝露が土に沈んだ匂いと、空の青さが交じり合い、どこか懐かしいような安らぎが胸に広がる。
――静まり返った空気をやんわり破るように、背後から声が届く。
「お前さんが、俺を探してるっていう記紡者か?」
クラリスはその声が届くよりも早く身構えており、リオットも一拍遅れて振り返る。
風がひときわ強く吹き抜け、麦の穂をかき分けるように、ひとりの男が姿を現した。
小麦色の肌に、無造作に束ねた長い髪。口元には、気怠そうに麦の茎をくわえている。くたびれた作業服には薄く泥が跳ね、膝や袖口はすっかり色褪せていた。
陽を受けた土の上で、根を張ったかのように静かに立ち尽くす。鋭さを宿しながらも、どこか包み込む眼差しが、リオットとクラリスを静かに見据えていた。
「ベック・アトン……さん、ですか?」
リオットが名を呼ぶと、男はわずかに顎を引いて頷いた。
無言のまま、額に滲んだ汗を手の甲でぬぐう。その仕草には飾り気がなく、ただ日々を耕してきた者の静かな重みがあった。
「記紡者が俺に、何の用だが」
彼の言葉にはかすかに倦んだ響きをもち、疑念を含んだ目が二人に向かう。リオットが一つ息を吐いて前に出ると、クラリスは静かに構えを解き、彼の背へと下がった。
「記紡者のリオット・カーロイです。そして、隣にいるのは――俺の旅の仲間、クラリスです」
「クラリス・ロゼルと申します」
「……俺の名前、もう知ってるみてぇだけど。一応、名乗っとくよ。ベック・アトンだ。ベックって呼び捨てで構わねぇさ。……で? 記紡者のリオットくんは、俺に何の用だ?」
「じゃあ、ベック。あなたの祝福を記録するために、こうして会いに来ました」
リオットの言葉が、麦の穂をそよがせる風に乗って、そっと広がっていく。
数秒の沈黙が流れ、ベックは頭の後ろに手をやりながら視線を逸らした。
小さく肩をすくめるその動作には、「やれやれ」とでも言いたげな、面倒くささの色がにじんでいる。
「……あ〜……あの、女将に何を言われたか知んねえけどよ」
ひとつ息を吐いて、ベックは半ば笑うように言葉を継いだ。
「俺には祝福なんてもんはないぜ」
人を突き放す声音だ。あっけらかんとした口ぶりの裏には、深入りされたくないという本音が透けて見える。
長年の習慣のように、壁をつくることに慣れてしまっている男の響き。
けれどリオットは、怯まずに小さく息を吸った。
呼吸を整え、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「それじゃあ……確認してもいいですか? 本当に、ベックが祝福を持っていないのかどうかを」
「確認って、どう確認するんだよ」
「俺の祝福で、ベックを視させてもらいます」
静かに、しかし決意をにじませて告げたリオットの言葉に、ベックの目がわずかに細められる。
先ほどまで揺れていた麦がふと静止したように、彼の瞳にも言葉を飲み込んだ沈黙が落ちた。警戒。戸惑い。
そして、どこか諦めにも似た色。
「……はあ、お前さんも祝福者かよ」
困ったように頭をかきながらも、ベックは笑みを浮かべた。けれどその声には、戸惑いがはっきりとにじんでいる。
否定も反論もせず、受け流していた。――それでも、触れられたくない領域に足を踏み入れられたことは、空気が雄弁に物語っていた。
「お前もってことは……やっぱり、ベックも祝福者なんですね」
「ご名答ってやつだな。ま、こんな所で立ち話も何だし……俺の家に来いよ」
ベックは小さく肩をすくめ、観念したように口に咥えていた麦の穂を上下に揺らした。軽く手招く動きには、どこか茶化すような気安さが混じっている。
リオットとクラリスは顔を見合わせ、短く頷き合うと、歩き出した彼の背を追っていった。
柔らかな土の感触を確かめながら、三人は麦畑の小道をゆるやかに進んでいった。金色の穂が、肩先を撫でていく。
先導するベックは、ときおりちらりと後ろを振り返った。その仕草には、無言の探りがにじんでいた。
己の後ろを歩く少年――リオットの存在を測る動き。気軽に踏み込むには重く、かといって距離を置くには近すぎる。そんな微妙な間合いが、麦畑を渡る風の中に静かに溶けていた。