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エルの庭  作者: 空乃 みづい
2章『祝福者たち』
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第二章 8章 『パンと天気と、昔語り』

 男には明日の天気が分かる。それだけだった。


 ◎◎


 机の上には、湯気を立てる野菜たっぷりのスープ。

 隣には、幻獣ファルボリの肉を燻製にした厚切りのベーコンエッグが堂々と鎮座し、目玉焼きが贅沢にも一人に二つ――とろりとした黄身が今にもあふれそうだった。


 さっぱりとしたフルーツが彩りを添え、口直しの準備も万全。だが、何より目を引いたのは、その中央に山のように積まれた焼きたてのパンの数々だった。


 村の特産、小麦の香りがふわりと立ちのぼるそれらは、外はカリッと香ばしく、内側はふかふかと湯気を含んでいる。

 

 朝の光に照らされたパンの山は、それだけで村の誇りのように見えた。


「はい、召し上がってくれよ!」


 明るく声をかけながら料理を運んでくれたのは、ミルモアのベスタルの女将。


 短い角とぴょこんと立った耳、白黒の毛並みが愛らしいふくよかな体つき。


 仕上げにミルクを注ぎ終えると、ゆらりと尻尾を揺らして次の客のもとへ向かっていった。


「わあ……!」


「早く食べよう、クラリス! ……あ、でもその前に、ちゃんと手を合わせなきゃな」


「手……? なんで?」


「シャリエの杯のマスターが教えてくれたんだ。マスターの故郷では、食べる前に手を合わせて『いただきます』って言うんだってさ」


「へぇ……素敵な習わしだね。それ、けっこう好きかも」


 クラリスがぱちんと両手を合わせると、リオットもそれに続いて手を合わせる。


「いただきます!」


 二人の声がぴったりと重なって、テーブルの上にふわっと明るい空気が広がった。


 クラリスはさっそくパンにかぶりつき、「ん〜おいしっ」と口元を緩めた。どうやら気に入ったらしい。


 「あらためて確認しとくけど……探すのは、明日の天気が分かる祝福者、で間違いない?」


 パンを飲み込んでから、さっさと次のひとつに手を伸ばしつつ、クラリスがリオットに声をかける。

 一方そのころ、リオットはグラスの牛乳を飲み終えて、口元をぺろりと舐めていた。


「そうだよ。情報はもう20年くらい前になりそうだけどこの村には明日の天気が予測できる子供がいるって噂がたったらしんだ」


「子供って言ってたなら……今は20代の後半か、30手前くらいってとこかな」


 クラリスはパンを頬張りながら、咀嚼の合間にリオットへと返事を返していく。


 そして、ときおりこぼれる「美味しい」の一言に合わせて綻ぶ笑顔は、孤児院で共に過ごしていた頃と何も変わらない。


 彼女は当時から、誰よりも食いしん坊だったと、言っても、きっと言いすぎではない。

 それでいて、美味しいものをひとり占めせず、誰かと分かち合うことにも喜びを感じる人だった。


「うん……子供って情報しか残ってないから、その人が男なのか女なのかも分からないんだ。だから今日も、昨日と同じように、まずは俺が村を見て回るつもりだよ」


「リオット……」


 クラリスは、パンを手にしていた動作をそっと止め、心配そうにこちらを見つめた。わずかに揺れるまつ毛と瞳が、何かを言いたげに揺れていた。


「大丈夫だって。ちゃんと昨日の反省を踏まえてるから、クラリスに手を引かれて歩くようなマネはしないってば」


 苦笑混じりに肩を竦めると、リオットは手元のパンの残りを最後まで頬張った。空気が少し和らぎ、クラリスもほっとしたように息を吐く。


 やがて食後、リオットは空になった皿を丁寧に重ね、静かに片づけはじめる。


 そのとき、不意にふわりと、甘くやさしいミルクの香りが鼻先をかすめた。


 懐かしさが胸の奥に滲む。孤児院の朝食を思い出させる、あの穏やかなぬくもりと、心まで満たされるような匂いだった。


「おいしかったかい?」


 振り返ると、さきほど料理を運んでくれた女将さんが、両手で大きなポットを抱えながら、にこやかに立っていた。


 白黒の毛並みとふくよかな体躯。

 その笑顔は、湯気のようにあたたかく、見る者をほっとさせた。


「ええ、とっても。特にこのパン……何個でも食べられそうです」


 クラリスが素直に感想を述べると、女将は目を細めて嬉しそうに尻尾を左右に揺らした。


「そりゃよかった。あたしのとこ自慢の焼きたてパンだからね。今朝の粉も、村の新麦さ。香りが違うだろ?」


「うん、ほんとに」


 微笑ましいやり取りを横目に、リオットが立ち上がって礼を述べる。


「ごちそうさまでした。あの、ちょっとお聞きしてもいいですか」


「ん? なんだい?」


 女将はポットを脇に置き、興味深そうに顔を傾けた。その視線が、リオットのマントへと移る。


「そのマント……記紡者の印だろ? あんた、もしかして記紡者かい?」


 問いかけは穏やかだったが、どこか驚きを含んでいた。リオットは軽くうなずいた。


「はい、そうです。この村に、祝福者がいるって記録を確認したくて。できれば、明日の天気が分かるって祝福を探してるんですが……」


 リオットの言葉が終わるか終わらないかのうちに、女将の耳がぴくりと反応した。「ああっ」と短く声をあげ、ぱっと目を見開く。


 その瞬間、ぴょこんと立った耳が跳ねるように揺れ、ふわふわの尻尾が感情を隠しきれないように勢いよく左右に振れはじめた。


 その表情は驚きと喜びが入り混じっており、まるで昔の友人の名を聞いたかのような親しみを帯びている。


「それなら……うん、ベックかもしれないね!」


「ベック……?」


 リオットが小さく繰り返すと、女将はミルクポットを胸に抱え直し、懐かしむように目を細めた。


「昔ね、その子がまだ小さかった頃の話さ。天気をぴたりと当てるもんだから、“麦の精に耳でももらったのかい”なんて皆で笑ってたくらいでね。洗濯する日も、種を蒔く日も、彼が言えばみんな従ったもんだったよ」


「へぇ……すごい」


「けどねぇ――」


 そこまで語ると、女将の声にふと影が差した。


「ある年の春を境に、ぴたりと当たらなくなったんだ。晴れるって言った日に雨が降って、嵐が来るって言ったら風ひとつ吹かなかった。三度も外したら、さすがに村の皆も“あれは子供の勘だった”ってことで落ち着いて……今じゃ誰も気にしてないよ」


「……それって、祝福じゃなかったってことですか?」


 リオットが問うと、女将は肩を竦めて苦笑した。


「さあね。あたしらには分からないけど……それにあの年は……」


 女将は言いよどむように首をふって「いや」と声を出すと。


「これは私が勝手に言うもんじゃないね」


 女将は、言葉の途中でふと口をつぐむ。視線を足元に落とし、迷うように首をふったかと思えば、「いや」と小さく声にして、すぐにかぶりを振った。


「これは私が勝手に言うもんじゃないね」


 苦笑をこぼしながら、何かをそっと振り払うように。

 女将はふと遠くに視線を向け、目を細めると、静かな声で言葉を継いだ。


 そのふさふさとした尻尾が、名残惜しそうに一度だけ揺れる。


「麦畑の向こう、風見鶏のある小屋で作業してるはずさ。背が高いし、麦の間を歩いてたらすぐ見つかるだろうね」


「ありがとうございます。助かりました」


 深く頭を下げるリオットに、女将はにっこりと笑い、こう付け加えた。


「でもほんとに、記紡者って来るんだねえ……この村なんて、もうとっくに記録され尽くしてるもんだと思ってたよ」


「まだ、記録されてないことのほうが多いですから」


 リオットのその静かな返答に、女将は少しだけ目を丸くし、それから小さく頷いた。


「……そっかい。だったら、あの子のことも。もし祝福者なら――ちゃんと“記して”やっておくれね。ベックの祝福はとても優しいものだと思うからさ」

お読みいただき、ありがとうございました。


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