第二章 7話 『麦の海の向こうに』
「……行こうか、クラリス」
そう言って向きを変えるリオットの背に、ヴェネリカは依然として、何も言葉を返さない。
ただその瞳だけが、冷ややかに、けれど確かに、リオットの背を捉えている。
「ええ……リオット。それでは、失礼します。ヴェネリカ殿、そしてヤセル殿」
ふたりは再び並び、雑踏の中を歩き出す。周囲の喧騒が耳を打っても、彼らの背中に迷いはない。
露店の匂い、飛び交う声。それらを背にして、ふたりは確かに前へと進んでいった。
残された広場の片隅。喧噪はなおも絶えず、遠くで呼び込みの声や焼き菓子の香ばしい匂いが交錯している。
リオットとクラリスの姿が見えなくなった頃合いを見計らい、ヴェネリカはふっと小さく、ひとこと呟いた。
「……存外早く感謝をされたな」
唇の端がわずかに持ち上がり、面差しに影のような笑みが浮かぶ。真意は測れない。しかし、その表情には、どこか満足にも似た柔らかな陰りがあった。
そんな彼女の横で、ヤセルが微笑を含んだ声でそっと言葉を添える。
「ふふ……珍しく、お言葉が弾んでおられましたな」
「何を言うか、ヤセル。妾は、お喋りが大好きだ」
ヴェネリカは肩をすくめるように小さく笑い、視線をゆるやかに前へと移す。
そこには、彼女の営み。
色とりどりのウィクラーが丁寧に並べられた露店が広がっていた。
それらは、ただの品物ではない。
誰かの手に渡れば護身具となり、狩人には武器となり、そして彼女にとっては食材にもなる、愛しき魔道具たち。
ヴェネリカはその中からひとつを選び、ゆっくりと手に取って太陽にかざす。
透き通った結晶石が陽光を受けてきらめき、その奥底で、まるで命を宿したかのような光が揺らいだ。
淡く砕ける金の光がひとひらずつ舞い、まるで小さな生き物が瞬きするようにも見えた。
彼女はその輝きをしばし見つめ、宝石を慈しむようなやわらかな眼差しを向けて――ふ、と微笑んだ。
「はは、わざわざ海を渡った甲斐があったな。足を運んでこそ見えるものもある。帳簿を眺めるより、はるかに良い価値を見つけた」
ヴェネリカはひとつ、呟くように口を開きながら、手にしたウィクラーを自然な動きで口元へと運んだ。
その所作は、まるで果実にそっと口をつけるような、どこか優雅なものだった。
――そして、
小さな音とともに、硬質な殻が彼女の白い歯によって噛み砕かれる。
ガリ、と一度。続けて、ガリリ――と響く咀嚼音が、広場のざわめきの中に紛れていく。
振り返る者もいたが、ヴェネリカはそんな視線を意に介することもなく、淡々と口を動かしていた。
それは、妙に静かな時間だった。
あれほど際立っていた音が、砂に吸い込まれるように、ふっと消える。そして喉がひとつ、なめらかに上下したあと。
何もなかったかのように、彼女の唇から、すっと涼やかな声が落ちた。
「ヤセル……口直しに、甘いものを買うてまいれ」
「かしこまりました」
ヤセルはすっと一礼すると、広場の人波へ溶けるように歩き出す。残されたヴェネリカの視線は、なおも空にかざされた結晶の煌めきを追っていた。
◎◎
騎獣車の内部には、深い静けさが満ちていた。
車体がわずかに揺れるたび、座席の軋む音が控えめに空気を震わせる。外の喧騒はすでに遠く、残るのは、車輪が地を擦る柔らかな振動と、二人の呼吸の気配だけ。
リオットは背をシートに預け、静かに窓の外へと視線を移す。
夕暮れの空に照らされながら、遠ざかるウーレンの街並みが小さく滲んでいた。
煙が細くたなびき、家々の屋根がまばらに陽光を反射する。赤く染まったその光景は、どこか幻のように、非現実的な美しさを帯びていた。
記録という旅が、本当に始まったのだと――そんな実感が、遅れて胸の奥へ降りてくる。
そのとき、隣からそっと声が落ちた。
「まだ始まったばかりだよ、リオット」
クラリスの言葉は、どこまでも穏やかで、どこまでも優しかった。まるでこれから先を肯定するように、曇りひとつない声だった。
「ああ。分かってるさ」
「そ、ならいいけどね」
リオットは小さくうなずいた。けれど、その返事とは裏腹に、思考は別の場所へと引き戻されていた。
アイスブルーの髪。
あの少女の姿が、じわりと脳裏をかすめる。
まるでこちらのことを知っていたかのような、彼女の視線。ヴェネリカとその執事ヤセルの言葉からすれば、カリサン地方から海を越えてこの地にやって来たのだろう。
――ギルド連盟ベルティナ。
その名のもとで、祝福部門が噂として広まっているという現実が、じわじわと胸に重くのしかかる。
リオットは静かに息を吐いた。旅を始めたばかりだというのに、早くも予期せぬ謎にぶつかってしまった。
しかし、今は深入りしないと決める。考え出せば、きっと際限がなくなるから。
それに、今の自分が抱くべきなのは、疑念じゃない。
「俺さ、最初に出会った祝福者がヴェネリカで、本当によかったと思ってる」
異質で、威圧的で、常識の通じない存在。
でも、その彼女が、祝福者とは何かを見せてくれた。
何より、自分の未熟さを理解させてくれた。
だから、リオットが今、ヴェネリカ・ヴァレンティーナに向ける感情は、感謝だった。
「それは……私も思ったけど、あの態度はちょっと、ううん……かなり横暴だったね」
「クラリスのあの態度も、俺はちょっと驚いたよ。あんな強気に出られるんだな……いや、もともと強いのは分かってたけどさ」
「これでも私、ちゃんと聖騎士団の一員だよ。彼女みたいな人は珍しいけど……貴族の人たちと関わることは、まあ、そこそこあるかな」
クラリスは肩をすくめ、苦笑まじりにそう言った。気軽に話しているように見えても、相手が貴族である以上、それなりの気苦労があるのだろう。
そして、ふっと表情を引き締めると、クラリスは少し真剣な声で問いかけた。
「不運の子は良かったの? 最初はその子について知りたかったから、祝福を使ったのでしょう」
「うん、そのつもりだったけど……」
「けど、彼女に当たったってわけね」
「まあ、最初から目的地はメルナ村だったしな。それに、今から行く村での役目が終わったら、どうせまた戻ることになる。あの都って、他の領とか村への中継地点みたいになってるだろ?」
「それも、そうだね」
「それにクラリスの言った通り……まだ、始まったばかりだからな」
笑い合った、ちょうどそのとき――、カラン、カラン、と優しい鐘の音が空気を震わせた。乾いた金属音が、遠くからゆっくりと波紋のように広がっていく。
それは、騎獣車がまもなく目的地へと到着することを告げる合図だった。
「リオット、向こうを見て」
クラリスがふいに声をかけ、窓の外を指さす。
「……小麦?」
リオットが顔を向けると、視界の先には、遠くの丘に広がる黄金の風景があった。
風を受けた麦の穂が、斜面いっぱいにさざ波のようなうねりを生み、夕陽の光をさらさらと反射している。
その光景はどこか現実離れしていて、大地そのものが穏やかに呼吸を繰り返しているようだった。
麦の海の向こうには、小さな村が肩を寄せ合うようにして佇んでいる。木造の家々の屋根が、赤く染まりながら夕暮れの中に浮かび上がっていた。
「あ、あれが観光地としても有名な小麦畑か!」
思わず声を上げたリオットに、クラリスは「ふふっ」と短く笑った。
「うん、王都にも卸されてるよ。さっき食べたクリームパンにも、ちゃんとメルナ村の小麦が使われてたはず」
クラリスの返事は穏やかで、どこか誇らしげだった。
そんなやり取りを交わしているうちに、騎獣車はゆるやかに傾斜を下り、村の入り口へと差しかかっていく。
時刻はすでに萎の刻――夜の始まり。
空は仄暗く染まり、麦の海の端に沈みかけた夕陽が、名残惜しそうに空へ最後の光を投げかけていた。
辺りには人影もまばらで、どこか静けさの中に、夜の気配がじわじわと染み込んでいく。
「今日はもう遅いし、宿屋で泊まろうか。明日から、情報集めを始めよう」
「そうだね。今回は当たりだったらいいね」
グリュオンのたてがみを一撫でし、今日一日の労をねぎらうようにリオットたちは歩き出した。目指す先は、村の宿屋。今夜はそこで一息つくことになる。
二人はようやく、スタートラインへと立てたのだった。
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