第二章 6話 『与えられた立場』
ヴェネリカは、ゆっくりと舌先で唇をなぞった。
本来なら品を欠く仕草のはずなのに、彼女がやればそれはたちまち妖しく、見る者を惹きつける。
「造りは粗いが……ふむ、味は悪くない。妾の舌には合った」
「お口にあったようで何よりです」
「して……わっぱ。いつまで、呆けてるつもりだ。記紡者としての役目を放棄するつもりか」
ふいにかけられた言葉に、リオットは小さく瞬きをして我に返った。確かに、しばらく呆けていた。
でも、それも無理はない。目の前でウィクラーを食べられるなんて、誰だって動揺する。
何度でも言うが、ウィクラーは食べ物では無い。
手に取り扱うものだ。何事もなかったように振る舞える方が、むしろすごい。
「……いや、呆けるのも無理ないだろ。てか、なんで俺の――」
「役目を知っているか、だろう? 妾は情報に強い者を知っている。それだけのことだ」
「四大ギルドの一つ【アルノート】でしょう」
背筋を伸ばして、淡々とした表情でクラリスが答える。ヴェネリカの瞳が愉快げに細められ、口角を上げていく。
「ほう……女、知っておったか」
皮肉とも、感心ともつかない声色。
だが、クラリスは一歩も引かずに言い返した。
「女じゃありません。私はクラリス・ロゼル。それと……あなたが、さっきからわっぱと呼んでいる彼には、リオット・カーロイというちゃんとした名前があります」
「ああ、名を名乗られたことは光栄だがな……妾の脳には、他人の名など残らんらしい」
ヴェネリカは悪びれる様子もなく、まるで冗談を口にするかのように軽く言ってのける。
その飄々とした態度に対し、クラリスも静かに応じていく。
「そう……では、こちらも“女”と呼ばせていただきます」
一拍の間が流れた。だがすぐに、ヴェネリカの喉の奥から笑いがこぼれる。
「無礼、だが。クク……ハハッ! 面白いぞ、そなた!」
甲高い笑い声が響いた瞬間、場の空気が一瞬ふるりと波打った。
リオットは二人のやり取りに割って入るタイミングをすっかり見失い、数歩引いた位置から成り行きを見守るしかなかった。
ヴェネリカの声に呼応するように、クラリスの眉がわずかに動く。けれど、その表情に取り乱した様子はない。
むしろ静かに、ぴたりと間合いを詰めるように口を開いた。
「言い返されたくらいで、そんなに愉快なんですか?」
クラリスは、あくまで穏やかな声色のまま、わずかに顎を引いて問う。
その姿勢には、相手が誰であれ揺らがぬ芯の強さが滲んでいた。
「愉快とも、滑稽とも取れるな。……はは、妾に盾突く者と、こうして舌を交わすのは久方ぶりだ。妾はそういうの、嫌いではないぞ」
ヴェネリカは顎に指を添え、じっとリオットの方へ視線を向けた。
その瞳はからかいの色を帯びながらも、どこか興味深げに細められていた。唇の端がゆるりと上がる。
まるで獣が獲物を弄ぶような笑みだった。
「そなたの側仕え、なかなか骨のある女だな、わっぱ。」
「……人には自分の名前を呼ばせておいて、自分は他人の名前を呼ばないってのは、ちょっとおかしくないか。俺の名前はリオットで、彼女はクラリス。それにクラリスは側仕えなんかじゃない。俺の、大事な家族だ」
言葉を紡ぎながら、リオットは拳をぎゅっと握りしめた。視線は逸らさず、声にも迷いはない。
血の繋がりはなくとも、育った孤児院で共に過ごした時間は、かけがえのないものだった。
それを大切にしたいと願う心に、偽りなどひとつもない。だからこそ、リオットは真正面から言い切った。
ヴェネリカは、そんな彼の姿をじっと見つめていた。興味を引かれたように目を細め、やがて肩をすくめるように小さく笑みを浮かべる。
「旅、家族と……ははっ、これはこれは、良き話を聞けたものだ。――この情報、まだアルノートの奴らも掴んでおらぬのではないか? ……なあ、ヤセル」
「ええ、さように存じます、ヴェネリカ様。この一件で彼等の懐を揺さぶることが叶えば、かねてよりお目をかけておられる鉱山地区の情報も引き出せるかと存じます」
「そうであろう、そうであろう! あの堅物の、顔が歪むを見るのが……今から楽しみで仕方がない」
「アンタ達が何を言ってるのかは、正直よく分からない。でも、ヴェネリカ。アンタは俺のことを、なぜか知ってた。それに、自分の祝福の能力まで見せてくれた。……それってつまり、俺がアンタを“視てもいい”ってことなんだろうか?」
静かに、けれど意志を持って告げたリオットの声に、ヴェネリカの表情がわずかに揺れた。
「……記紡者殿。今の言葉、そなたが妾の理解者たり得ると、申すつもりか?」
それまでの飄々とした気配が霧のように薄れ、ヴェネリカの声には静かながらも鋭さが滲む。
冗談めいた空気はぴたりと止み、その瞳には、相手の奥を見透かすような光が宿っていた。
ヴェネリカの視線は、まるで一条の刃のようだ。
探るでもなく、迷うでもなく。
ただ真っ直ぐに見据える眼差しが、言葉以上に重く、静かな圧を帯びて追い詰めていく。
リオットの背筋を、ひやりとした感覚が這い上がる。その問いには、ごまかしも取り繕いも通じない。
彼女の奥底に触れるには、それなりの覚悟が必要なのだと、今になってようやく実感する。
――わかってはいる。けれど。
「……違う。そんなつもりじゃ、ない……けど……」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど頼りなかった。思わず目を瞑った奥で、ある光景がふと蘇った。
リオットがアゼルの祝福を視たあの時。
彼が祝福についてリオットに尋ねた声には、かすかに緊張がにじんでいた。完璧に見える彼でさえ、自身の祝福を明かすことには、少なからぬ覚悟が伴っていた。
それを――自分は。
「ハッ……話にならんな、わっぱ。祝福とは、祝福者にとって“根源”とも言うべきものだ。そなたも祝福持ちなら、それくらい分かっておろう? それとも、何も考えず、言われるままに祝福を世界樹へ記録させるつもりだったのか?」
「……」
リオットは、言葉を返せなかった。
喉の奥に何かが引っかかったように、声が出てこない。視線を逸らしかけたそのとき、ふと、隣からの視線に気づく。
クラリスが、静かにこちらを見ていた。
咎めるような色はなく。
信じて、待っているような、そんな眼差し。
「良かったなあ、世間知らずの記紡者殿。そして、そのご家族、クラリス・ロゼル。今こうして妾と相まみえて、そなたらはきっと、感謝することになるぞ」
その言い回しには、挑発の色がはっきりと滲んでいた。愉しんでいるようでもあり、皮肉めいてもいて、まるで何かを言い渡すかのような響きが、静かに場の空気を染めていく。
声を荒げるわけでも、力で押すわけでもない。
それでも、ヴェネリカの言葉は、聞く者の胸にひっそりと爪痕を残した。
リオットは、言い返すこともせず、ただじっとその言葉を受け止めていた。挑発に乗ることもできた。
否定することも、怒ることもできたはずだ。
なのに、直ぐには言い返せなかった。
ヴェネリカの言葉は、毒にも刃のようで。じわりと胸の奥へ沈み込み、音を立てずに確かな傷を残す。
どうして、いきなり彼女にここまで見下されるんだ?
リオットは喉元までこみ上げる思いを抑えきれず、胸の内で叫ぶ。
自分の旅は、まだ始まったばかりだ。
まだ何もしていないのに、何もできていないと決めつけられるような、そんな悔しさ。
でも、同時に気づいてしまった。
ヴェネリカの言葉が胸に刺さるのは、それが見当違いではなかったからだ。
リオットは、自分の旅をライラから、アゼルたちから、そして世界樹から“与えられたもの”として受け入れていた。
リオットは視線を落とし、無意識に拳を握った。
その手のひらに、じっとりと汗が滲む。
緊張か、怒りか、それとも覚悟か。それを確かめるように、彼はゆっくりと手を開いた。
真正面から向き合いたい。逃げずに、この場に立つ理由を、自分の言葉でつかみ取りたい。
深く、小さく息を吐く。
そして、顔を上げる。その瞳に迷いはなかった。
「……一理あるよ。確かに、俺はまだ現状に流されてばかりで、何も分かってない。祝福のことも、俺の立場も……」
声に出すと、言葉はするすると続いた。
悔しさ、無力感、そして小さな決意が芽生えていく。
「でも、祝福を視て記録するのは、俺にしかできないことだっていうのは分かってる。……それに、記紡者になりたいと思ったのは、紛れもなく俺自身の意思だ」
少しずつ迷いを手放していた。
言葉の端々に、自分の足で立とうとする気配が宿り始めていく。
「己が無知であることを、自覚できた。最初に出会った祝福者がヴェネリカで、良かったと思ってる。そして、貴方がその一片でも教えてくれたことに……感謝を。ありがとう、ヴェネリカ・ヴァレンティーナ」
言葉を最後まで言い切ったリオットの声は、かすかに張りつめたままだった。少しの間をおいて、彼はそっと頭を下げる。
けれど、そこには飾りのない素直な想いが込められていた。恐れでも、へりくだりでもない。
ただ、自分の至らなさを受け入れ、相手の言葉を大切に受け止めたからこその、真っ直ぐな感謝だった。
対するヴェネリカは、細めた瞳のまま沈黙を保っていた。けれど、その視線はたしかに、先ほどよりもリオットという存在を捉えている。
それは好意でも敵意でもなく、ただ静かな興味。
滅多に誰かに向けることのない、彼女なりの関心。
ヴェネリカは気まぐれな猫のように、笑みの奥で舌先を覗かせた。
お読みいただき、ありがとうございました。
次話は本日の21時20分に投稿を予定してます!
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