第二章 4話 『この視線の先に、何がある』
「さきほどは助かりました。お嬢さん」
「いえ、お気になさらず。私にとってはごく自然なことでしたので」
「おかげさまで、無事にたどり着けました。お礼としては心ばかりですが、王都で人気のパンをどうぞお受け取りください」
「本当に、お気遣いなく。……私は、すべきことをしただけですから」
「はは、お嬢さんはこれがお好きなようですな。どうぞ、受け取ってください。……そういえば、お二人の目的地はメルナ村でしたね? でしたら、まだメルナ行きの騎獣便があるはずですよ。今はちょうど開になったところですし、日が落ちる前には着けると思います」
おじさんが「それでは」と言って帽子を取り、軽く頭を下げる。リオットは控えめに礼を返し、クラリスは丁寧に深く頭を下げた。
ちょうど同時に顔を上げた二人。その瞬間、目が合った。ガタガタとその横を、騎獣車が通り過ぎていく。
「すぐに売り切れることで有名なクリームパンだ」
「あげないよっ!」
「まだ何も言ってない!」
リオットの叫び声が朝の空気に響き渡った。
“ヴァルミナの台所”と呼ばれる所以のとおり、ウーレン領の都には今もなお、さまざまな食材が絶えることなく運び込まれている。
その都を囲むように広がる牧場では、幻獣たちがのびやかに、ゆったりとした時の流れの中で過ごしていた。
「どうする? メルナ村に行ってみる? それとも、先にこっちで情報を集めてからにする?」
一度街の中へ足を踏み入れ、おじさんに教わった道をたどるリオットとクラリス。通り沿いには色とりどりの露店が軒を連ね、王都とは異なる賑わいが広がる。
香ばしく焼けた肉の串、湯気を立てる焼き立てパイ、甘く熟れた果実が丁寧にカットされた彩り豊かなフルーツ。
行商人の威勢の良い声と客の笑い声が交錯し、空気さえ、陽気に弾んでいるようだった。
食材の集まるこの街ならではの豊かさが、所狭しと並べられた品々から立ちのぼっている。どの屋台の前でも、思わず足を止める人々が後を絶たない。
そんな中、リオットはクラリスと半分こしたクリームパンをもそもそと頬張っていた。王都でも人気の品で、幻獣ミルモアの乳がたっぷり使われた、ふわふわで濃厚な逸品。
口いっぱい広がる甘みにつられて、次はしょっぱいものも食べたい。そう思うも、財布の軽さが脳裏にチラつき、欲望を飲み込んで、視線を落とす。
「……もうちょい我慢、だな」
誰にともなくつぶやいて、リオットは気を取り直すように動いた。首から下げていたグラス型のウィクラーに手を伸ばし、それを耳にかける。
「リオット、なにそれ?」
口の端にクリームをつけたまま、クラリスがそっとリオットを覗き込んでくる。リオットが呆れたように「ついてる」と指さすと、彼女は気負うこともなく、舌でそれをさっとぬぐい取る。
そして当たり前のような仕草で、今度はリオットの口元を指さした。まるで当然の流れのように。
「……特注で作ってもらったんだ。俺の祝福、発動すると目に模様が浮かぶだろ? それを隠すためのやつ」
気恥ずかしさを隠す為か、リオットは少し早口で顔にかけたウィクラーの説明をする。
「ふーん、ただのお洒落かと思ってた。グラス、ちょっと黒っぽい色がついてたし……リオットもそういうのが気になるお年頃ってわけだ」
「俺が身につけてる物は、全部この旅に必要なもの!」
軽口を返しながらも、その声にはどこか真剣な響きが混じっていた。そのまま意気込みとともに、リオットは祝福を発動させる。
視界がふっと暗くなり、世界が一段階、静かに沈む。グラス越しという一枚の壁を挟んだせいか、人々の輪郭はややぼやけていたが、それでも知りたいもの――祝福の痕跡は、確かに視えていた。
光は筋のように流れ、交差し、どこかへ導こうとしている。ひと通り確認を終えると、リオットは静かに目を伏せ、能力を解除した。
「さっきさ、騎獣便の中で不運の子の話をしてる人たちがいて……ちょっと気になって、この通りで発動してみたんだ」
クラリスは思わず息を呑んだ。
「リオット……見えたの? 祝福の光」
リオットは言葉を発さず、静かに首を縦に振る。今はもう視えないが、さっき祝福で見た光のラインは、この先きっと中央広場へと続いていたはずだ。
「広場に行ってみよう、クラリス。……もう一度、祝福を発動して、周囲を見てみたいんだ」
言いながら、リオットはすでに歩き出していた。胸の奥に芽生えた直観は、気まぐれなんかじゃないと、確かに思えた。
◎◎
風に揺れるは、澄んだ氷を思わせるアイスブルーの髪。そして、グラス型ウィクラーの下から垣間見えるは、血のように濃く深い紅の瞳。
そこにいるだけで、周囲の空気を一変させていた。まるで、この世界の理からわずかに逸れた、美しくも異質な気配をまとうように。
◎◎
広場には、数えきれないほどの露店が軒を連ねていた。まるで小さな祭りのような賑わいで、歩くだけでも気分が浮き立つ。
先ほど通った通りでは食べ物の屋台が目立っていたが、ここでは品ぞろえが一段と多彩だ。日用品や衣服、護身用の武具にウィクラーまで、ありとあらゆるものが軒を連ねている。
「もう一度、祝福を発動する。おそらく……無意識に動いてしまうと思うから……クラリス、俺が誰かにぶつからないように、見ていてくれ」
そんな賑わいに包まれた広場の片隅で、リオットたちはひそやかに話し合いをしていた。
「もちろん、任せてよ」
「ありがとう。……じゃあ、始めるな」
リオットは再びグラスを耳にかけ、祝福を発動させた。視界は色を失い、世界は静かに闇へと沈んでいく。その中で、わずかな光を探しながら、リオットはゆっくりと周囲を見渡した。
そして、右奥。そこに、ぼんやりとだが強く輝く光を放つ人物を見つける。輪郭は霞んでいたが、あの光は間違いない。祝福者だけが放つ、特有の輝き。
リオットの身体がふらりと揺れ、一歩、前へと踏み出した。目の前に人がいることも気に留めず。クラリスは咄嗟に彼の肩を引き寄せ、衝突を寸前で防いだ。
もう少しでぶつかりかけた男性は、訝しげな視線を二人に向けたが、クラリスが即座に頭を下げて謝ると、不満げながらもそのまま歩き去っていった。
その間、リオットはまるで何事もなかったかのように無反応のままだった。
かつて討伐した忘魔のひとつを、クラリスはふと思い出す。それは、夜にだけ現れる大型の忘魔で、強い光に異様な執着を見せる個体だった。
光に引き寄せられるように姿を現し――そして誘い込まれたところを、クラリス自身が仕留めたのだ。
今のリオットの様子は、あの忘魔とどこか重なって見えてしまう。引き寄せられるような足取りが、あの忘魔の姿と重なって見えた。
だからこそ、クラリスは祝福を使っているときのリオットを見るのが、あまり好きではなかった。
リオットの足が止まる。
たどり着いたのは、ウィクラーを扱う露店の前だった。彼は祝福を解き、耳にかけていたグラスを外す。
色を取り戻した世界に目を慣らしながら、視線を巡らせ、そして、目的の人物を捉えた。
生成り色の広いつばの帽子には、数々の造花。風に揺れるペールピンクのリボンが添えられている。
目元には、リオットと似た意匠の赤黒いグラス。
首元の幾重にも重なるフリル、宝石付きのリボンタイが彼女の貴族らしさを際立たせている。纏うのは、乳白色のドレス。
軽やかなシフォンが動きに合わせて揺れ、透け感あるチュールの袖、手首のレースが繊細な印象を添える。背には細いサテンのリボン。
まるで舞台の中心に立つために生まれたような、特別な気配をまとっていた。口元に覗く小さな八重歯が、その優雅さに牙を添える。笑っていても、獲物を味わうような匂い。
「わっぱ、客でなければ何処ぞにでも行け」
甘く響く声――けれど耳に残ったのは、硝子の破片のような鋭さ。
それは歓迎でも拒絶でもなく、ただ相手の出方をうかがうような気まぐれな調子だった。まるで、これから始まる遊びの幕開けを静かに告げているかのように。