第二章 3話 『強くなったから、ここにいる』
突如として停止した騎獣便に、凍りついたような静けさが、車内に満ちていた。
さらに、クラリスの口から「忘魔が群れている」と告げられたことで、乗客たちはざわつき始め、落ち着かない面持ちで次々に窓の外を見回す。
しばらくして、前方の操縦席から小窓がカタリと開いた。そこから顔を覗かせた操縦者は、脂汗を浮かべた表情で乗客たちを見回す。
「皆さま、前方にて小型忘魔が十数体、確認されました。無理に突破するよりも、南西の迂回路をご利用いただいた方が安全かと思われます。ただし、山沿いを通る形になりますので……多少、到着が遅れる可能性がございます」
クラリスは黙って小さく頷くと、ちらりとリオットへ視線を送る。
それを感じ取ったリオットは、腰に下げた花刻盤へと目を落とし、 そっとエーテルを注ぎ込む。
舞うように咲いたのは、〈掟〉の花。
時刻はちょうど中頃を示している。その下、次の蕾がかすかに開きかけていた。もし遠回りになれば、予測していた時間に目的地へ到着するのは、少し難しいかもしれない。
「まあ、別に急ぎってわけじゃないからな……」
言葉とは裏腹に、リオットの眉間にはかすかな皺が浮かんでいた。
自覚のないままににじみ出たその表情を、クラリスは見逃さない。どこかで「仕方ない」と自分に言い聞かせながら、無理に納得しようとしているように見えた。
だが、そうした沈んだ雰囲気はリオットだけのものではない。
騎獣便に揺られる他の乗客たちも、ちらりと手元の花刻盤を見ては、息を漏らして顔に影を落とす。
そのとき、後方の席から小さな泣き声が漏れた。
座席の端で、幼い男の子が母親の腕にしがみつきながら、服の袖をじわりと濡らしていた。
母親は懸命にあやしていたが、騎獣便に満ちた沈黙は、鋭く場を貫きそうな重さを帯びていて、子供はすっかり怯えてしまっているようだった。
クラリスはその様子に気づくと、歩を進め、そっと膝をつく。
子供と目線の高さを合わせると、やわらかく微笑みながら、言葉は発さず、手を差し伸べた。
掌から、淡い光がふわりと滲み出す。
祝福《共心の環》
クラリスが心をひらくと、静かに広がっていく温もりは、胸の奥にそっと触れた。その温かさが、やがて少年の胸にも触れたのだろう。目元の濡れ跡だけが、静かに残っていた。
「……だいじょうぶ。怖くないよ」
クラリスの穏やかな笑みに、少年はかすかに頷いた。そのまま母親の腕に身を預け、ようやく力が抜けたようだった。
その様子を少し離れた場所から見ていたリオットも、安堵したように肩の力を抜く。ざわめいていた視線がクラリスへと向けられ、誰かの吐息が、わずかに軽くなった。――ちょうどその時。
「やっぱりアレ……関係あると思うか?」
「不運のやつだったか?」
何気ない声色だった。けれど、耳に入った言葉に、リオットの意識は自然とそちらへ向いていた。
――不運。
その名称は、祝福者の候補者として情報が挙がっていた。その人物のまわりでは、決まって小さな事故が頻発する。
直接的な害こそ少ないが、それでも人々はじわじわと距離を取りはじめるという。
「でもあれ、ウーレン伯爵んとこの話だろ? こんなとこまで影響があるわけないって」
「……ああ、あの屋敷な。噂だと、子供をひとり引き取ってかららしいぜ。妙に事故が増えたって話だ」
「事故って、どんな?」
「ちょっとしたもんさ。その子供の傍で、棚が倒れたり、ランプが割れたり、犬が急に吠え出したり。人が怪我するようなもんじゃねえけど……続くとな。さすがに気味が悪い」
「それで不運って言われてんのか……」
「本人が原因かどうかなんて、誰にもわかんねえよ。ただ、近くにいると妙に落ち着かなくなるって。だから、誰もあんまり近づかなくなったらしい」
ただの迷信に過ぎないのか、それとも本当に祝福が関わっているのか。リオットは、もう少しだけ話の続きを聞いてみたいと思った――直後。
「……」
クラリスが迷いなく立ち上がる。
重苦しい中でも、その動きに躊躇いはなく、彼女は淡々と、しかし確かな足取りで降りる支度を整え始めていた。
「私が行くね。すぐに終わらせて戻ってくるから」
「クラリス、待ってくれ」
思わず伸ばした手が、彼女の手首をそっと掴む。
クラリスはその一瞬だけ目を丸くし、まばたきを一つ。それから、懐かしい笑みを浮かべた。それは、孤児院で何度も見た表情。
泣き出しそうな子や、わがままを言い張る年下たちをなだめるとき、クラリスがいつも浮かべていた、やさしくて、どこか困ったような微笑み。
リオットは少しばつが悪そうに瞳をそらしながら、説得を試みに入る。
「小型忘魔は知性が低い。あー、だから、こっちが下手に動かなきゃ手は出してこない。今は周りにも人がいるし……俺が使葉で報告を飛ばすから、無理してクラリスが動かなくても――」
「リオット」
その名を呼ぶ声は、変わらない。あの頃と同じ、まっすぐで迷いのない声。
「もし見逃して、別の人達が襲われたら、どう思う?」
「それは……」
「私は聖騎士団の一員として、この国を守る義務があると思ってる。たとえ今、制服を着ていなくても……その責任だけは、忘れちゃいけないから」
クラリスの瞳には、一切の迷いがなかった。
そして、視線をふっと伏せる。少しの間をおいて、もう一度、まっすぐこちらを見る。
「それに……私は、自分の力をリオットにちゃんと見てほしいんだ。私が士官学校に入ってから、もう3年になるよね。15歳の頃からずっと鍛えてきて……今は、本当に強くなったと思ってる。だから、私はここにいる」
心に根を張った言葉だ。
積み重ねてきた年月と覚悟をそのまま宿した、揺るがぬ証。クラリスは、いつも守る側に立っていた。
泣く子に手を差し伸べ、怯える子の前に立つ。孤児院でも、年下の弟妹――そしてリオットを支えてきた。
ゆえに、ここで立つ決意は、彼女にとっては自然なことだった。過去の延長でも偶然でもない。彼女が自ら選び取った道なのだ。
◎◎
クラリスは軽やかな身のこなしで、騎獣便の屋根へと跳び乗った。その瞬間、風がはらりと吹き抜け、二つに束ねた彼女の髪がやさしくたなびく。
クラリスは柄をしっかりと握り、風を裂くようにハルバートを振り上げた。
先には、小型の忘魔。
黒い影のような身体を蠢かせ、四足で地を這うそれらは、いまのところ群れをなしているだけだが、ひとたびこちらに気づけば、迷いなく襲いかかってくるだろう。
ならば、先に動くしかない。
攻撃を受ける前にすべてを焼き払い、しばらくのあいだ発生を止めておく。
それが、クラリスが今ここで取るべき最善の手。
忘魔に狙いを定めたまま、クラリスは無駄のない動作でハルバートを構え、静かにエーテルを流し込む。
刹那、刃に赤い光が灯る。
それは鼓動のように脈を打ち、揺らめくような明滅の中で、刃先の周囲に三重の魔法陣が浮かび上がる。
円環が重なり合い、空間そのものが軋むように震えた。
「――穿て」
《グレン・ブルーム》
囁くような一言と同時に、魔弾が火を噴いた。
放たれたそれは、紅蓮の槍のように空気を裂き、轟音とともに風を焦がして突き進む。
空中で弾けた火球は、まるで咲き誇る花のように散り、無数の小さな魔弾へと分裂した。
紅の閃光が、群れる忘魔の身体を容赦なく貫いていく。高く跳ねた火花が麦穂の上で舞い、炎が舞踊のように揺れ、そして静かに。
だが確実に、その命を焼き尽くしていった。
「……すご」
クラリスが強いことは、よく知っている。
何度も彼女に助けられ、その背中を追いかけてきたのは、他でもない自分だという自負がリオットにはあった。
だから、彼女が自ら聖騎士団に志願し、上級聖騎士の地位にまで登り詰めたのも不思議ではない。
それでも、どこかでリオットは、クラリスを昔のままの姿で捉えていたのだと、ようやく気づいた。
「ね、強くなったでしょ。私」
涼しい顔のまま。クラリスは騎獣車の屋根から軽やかに、無駄な音を立てず降りてきた。
自分の背丈を超えるハルバードを難なく扱う姿は、それが日常であるかのように自然だった。
周囲の同乗者や操縦していたおじさんから感謝の言葉をかけられる様子に、リオットは思わず「すごいだろ」と自慢したくなる。
けれど同時に、今のクラリスのことを、自分は何も知らないのかもしれない――そんな思いが胸に差し込んだ。
お読みいただき、ありがとうございました。
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