あるビルの話
うだるような暑さが続く10月、この地に生を受けた第一ビルは70年にも渡る命を閉じようとしていた。
『ふぁ〜』
この十五階建てビルから人影が途絶えて1ヶ月は経つ。
三階から十五階までの公共住宅は2ヶ月前にもぬけの殻となり、二階から地下一階に造られたショッピングモールも北村金具店が最後の店として撤退完了済み。最近ビルを訪れるのは解体業者と市の役人がもっぱらで、第一ビルにとって生きた心地がしなかった。ピカピカだった白い壁はくすみが目立ち方々の汚れは放置されたままであるが、手入れする人はもう居ない。地主の一人でオープン当初からある北村金具店が退去した日は、さすがの第一ビルも寂寥を感じた。棚も全て取り払われ配管も剥き出しとなり物音ひとつすら無くなった店内は、これほど広かったのかと改めて感慨に浸らせる。この地域で一番良い品を取り揃えていた金具店は孫に跡を継ぐ意思がなく消滅する一方、同じく地主で隣にあった森山医院は二区画先の通りにクリニックビルを建てて孫が頑張っていると聞く。
十人の地主達は自分が生まれる前に賃料の差が大きいだの地代が不公平だの口角泡を飛ばして喧喧諤諤の議論を一晩中していた時もあったらしい。だが世代も変わり店を売り払って山向こうのニュータウンに移り住んだ家族も多く、付き合いはめっきり減った。毎年近くの運動公園で催される地域対抗運動会でひとつひとつの競技に熱を上げ、昼夜を問わず共同体として一緒に張り切っていた家族達の姿は跡形もない。雑貨屋や魚屋・八百屋が県一番のスーパーや全国チェーンのファーストフード店となったのは、時代というものだろう。引っ越した後も子供と一緒に時折訪れてくれたものの、おにぎりの代わりにハンバーガーを頬張り喜ぶ子供達に反して少々感傷気味であった。そんな彼らも既に鬼籍に入っている。
生まれた当初は海の物とも山の物ともつかぬ第一ビルであったが、70年も経つと世の変遷にも敏感となる。十五階建の公団住宅とショッピングモールを組み合わせた最先端の設備は開店当初それこそ飛ぶ鳥を落とす凄まじい勢いで常時お客がごった返し、文字通り不夜城のごとく休む間も無かった。どの開店セールも柱が折れたり壁が割れないかとヒヤヒヤするほどで、必死で対応する店員さん達が懐かしい。駅から市役所に通じる商店街の一角なのでもともと人通りの多い地域だが、第一ビルの登場は近隣の街からもお客を呼び込むのに十分な広告塔の役割を果たし、市のドル箱施設になった。珍しい輸入品や大人気の玩具が入荷すれば瞬時に売り切れ、レジからお金が溢れかえって困るほどであった。
もう遥か昔の出来事だ。
あの頃の全てが良かったわけでは無い。度々警報が発せられた光化学スモッグは山が霞むほど濃く、タバコの投げ捨てで汚れた街並みはお世辞にも綺麗とは言えず、今日みたいに青く透き通った空は珍しい方だった。舗装が不十分でガタガタ鳴りつつ車やバイクが走っていた狭い道も片側三車線に拡張されて横断歩道で渡るのさえ一苦労な幅になったけれど、交通量が倍以上になっても排気ガスを出さない車は新車が多くて新しく植えられたポプラ並木通りをゆく人たちは昔より小綺麗な格好で歩いている。裏手の小学校の周りにあった長屋も取り壊され、マンションが立ち並ぶ。第一ビル自身も今では違法な毒が含まれ耐震性も悪いから、何度も改修した。加えて第一ビルの成功を受けて隣に第二、第三と更に高いビルが建てられるに従い肩身が狭くなっていったが、他のビル達は元祖である第一ビルに畏敬の念を抱いており、本人が思うほどではない。
だがそういった変化よりもニュータウンの方に超巨大ショッピングセンターが出来てから、流れが傾いていく。何やら法律が改正されて此処より五倍以上も広い店を建てて良しとなったらしい。そんな化け物みたいなビルを建てられたら、たまったものじゃない。当然商店街は反対したけれど、お上には逆らえない性分が遺伝子レベルで刻み込まれている国だ。皆予想はついていた。気づけば毎年客足は確実に遠のき、現実を冷徹に突きつける。だからここが再開発の対象になったのも必然と言えた。
取り壊されると聞いた時は何故自分がと怒り心頭で、ネズミに電線を齧らせて火事でも起こす誘惑にかられ、しばらく眠れなかった。けれど自分の他に第二ビル、第三ビルも含め全て壊して広域開発を行うと知ってからは、冷静になる。他のビルのイザコザをまとめてきた兄貴分として、最後にみっともない真似は晒せない。人間だったらこんな時は酒でも呑んで酩酊するのだろうが、動けないビル達はお互いの不遇を嘆きつつ静かに事の成り行きを見守るだけであった。
そんな第一ビルを心配して神様が来てくださったのも、今では良い思い出だ。人も絶えはじめた数週間前、うつらうつらしていると温かい光を背に神々しい姿の神様が現れた。
『万物は流転するのだ。ビルとして人々の生活に役立ってきたお前も、元は土砂や金属の塊でしかない。人間達が設計しお前に命を吹き込むことでこんな立派なビルになれたのだ。感謝こそすれ恨む筋合いはないだろう』
『そんなもんですかねえ』
いまいち納得できないが、ありがたい言葉として受け取る。
『それに解体したあとも、お前は残る。粉々に砕かれて野山や海に埋められても、何万年か先の未来に何かありがたい役割を与えられるかも知れぬ。その時まで気を長くして待つが良い』
『分かりました』
言われてみるとその通りかも知れず、ビルとしての自分が消えても欠片は方々に散らばっていく。ビルになる前は何者でも無い砂利や水だった訳で、単に元に戻るだけとも言えた。所詮、形あるものは壊れゆく運命だ。ただ途方もなく先の未来の話をされてもイメージが湧かない。再びこんな派手な表舞台に立つ機会は叶わぬかも知れないが、一度でも周りも羨む役割を与えられたのだ。ずっと何者でも無いまま生を全うする物たちより遥かに幸せと言えよう。
それ以来、第一ビルは静かに刻を待つだけになった。
しかし人間は冷たくなった。昔は汚くても熱量があった気もするが、ここ20年は特に下がったように思う。今日も第一ビルのお別れ会と称してささやかなイベントが催されているものの、ビルを訪れる人は稀だ。既に人間達への期待も薄れた第一ビルであったが、あれだけ沢山の家族の営みを支えてきた身にとって、あまりにも酷い仕打ちに思えた。人間と違ってどんな出来事も忘れないビル達は、その思いもひとしおだ。階段を滑る様に走り回っていた子供達、屋上で洗濯物を干しつつ談笑していたお母さん達、夜仕事で疲れ切った身を晩酌とお風呂で癒すお父さん達は一体どこへ行ったのだろう。あと数日で自分はフェンスで取り囲まれて、関係者以外二度と立ち入ることはない。人間達にとって自分が既に過去の遺物で訪れる価値もない小さな存在かと思うと、ちょっぴり涙が出そうであった。せっかく屋上に取り付けた20年ぶりのアドバルーンも他のビル達に埋もれて振り返る人が皆無なのは、時代の流れと分かっていてもやるせない。
どうやら令和では悪目立ちでも何でもして活動しなければ、人を集めることは難しいらしい。昔も広告費をかけていたが、今はさまざまな物が氾濫してあまりにもやることが多い。企画してくれた小さな広告会社の社員やボランティアで来た学生達は一生懸命なものの、予算の都合もあってこれ以上は難しそうだった。今更それを不満に思うほどの器量ではない。ひとつひとつを最後の思い出として、第一ビルは己の記憶に刻み込んだ。
『これも運命なんだろう』
意気揚々と背の高さを鼻にかけていた70年前の昭和ならいざ知らず、自分より遥かに高いビルがあちこちに建つ令和となっては自分の立場を弁えて謙虚になるしかない。
でもそれだって……
人間は死ぬ時にお葬式をあげる。昔は狭いながらもここで葬式をあげる時もあった。一人一人の命が消えるのは第一ビルにとっても悲しい出来事だったが、生前の思い出を話しながらあの世へ見送るのは生者としての礼儀と思い、第一ビルは自分が知覚できる範囲で死者を弔っていた。なので最後の運命が決まった自分にも、それなりの労いがあって然るべきではないか。だが現実は厳しい。あれだけの人間達を住まわせていた自分を思い返す人が皆無に近い事実を理解するのは、時々耐えられなくなる。
そうやって少々不貞腐れつつも最後の日までを凛として過ごす昼時のことである。
コツ、コツ……
誰かが、ビルの奥まで入って来た。
「じいじ、何か古くて怖い」
「そう言うなよ、おじいちゃんが子供の頃に住んでいたんだよ」
「へえ、こんな所に?」
やってきたのは初老の老人と孫らしき女の子である。
ヨボヨボで杖をつき、歩き方もぎこちなく、孫と老人のどっちが世話役だか分からない。その老人の言葉を聞く限り、以前はここの住民だったようだ。自分の為に来てくれた来訪者を嬉しく思う。既に電気も止められており廊下も薄暗いのは申し訳ないが、老人はさほど気にしていない。その面影を見て、第一ビルは一生懸命記憶を手繰り寄せた。
『誰だったかな……あっ!』
第一ビルは彼を思い出した。確か、ケイタと言ったはずだ。
『あのやんちゃ坊主が……』
あれは第一ビルが生まれて五年ほど、人生の絶頂期で得意満面の笑みで周辺一体の支配者として君臨していた頃に生まれた男の子だ。とは言っても当時の森山病院は毎日のようにお産を取り上げていたから、当時たくさん生まれた子供の一人でしかない。ただ印象に残る悪ガキだった。
とにかくビルの中をあちこち走り回り、ガキ大将として子供達を引き連れながら色んなイタズラをしていた。壁に落書きは当たり前、女の子を泣かせるなんてしょっちゅう、親にゲンコツをもらっても翌日は何食わぬ顔でイタズラに励んでいた。屋上でも走り回るから、第一ビルも万が一の事故が起きないかとヒヤヒヤしたものだ。そんな暴れん坊は中学になると当時の流行でツッパリになり、仲間と一緒に盗んだバイクで前の通りを爆音響かせ走り回っていた。悪いことは一通りしていたようだが、気付くと親元を離れて居なくなったから、その後どんな人生を歩んだのかは知る由もない。両親も定年になった三十年ほど前に郊外の一軒家を購入したとかで引越ししており、彼を繋ぎ止めるものは既に消え失せていた。
そんな彼が、壁に手をつきながら手すりのない階段をゆっくり上がっていく様は、意外である。自分が嫌いで壊してばかりと思っていたけれど、本心は別にあったのかも知れない。まあ実際あの頃は此処が本当に嫌で、その後の人生で改心した可能性も捨てきれない。いずれにせよ第一ビルにとっては貴重な訪問者だ。電気もガスも通っていないが、丁重に扱う。ひび割れた廊下にも事故が起きない様に頑張ってもらう事とした。老人は息を切らしながらも無事に九階まで辿り着く。
「確か961号室だったんだよな。いや〜疲れた。あ、ドア開くな」
「入っていいの?」
「誰も住んでないから、大丈夫さ」
もう廃ビルだから不動産業者もいい加減だったのだろう。幸運なことではあるが、第一ビルにとっては好ましい事態ではない。全く違う人が入居していたが、面影は残っていたらしい。玄関で座りこむ老人に対し、子供は気軽に中に入っていく。見るもの全てが新鮮に映るらしい。
「扉おっきい! 横に動く!」
「ふすまって言うんだ。昔は何処でもこうだったんだけどな」
「この部屋、板だけ! フローリングじゃなくて歩けないよ!」
「ああ、そこは畳敷だったんだ。もう取り払ったんだろう」
「台所に変なのある! これ何?」
「ああ、ガスコンロだよ。昔はこれが普通だったんだ」
「IHじゃないの?」
「そうだね」
部屋をひとしきり探検すると、子供は窓を開けてみた。
「ベランダ狭い!」
「ああ、バルコニーって言ってたな。サチと同じぐらいの子供だったときはカクレンボで入れたんだ」
「ほんと? 高くて怖いよ」
子供は恐る恐る小さなバルコニーを触ってみるが、錆びついた鉄パイプで汚れるとすぐに手を引っ込める。再び部屋の探索を始めると、お風呂場を見つけた。
「何これ? お風呂狭い!」
その子供は、狭いお風呂の脇についているボタンが沢山ある箱に興味を持った。老人も感慨深い目でその箱を眺める。
「へえ、まだバランス釜あったんだ」
「バランス釜?」
「ああ。あの時は最先端でな、まだ他の団地はお風呂が外付けだったし普通の家でも外れの薪風呂か銭湯だったから、家の中で入れるって凄かったんだぞ」
「へぇ」
子供にその凄さが微塵も伝わっていないのは、第一ビルも理解できた。70年前の最先端なんて、子供にとっては骨董品だ。沢山の職人さんが昼夜を問わずに働いて一番高性能の品を納入してくれた時が懐かしい。仕方ないこととは言え残念に思う。ただケンタがそれを誇りに思ってくれたのは嬉しかった。
二人は室内を一通り見て回ると、再び廊下に出る。もう帰るかと思ったら、老人は更に上を目指すようだった。子供は少々不満げながらも、一緒についてくる。
「じいじ疲れた〜 エレベーターないの?」
「すまないな。電気が止まってるようなんだ。どうしても屋上に行ってみたくてな。見晴らし良くて、一番好きな場所だったんだ」
「ふうん」
子供もそれ以上はごねずに黙ってついていく。どうやら屋上まで行くらしい。十五階までの階段は老人にとって苦行であろうが、第一ビルは直接手助けできない。その代わりネズミに頼んで、屋上入り口にかけられた縄をかじって切ってもらうことにした。小一時間ほどかけて、ようやく二人は屋上に出る。
「え〜 全然見えないじゃん。つまんない」
子供が文句を言うのもうなずける。第一ビルの真向かいには二倍近く高いタワマンが君臨していた。隣の第二ビル、第三ビルも第一ビルより高く、兄貴分とは言ったものの傍から見れば肩身の狭い老朽ビルに映る。老人も思った景色ではなかったようだが、心の目は違っていた。
「懐かしいなあ。あっちには通ってた小学校があるんだ。子供いなくなって廃校になったんだけどな」
その目は少し童心に戻ったようでもある。ただ子供は老人の講釈を聞いてもつまらないらしく、勝手にあちこち歩き回っていた。柵は子供が乗り越えられない高さなので事故の心配はないものの、久しぶりの屋上での戯れに、第一ビルも落ち着かない。70年前には想像もしていなかったこの時期の暑さだけれど、最後まで役割を全うすべく二人の安全を見守っていた。老人は子供を気にしつつも一つ一つの景色を目に焼き付けようと時間をかけて散策する。子供の方は疲れて飽きたのか、日陰で座り込んでいた。
……
「もう良いかな。帰ろっか?」
老人は満足したのか、子供に帰るよう伝える。
子供もさっと入り口まで戻って来た。
「ねえじいじ、パパとママはいつ帰ってくるの?」
「……」
子供の何気ない言葉に、老人は声をつまらせる。
「……そうだなあ。ちょっと遠いところに行ってるからなあ。じいじとばあばじゃ嫌かい?」
「嫌じゃないけど……」
子供もそれ以上は言えなさそうだ。何も言わずに手を繋ぎ、先ほどよりも慎重に階段を降りていく。無事に一階まで辿り着くと、そのまま外に出た。
『さようなら……』
心でつぶやく第一ビルに気付いたのか老人は振り返ると一礼し、急かす子供の手に引かれながら駅の方へと歩いて行った。