仕事を抜け出すから…聞かせて。
これは、夏の思い出。
古ぼけた鉄筋コンクリート構造の五階建て。
百人以上の従業員が、仕事に勤しむ平日の午後。
その最上階の一番西の部屋で、オレは背中を丸め、利き手の人差し指に神経を尖らせている。
机の上に、おおいかぶさるようにして、ゆっくりとそれに触る。
ほんの少しずつ、上下に動かす。
反応を見ながら、少しずつ。
「……あ……」
かすれた声が出た。
この辺りか。
顔にじんわりと汗が浮かぶ。
舌先で唇の端を舐める。
わずかに塩の味。
オレは心臓をドキドキさせながら、また人差し指に力をこめる。
「……ん、ばっ…」
バカだと言われてもいい。
昼休みが終わって一時間しか経っていない。
しかも、仕事を抜け出して、ここに来ている。
オレは、バカだ。
わかっている。
それでも、我慢できなかったんだ。
利き腕とは反対側の腕で、抱えこむようにして、耳元に神経を集中させる。
ごくり、と、喉が鳴る。
もう少し。
あと、少し…
早く、早くしないと。
誰か来る前に。
人差し指に力が入る。
指先の感覚を追う。
耳元に聞こえるかすかな声を頼りに。
ゆっくりと、感応するところを探す。
「……あぁー!」
ここだ。
オレは慎重に、その位置を把握する。
間に合っただろうかーー?
「アァアーーーー!」
「あーーーー!!」
その時、廊下側からドアが開けられた。
「……何やってんだ、お前」
間に合わなかった。
オレは両手で頭を抱えて、床にうずくまった。
机の上からは、昂った声が出続けている。
何を言っているのか、わからない。それでもオレはその声に耳を傾けてしまう。
ドアを開け先輩は、室内を見渡し、状況を把握したらしい。オレを見下ろして、憐れむように笑った。
「情けないな…。必死かよ」
「オレは……オレは……!!」
涙で視界が滲む。
「決勝戦をリアルタイムで応援したかっただけなんです!!」
「でも、お前の高校負けたよ?」
「マジですか?!」
「マジマジ。スマートフォンの方で聴いてたからなー、俺は。さっき、3番バッターの権田原がいいヒット打ってなー」
「まさか…」
「逆転して、そのまま一点差で俺の母校が勝ったぜ〜」
「あぁーー!」
「試合終了のサイレンはさっき聞いたからいいって」
「ちくしょう!今年こそ!今年こそ!」
「いやぁ〜、大変だなぁ。俺らが甲子園に行って以来だから、十年振りかぁ〜。寄付金集めとか始まるだろうから、俺の財布は寂しくなるなぁ〜」
「自慢にしか聞こえない!オレだって、オレだって!”甲子園出場おめでとう!寄付金貯金”ずっとしてるのに!
いつになれば、引き出せるんだぁ!!」
オレは立ち上がって、机の上に設置したダブルカセットの赤いラジカセにおおいかぶさった。
「なんで、チューナーが合わないんだよぉ!」
「それ、普段は別のラジオ聴いてるからなぁ」
「FMのばかぁっ!」
「AMって面白いか?」
「高校野球は、AMです!」
「いや、今どきスマホアプリだろ」
「月末で通信制限になっちゃったんです!」
「エロ画像ばっかり探してるからだろ」
「してません!」
今日は、県の高校野球決勝戦だった。
奇しくもオレの母校と先輩の母校で、甲子園の切符を争うことになった。
是非とも、リアルタイムで応援したい。
休憩室のテレビは、昼休み終了間際に、バイトの子がアンテナ線に足を引っかけてプラグを壊してしまい、見ることができない。
だが、応援をしたい。
そういえば、台風で帰れなくなった時にみんなでラジオを聞いていた。あのラジオを聞けば。
そう思ってはるばる五階にまで来て、チューナーをいじっていたのに。
試合終了のサイレンと共にチューナーが合ったラジオは、今、朗々と先輩の母校の校歌を歌いあげている。
「あぁ〜、わーれらーのぉ」
そして、それに合わせて声を張り上げる先輩の姿。
社内の野球部で一番信頼できる先輩だが、この時初めてぶん殴ってやりたいと思った。
じっとりと顔に浮かんだ汗の上を涙が流れていくのを感じた。
こうして、オレの夏は終わった。
最初に誤解だと言いましたよ!(*´Д`*)
公式企画の夏ホラーの題材を熟考していたら、雑念が固まりました。
地区予選の決勝って、熱いですよね。(`・ω・´)