黄色い薔薇
大通りに面した、比較的小さなビル。そこの一階にレンガ風の出入口があった。
ビルの中のオフィスへの入り口では、無い。都会のビルに度々見られる、地下の店に繋がる階段の出入口である。
目立たない出入口から階段を降りると狭い踊り場と渤海料理のチェーン店があった。
「お待たせしました。餃子定食です。」
店員が20代前半の女性に食事を運ぶ。客はその女性、一人しかいない。
六人掛けのテーブルに一人で座っている女性は少し周りをはばかりながら食べる。とは言っても、周囲には誰もいないのだが。
チェーン店らしく最低限の内装はされているが、お世辞にもお洒落とは言えない。女性の席から少し離れたところには大型テレビがあり、プロ野球の中継をしている。
(美味しい!)
女性は至福の一時を過ごす。
ゆっくりと食べ進めてそろそろ食べ終わりそうになったころ、ふと携帯を見ると通話アプリVIAの着信が来ていた。
『杏里、雨が降ってきたけど気を付けろよ』
「え?雨?」
杏里は外の様子を確認しようとしたが、地下だから窓は無い。
『天気予報は終日晴れ』
そう送ると、杏里はさっさと食べ終わって再び携帯の画面を見た。VIAの通知を確認するためではない、それは無視だ。杏里が確認したかったのは、時間だ。
(そろそろいい時間ね。)
会計を済ませると杏里はドアを開けて踊り場に出る。
「あ・・・。」
外から雨の音がした。
「天気予報が・・・。」
そう溢しながら杏里は階段を上って地上に出ていく。湿った怪談の地面を見て抱いた嫌な予感は、地上に出ると的中した。
(こんな土砂降りだなんて・・・。)
杏里は意を決した表情をした。このまま、土砂降りの中を近くの地下鉄の駅の入り口まで、突っ走るのだ。
近隣の入り口まで、わすが数百メートルだ。走ったら数分もかかるまい。そう思った杏里は、スカート姿でありながら道に出て走り出す。
しかし、まもなく彼女は後悔した。数百メートルとはいえ、土砂降り過ぎて前も碌に見えない。そして、全身びしょ濡れだ。
杏里は信号も碌に確認せずに、走り続ける。幸いにも青信号のようだ。目の前に地下鉄の入り口がある。さあ、入ろう!と駆け込んだ瞬間、悲劇は起きた。
ドスン!ズルズル。
一瞬、杏里は何が起きたのか、理解できなかった。
勢い余って地下鉄入り口の階段でこけて、そのまま滑り落ちたのである。
幸いにも大きなけがは無かった。
杏里は周りを見る。階段の折り返し地点の踊り場のようだ。周囲に人はいない。
誰の助けもないまま、痛みを堪えて立ち上がる。泣いても誰でも助けには来てくれないのだ。
念の為にスマホを確認すると、無事だった。安心した杏里は、雨に濡れている階段の残りをやや慎重に降りていく。
すると、さっきまでの様子が別世界であるかのように、明るい地下街が広がっていた。
階段を下りて向かって右側の奥に改札口がある。杏里は改札口の近くで人を待っていた。
「おい、杏里、どうした?」
改札口から近付いてきた男の第一声は、戸惑いの声であった。
「え?」
「え、じゃねぇよ。顔から血を流している女に迎えられるの、初めてだぞ?」
「え?」
慌てて杏里は手鏡を出して自分の顔を確認する。頬から血が一筋、垂れていた。
「キャッ!」
「今頃気付くってことは、大したことなかったんだな。良かった、良かった。」
男は冷めた目で杏里を見る。
「天気予報が外れてゲリラ豪雨が来た、って送ったのに未読スルーするからだよ。」
「そんなの聞いてない!」
「そりゃ、未読にしていたら見ていないわな。で、その傷はどうした?暴漢か?鎌居達か?」
「そう!暴漢に襲われて!・・・じゃなくて、さっきこけちゃったの!」
「は?」
「え?」
「え、じゃねぇよ。お前、ドジっ子のキャラだったか?」
「うるさい!」
「じゃ、取り敢えず喫茶店でも行こうか。」
「あぁ、もぅ。」
男は改札から地下道を歩いて数分の喫茶店に杏里を連れて入った。
「はい、タオル。」
男が杏里にタオルを渡す。
「あら、先輩らしからぬ優しさね。ありがとう。」
そう言いながら杏里は椅子に座る前にタオルを受け取って軽く水分を拭き取り始めた。
「・・・彼女のだよ。」
「はぁ!早く言ってよ!」
杏里は慌てて男にタオルを突き返そうとする。
「仕方ないだろ、彼女が、俺が雨に濡れないか心配で渡したタオルなんだ、別のやつが濡れちゃったらそいつに貸すしかない。」
「いや、そう言う問題じゃないでしょ。」
「それと、はい、絆創膏。」
「いや、だから!」
「消毒液もいるか?」
男は杏里が受け取らなかった絆創膏を机の上に置いた後、鞄から消毒液を取り出してその横に置いた。
「彼女さんの絆創膏を貼る訳にいかない!」
「バカ言え、流石にそれは俺のだよ。」
「なんでそんなに女子力高いの?」
「そこはジェントルマンだと言って欲しかったな。」
「え?貴族はジェントリーじゃない、って先輩、前言ってなかった?」
「お前がそんな話を覚えているとは驚きだよ。」
「勧学院時代は先輩と一緒にバスケをして楽しかったなぁ。」
「高校のバスケ部は男女別だったはずだが。」
「忘れても無駄よ!俺は貴族だ、と粋っていた先輩のチームを、紅白対抗戦で破ったんだから!」
「あれは人数でハンディがあったからだろ。同人数だったら女子に負けねぇよ。」
一息ついて男は言った。
「それで、あいつのことを知りたいんだな?」
「そう。」
杏里は席に着きながら答えた。
「私の彼氏候補のことは知りたくなるものでしょ?」
「ああ、それなら教えない。」
「え?」
「お前、別に彼氏が欲しくて聞いている訳じゃないんだろ?」
しばしの沈黙が流れた。
「姉貴のことをお前がどう思っているか、今でも変わってないだろ?」
「やめて!貴方は私の兄じゃない!」
「ま、いい。葛木大介の話だな。」
男は睨みつけてくる杏里から目線を逸らし、オーダーを伺いに傍に来ていた店員の方を向いていった。
「ブレンドコーヒー、ホットで。」
「判りました。こちらのお客様は?」
「私はミックスジュースで。」
「かしこまりました。ブレンドコーヒーがお一つと、ミックスジュースがお一つ、以上でよろしいですね?」
店員は心持ち足早く去っていく。
「杏里。」
男は改まった口調で言った。
「はい、先輩。」
杏里は敢えて何事もなかったかのように明るく返す。男のペースに呑まれない意地があった。
「葛木のこと、どこまで聞いている?」
「ご安心ください、彼女がいることは知っていますよ?」
杏里は笑いを作りながら言った。
「その、彼女に送った花が、黄色いバラだ。」
「へぇ、赤じゃないんですね。」
「黄色いバラの花言葉は、嫉妬。」
「そうだったんですか?その花言葉は初耳です。葛木さん、誰かに妬いていたんですか?」
「他の花言葉は・・・。」
「ちょっと待ってくださいよ、確かに友情に、愛情の・・・あ。」
「そう言うことなんだ。友情に、愛情の薄らぎ。恋人に送る花じゃない。」
「仮面夫婦・・・。」
「仮面カップルだな。あいつはそう言う男だ。」
コーヒーが届いた。男は店員に例を言い、コーヒーに一口付けた後、真っ直ぐ杏里の目を見据えていった。
「いいか、世の中、信じてはいけない人間と言うものがいる。お前がどういう目的であいつに近づこうとしているかは知らんが、やめておけ。」
「ねぇ、洸って赤池先輩と仲良いんでしょ?」
貴族階級を中心に庶民に至るまでのこの帝国の国民の約一割を占める歴史ある氏族・中富朝臣の一族の娘たちの教育機関としてつくられた名門お嬢様学校・女子勧学院高等部。中等部から進学した深山洸に、高等部から入学してきた友達の木下芳奈が話しかけた。洸の机の周囲には彼女の友達が5人ほど集っていた。
「どうかしら?度々赤池さんの家へ参りましたけれど。」
「なんかほのちゃん、余裕な態度!あの赤池先輩だよ?」
同じく高等部から入ってきた友達の坂村加奈が笑いながらツッコミを入れた。
「加奈ちゃん、洸は伯爵令嬢なんだから余裕に決まってるでしょ?」
「ああ、そうだった、そうだった。」
木下からの指摘を坂村は笑って流す。
「いえ、そう言うことではありませんの。ただ、私は中等部からの知り合いの家の家にはよく参りましたもので。皆様もいつか私を呼んでいただければ伺いたいのですが、よろしくて?」
「ほのちゃん、来てよ!」
「加奈、家に貴族を呼ぶと親御さんが仰天するよ・・・。」
「いいじゃん!ご学友だよ、ご学友!そう言うとママも納得するもん!」
「加奈は変わらないね。」
「よしちゃんが変わり過ぎただけ!」
中学校が同じ公立中学校だったという木下と坂村がじゃれ合う。
木下は坂村と話しながらふと教室の出入り口を見た。すると、一人の女子生徒が微笑みながら立っていた。
「あ!赤池先輩!」
「そこの人、私を知ってるの?ちょっと来てくれる?」
「わぁ!赤池先輩に呼ばれた!」
そう言いながら木下は出入り口に向かった。
「芳奈も結構ミーハーなのね。」
先程とは音色を変えて深山が呟く。
「赤池先輩は人気者だからねぇ。」
中等部から深山と一緒だった武庫頼子が応えた。
「へぇ、芳奈さんって言うの?」
「そうです!私、先輩のファンなんです!」
「ありがとう!またVIAを交換しよ?」
「はい!喜んで!」
「ところで、洸さんにこれをお願いできる?」
そう言って赤池は赤いリボンを木下に渡した。
「判りました!行ってきますね!」
そう言うなり木下は駆け足で深山の下に向かう。
「洸、赤池先輩から!」
すると、深山は木下から受け取ったリボンを手にして無言のまま立ち上がった。
少し驚いたかのような周囲の少女たちを武庫が無言で制する。
深山は黙って教室の出入り口の方に向かい、赤池にリボンを突き付けた。
「ちょっと、洸?どういうこと?私とエスに成れないってこと?」
エスとはsisterのこと。女子勧学院においては血縁の無い女子生徒の強い結びつきを表す言葉である。
「そのままの意味ですわ?」
「何なのよ!私のことをこの前、お姉さまと言ってじゃない!何?私を揶揄うつもりだったの?」
「あら、有梨様!私のお姉さま!貴女様は誠、私のお姉さまですわ、だからこそ、これは受け取れませんの。」
すると赤池の顔が一瞬固まった。
「あんた、まさか・・・。」
「お姉さまもソドミストがするような汚らわしい真似はなさらずに、真っ当な殿方との恋の道を歩きなさいませ。」
そう言って深山はにっこりと微笑む。
「そう言えば最近、孝志と会ったりしなかった?」
「ええ、孝志さんなら先週土曜日私の家に来ましたわ?」
その瞬間、赤池は深山の顔を平手打ちにした。
「許さない!あんたも弟も、絶対に許さない!」
そう叫ぶなり、赤池は廊下を駆けていった。
「勧学院も落ちたものねぇ。」
そう呟く武庫を周囲の少女たちが不安そうに眺める。
「心配しなくていいわ。深山はあんな女には不釣り合いよ。」
武庫がそう言うと思い沈黙が場を覆った。
それから10年の歳月が過ぎたのであった。
英賀短期大学。葛木大介講師は教室で20人ほどの学生相手に講義をしていた。
「このように、国家社会主義勢力によって賊帝が担がれた結果、我が帝国の貴族階級も分裂したわけです。賊帝は第二次世界大戦の時に枢軸国側で参戦しましたから、保守派の貴族の一部は連合国へと亡命していました。しかしながら、実は貴族階級の全てが連合国側についたわけでは、ありません。」
国家社会主義革命。それは階級制度の残るこの国において、貴族制度廃止や地主制度撤廃を掲げて第二次世界大戦の直前に起きた革命である。
労働者階級や被差別民が主導で起きた社会主義革命であったが、当初から軍部が関与。最終的にファシズム体制の樹立となり、この国は第二次世界大戦で枢軸国側に参戦した。しかし、反ファシズムの統一戦線を掲げた連合国側に敗北する。
貴族階級の一部は連合国に亡命し、戦後連合国の手によって支配階級に復帰していた。葛木は、説明を続けた。
「プリント二枚目を見てください。これは当時の貴族の当主がどちら側に附いたかのリストです。まず、連合国側に就いた貴族、これは当主レベルだと実は50人もいない。連合国に亡命した貴族の多くは家督相続のできなかった次男坊や三男坊であって、当主レベルの多くは亡命なんかしなかった訳です。ただ、反乱軍は貴族制度の廃止を決めたわけですが、プリントを見ると判るように、少なくない貴族が賊帝側に附いている。貴族なのに貴族制度廃止側を支持するとは矛盾しているように感じますが、こういう現象は過去のヨーロッパの市民革命期にもありました。その理由は何故か判りますか?はい、そこの子。」
葛木に指名された女子学生が戸惑いながら答えた。
「貴族制度にメリットが無かったから?」
「メリットが無いとは?」
「貴族の、ええと、義務?ノブリス・・・。」
「ノブレス・オブリージュね。高貴なるものの責務。確かに貴族にそう言う社会的義務があったのは事実ですね。他に何か意見のある人は?あ、今後ろで手を挙げている方。」
「あ、はい。ええと、当時は国家社会主義勢力が強かったと思うんで、わざわざ亡命して戦うよりも従う方を選んだ?」
「なるほど。実は私もそう思うんだ。君、名前は?」
「橋崎里香です。」
「そうか、橋崎さん、点数上げておくわ。」
そう言った後、葛木は最初に指名した学生の方を再び見た。
「いや、君の答えが悪いってわけじゃないからね。確かに言うとおりの面はある。最初のプリントに深山誠一伯爵の例を出したと思うけれども、この時代、いや、今はもっと酷いが、この頃は特に伯爵家、子爵家、男爵家は困窮していた。深山誠一は近江にある先祖伝来の土地を借金の担保にしていたが、返済できなかった結果失っている。『深山誠一伯爵日記』にはこの日のことを『練炭を炊かんと欲すも北の方に止められる。せめてカリを準備とのこと。こう言われては却って死ねぬ。』と書かれている。ちなみに、彼は国家社会主義勢力によるクーデターの後、この土地を取り返しました。反乱軍に協力しましたからね。」
暫く話を続けた後、授業は終了した。
授業終了後、葛木は最初に指名した学生の方へと向かった。
「木下さん、学生に変装するとは中々。」
「いえ、私はいつも通りよ?」
「そうか。こっちは生憎、今日はもう仕事ないし、食堂でゆっくり話そうか。」
二人が食堂に向かうと、学生の数が少なかった。
「学園祭の準備でね。みんな部室に籠りっきりだ。」
葛木が食券を買いながら言う。
「へぇ。それにしても短大って、女子大っぽい雰囲気ね。」
「そうか?私がイメージしていた女子大とは、大分違うのだが。」
そう言いながら葛木は食堂の受付に歩を進め、精進料理の食券を渡す。
「ああ、私がいた学校のエスみたいな関係を見られると期待していた?」
葛木の右斜め後ろから木下はまぐろ定食の食券を出した。
「この男、ステーキにすると奢ってくれないのよねぇ。」
木下が食堂のおばちゃんに向かって言うと、おばちゃんは笑いながら言った。
「この学校の先生は精進料理を食べる方が多いですよ。まぁ、プライベートではどうか知らないですけどね。」
葛木の無反応を見て木下は言った。
「エスはね、少しでも男の目があるとできないものなのよ。」
「そういうものか。確かに、赤池さんも山川さんといる時は私と会おうとはしなかったもんな。」
「あら、そうなの?それは意外。」
「え?」
「だって、あの子、赤池さんとエスなことを家族にもアピールしていたんだもん。」
「ああ、そうか。木下さんは山川さんの従姉だったな。」
「そうそう、それが本題。」
二人が会話をしている間に定食が用意された。二人はトレイにご飯を載せた状態で窓側の席に着く。
「本題、と言うのは、今日ここに来た理由か?」
「ええ。単刀直入に言うわ。あの子、貴方に会いたがっている。」
「それはどうして?」
「これを見て意識したみたいよ?」
そう言って木下はスマホを取り出し、画面を見せた。写真共有アプリ「REFGRAM」の赤池の投稿であった。
「ハハハ、私が送った黄色いバラだ、赤池さんもアップしてくれていたのか、珍しい。」
「問題は、貴方が彼女さんに贈ったのと同じものを赤池さんに贈って、それであの子が意識しちゃった、ってこと。」
「何を言っている、黄色いバラの花言葉ぐらい知っているだろ?それなら寧ろ安心すると思うんだが。」
「いや、それがね、あの子は花言葉なんか全然知らないから。『葛木が有梨様にバラの花を贈った!』と騒いでいたらしいわ。」
「無知は困ったものだ。」
「そういう貴方だって、花言葉を知らずに彼女さんに贈ったんでしょ?」
「まぁね。」
一言答えた後、葛木は食事を進める。
「葛木さんは横山さんのことはどう思う?」
「いきなりだな。ま、嫌いではないよ。」
葛木は食べながら答えた。
「食べるの早いわね。」
「お腹が好いていたからな。で、横山のことだが。顔は良い男だと思うが、どうしたんだ?」
「男性の顔を褒めるときって、中身を言外に貶していることが多い、って言うわよね。」
「さぁ。中身を知るほど付き合いは無いんだよね。」
「それもそうか。葛木さんが赤池さんと知り合う前の話ですものね。」
そこまで言うと、ようやく木下も箸を進めた。
セーラー服の女子中学生たちが廊下を歩いている中、木下芳奈は一人だけブレザーの制服で歩いていた。
場所は女子勧学院中等部の本館二階の廊下。高等部とは同じ敷地の中にある。
木下にとっては始めてくる場所であるが、敢えて見知った場所であるかのように振舞った。そうすると生徒も教師もツッコまないことを知っていたからだ。
いや、ツッコむ教師はいたが「図書室に用事があるので」と言うと、誰も無理に止めようとはしなかった。そして実際、木下が向かう先は図書室であったのだ。
木下は廊下の奥にある図書室の扉を開けた。そこには何人かの少女がいたが、木下の目当ては入り口付近で待っていた少女であった。
「貴女が渚ちゃんね?」
「ええ、木下先輩。」
「ちょっといいかしら?」
そう言って木下は渚を外に出した。階段を一階に降りる。
そして、一階の踊り場にある階段下の空間に渚を誘導した。
「あの、先輩、どういう話なのでしょうか?」
そう言う渚に向かい、木下は何も言わずに抱きしめた。
「え?木下先輩・・・?」
「ごめんなさいね。私、貴女が好きで堪らないの。」
「え?」
「高等部にエスの習慣があることはご存知?」
「あ、はい。姉妹の契りを結ぶと言う・・・。」
「ええ、そうよ。だから、高等部ではこう言うことは普通なの。」
そう言うと、木下は渚に口付けをした。驚く渚の高等部を右手で抑え、彼女の口内に舌を入れていく。
「先輩・・・?」
「これで私たち、エスよ?お姉さまと呼んでいただけないかしら?」
「お姉さまって・・・私には姉がいます。」
「ええ、私のクラスメイトね。だから他人に対してもお姉さまと呼べ、とは言わないわよ?ただ、私と二人でいるときはお姉さまと呼んでほしいの。」
「え?しかし・・・。」
「渚さんは私のこと、嫌いかしら?」
「いえ・・・。」
「じゃあ、私のこと、少しずつで良いの、好きになって下さる?」
「好きと言うのは、その、姉として?」
「ああ、渚さんはご存じでなくて?エスはsisterのsではあるけれども、恋人のことよ。」
「恋人・・・。」
「渚、大好き。」
少し低い声で、渚の耳元で木下は囁いた。
「・・・判りました、先輩。」
「お姉さま、と。」
「お姉さま・・・。」
翌日、木下は自分の家に渚を誘った。
「全く、あんたは。伯爵家のお嬢さんを誘うって、失礼があったらどうするの!」
そう嫌味を言っていた母親も、本人の前では丁重にあいさつした。
「深山家のお嬢様ね。いつも娘が本当にお世話になっています。こんな娘ですけど、何のもてなしも出来ませんが、よろしくお願いしますね。」
「いえ、お気遣いなく・・・。」
木下は渚を自分の部屋に入れると言った。
「ねぇ、渚は愛情をお金で買えると思っている人をどう思う?」
「え?」
「より正確に言うとね、好きな人をお金とかプレゼントとかで振り向かせようとしている人ね。」
「ああ、なるほど。それは寂しい人だと思います。」
「寂しい人、か。渚は優しいね。」
「お姉さまは違うのですか?」
「うん。私はね、そういう人は嫌いよ。だって、バカじゃん。」
「バカ?」
「ええ。だって、お金で愛情が買えるなら、そこらの料亭で結婚続出よ?少し脳味噌を使えばわかることも判らない人って、バカじゃない?」
「まぁ、確かに。お姉さまはそういう人が嫌いなんですね。」
「そう、嫌い。だけどね、私は人が何でそういう勘違いしているか、考えてみたの。」
「お金で愛情を買えると言う勘違いですか?」
「そう。それで知ったのよ、愛情表現にはお金がかかるのね。」
「ああ、はい。」
「私もいざ渚が好きになると、高価なプレゼントを贈りたくなるもの。」
「そんな、そんな。勿体ないですよ。」
「赤池有梨、って知ってる?」
「知ってます、私の姉の彼氏の姉です。」
「あら、そうなの?渚の姉って、私の同級生ね。許嫁がいたんだ。流石は伯爵家、私みたいな平民とは違うわね。」
「いえ、許嫁では無いんですけど、まぁ、彼氏なんです。」
「え?そこで出会ったの?」
「そこは詳しくは知らないんですが・・・。」
「そうか。その赤池さんね、とても良い人で私たちの憧れの的なんだけど、やっぱり金持ちなのよね。」
「そうなのですか・・・。そうですよね、赤池さんは平民ですもんね。」
「私も平民だけど、もしかして成金と言いたいの?」
「いえ、まさか、お姉さまをそんな!すみません。」
「良いわ、冗談よ。ところで私、渚に教えてほしいことがあるの。」
「何でしょうか?」
「茶道のマナーよ。」
木下は茶道の話を聞く態で渚と話をし、話が終わると渚を見送った。
その直後、木下の携帯に電話が来た。
「どうしたの?杏里。」
「芳奈、ズルい!私の友達と会っていたくせして、私とは会わないって!」
「ああ、ごめん、ごめん、杏里も渚の友達だったわね。」
「悪いと思っているならお願いを聞いて!」
「どうしたの?」
「赤池さんに会わせてほしいの!」
(なんで彼女なんか作ったの!?芳奈じゃ満足できなかったの?)
葛木の記憶から脳裏に一つの言葉が浮かんできた。
「満足も何も、俺が求めているのを判ってねぇだろ。」
葛木は独り言をつぶやく。
彼は花言葉も知らない男だが、人の悪意には敏感だった。
その時、葛木の住む一人暮らしのマンションへ、来客が来た。
「遂に来たな。」
そう呟いて葛木は来客を迎える。
「葛木さん、久しぶり。」
「山川さん、久しぶり。二人きりで会うのは初めてだね。」
「ええ、だけど芳奈とは頻繁に会っているようね?」
「頻繁って程じゃないが。あんたのSが紹介したんだ。」
「そう。彼女さんとは上手くやっている?」
「ああ。」
暫く、沈黙が二人の間を覆う。
「ねぇ、一つ聞いていい?」
十分近い沈黙を破ったのは、山川の方であった。
「どうぞ。」
「どうして黄色い薔薇を送ったの?」
「ああ・・・。あんたのSもそこまで話はしていなかったのか。」
もう十年も前のことになるだろうか。
「ねぇ、そこで何をしているの?」
中富朝臣一族の氏神である、倉橋神社の境内。赤池有梨が葛木大介に声を掛けた。
「うん?俺に聞いているのか?」
「他に誰がいるの?」
「ああ・・・・。」
見知らぬ女性から声を掛けられた葛木は周囲を見渡す。確かに自分しかここらにはいない。
そして、目の前の女性とはさっきから何故か何度も目が合っていた。
「まぁ、神社の参拝と言うか。」
「確かに、こんな神社しかない村に来る人はみんな参拝目的よね。」
「だけど、貴女は花を持っていますよね?」
何とか会話の主導権を握ろうと、葛木は相手の女性のバッグの中にある黄色いバラの花束を見ながら言った。
「ああ、これね。弟に贈るの。」
「へぇ、姉弟で花を贈るって、仲が良いんですね。」
「逆よ、逆。あなた、高校生?」
「ええ、私は高1です。」
「あら、そう?私は高3よ、同い年だと思っていた。」
「ああ、年上だったんですか!ええと・・・お名前は?」
「赤池有梨、よ。」
「赤池さん、はじめまして。葛木と言います。」
「葛木君ね。兄弟はいる?」
「ええ、妹が。」
「そう。私はね、弟がいるんだけど、状況が複雑なの。」
「複雑?」
「ま、一言でいうと、弟は横山男爵家へ養子縁組で入っているのよね。」
「ああ、養子縁組で家を継いでいくのは、貴族の家系ではよくある話ですね。」
葛木も伯爵家である自身の家の歴史を思い返しながら言った。
「それで最近弟に会えなかったんだけど、今日は誕生日だから黄色いバラの花でも贈ろうかな、って。」
「それは素晴らしいですね!弟さん、喜ぶと思いますよ?」
住宅街に田畑が混じる、典型的な田舎の風景。
道は舗装されてはいるが、大きくは無い。目の前に広がる二車線の道は交通量が少ないとは言えないが、歩道も信号もない。後ろには一軒家が立ち並び、前方はやや田の方が多いが家も少なからず存在している。
そんなところに立った横山孝志は、かつてある女性とこの辺りに来たことを思い出した。
「ま、今はそんな話、遥かに昔なのだが。」
そう言いつつ、信号のない横断歩道を渡ろうとしたその時、後ろから声を掛けられた。
「横山君?」
「み、深山先輩・・・。」
横山は思わず振り向く。
「こんな偶然、あるのですね・・・。」
「無いわ。」
感傷に浸ろうとした男を、女は却下した。
「私、用もないのにこんな田舎に来たりしないから。」
「あ、何の御用で?」
「貴方に会いに来たに決まっているでしょ?」
「え?どうしてここにいることが?」
「ちょっと事務所に問い合わせれば判るわよ。」
そう、横山がここに来たのは、あくまでも選挙運動のためであった。
戦争終結後、形式的に貴族制度は残されたが、貴族階級が国家社会主義勢力から国を取りも出すために連合国と手を組んだことは、今にまで禍根を残した。
貴族階級は殆どの実権を失い、戦後の政権与党は連合国の代弁者である自由国民党である。名前は良いが、不自由な生活を国民に強いる党だ。
しかしながら、貴族階級はこの自由国民党を支持せざるを得ない。彼らに媚を売っていかないと、いつ貴族制度廃止が政治日程に上るのか、判ったものではない。
事実、自由国民党内部には君主制維持のためのスケープゴートとして貴族階級の廃止乃至粛清を半ば公然と主張している勢力がいる。
政治家を黙らせるためには、選挙で恩を売るしかない。横山だけでなく多くの貴族がその身分を利用して選挙の際には自由国民党を全力で応援していた。
深山も自由国民党を支持している貴族の一人だ。深山家は元々国家社会主義側だったはずだが、戦後は一転して自由国民党を最も積極的に支持する貴族の家の一つとなっている。
深山洸自身は最近顔を出していないが、以前はこの地域の自由国民党の政治家の事務所に頻繁に顔を出していた。元から政治に興味が無いため、最近は消極的だが、事務所に電話をかけて今日の活動予定を聞くぐらいのコネはある。
「いい?通行人の振りをして候補者の街頭演説の横を通りビラだけ受け取る、その後は貴方を連れて抜けても言い、と。」
「判った。」
目の前の道を渡ってから右折して数百メートルのところにある交差点で候補者が演説している。右側に向かって歩こうとする深山の手を、横山は握った。深山は何も言わない。
敢えて道路は渡らず、そのまま二人は歩いていく。
運動員がビラを渡そうとする。その時、二人は手をほどいて横ではなく縦に並び、それぞれビラを受け取った。
そこから数十メートル先で横断歩道のない車道を一気に渡り、そこから小さな路地に入ると再び手を繋ぐ。
二人は無言であった。横山は過去の色々なことを回想する。
自分は姉よりも劣等であった。姉弟仲は良かったと思うが、両親から横山男爵家への養子縁組を告げられた時は、ショックだった。まだ名字が赤池であった当時の孝志の主観では、自分がバカ息子であるから厄介払いされたかのように思ったのである。
無論、庶民から貴族の家に養子縁組に入ることが実は名誉なことであって、また、養子縁組とは言っても実家との縁は切れず今でも交流は続いていることから、実親に捨てられたわけでは無いことは、いまならば判る。
だが、一番ショックだったのは、中学生の時の姉からの誕生日プレゼントだろう。
笑顔で姉が渡してきたのは、黄色い薔薇の花束であった。あの時、思わず顔が強張ってしまったのは、今でも忘れられない。
しかもその直後から、姉は実の弟である横山とは距離を置く一方、葛木大介なる伯爵家の放蕩息子を弟のように可愛がり出した。
最初は葛木大介が彼氏なのか、と思った。弟と彼氏とは違う。だが、どうもそうではないことが判ってきた。
姉は、モテた。葛木大介みたいな容姿も知能も劣る男なんかよりもよっぽど良い男たちと日夜遊んでいた。葛木に恋愛感情を抱いていないことは明白であった。
あんな男のどこがいいのか。葛木大介は貴族なのに自由国民党を非難している変わり者だ。戦前の、まだ国家社会主義革命が起きる前の国に戻ろうとしている極右グループの一員らしい。まさか、その極右振りを気に入ったとでもいうのか?
そんな中、横山は深山洸に声を掛けられた。洸の方から告白されて付き合った。だが、そんな横山を待っていたのは実の姉からの嫌がらせであった。
洸の妹の渚は、横山の姉・赤池有梨の手下である木下芳奈に告白された。無論、木下はレズビアンではない。渚をからかい、その心に傷を負わせたのである。横山孝志と深山洸のカップルへの嫌がらせであることは明白であった。
その直後に横山は洸と別れた。理由は今では彼自身も覚えていないが、姉からの嫌がらせが苦痛だったのも関係していたのだろう。幸い横山はモテる男であったので、その後も交際相手が途絶えることは無かった。
その後赤池有梨は山川杏里を従えたが、杏里はレズビアンであった。なんとも非道なことを、と横山は思った。葛木は葛木で、恋人相手に黄色い薔薇を送ったと言う話を聞く。非道な二人組である。
そんなことを回想していると、ふと後ろから声がした。
「深山さん!」
振り向くと、自由国民党のスタッフの一人である壮年の男性がいた。
「なんですか?」
深山洸が返事する。
「間に合ってよかった。深山さんもどうか、また事務所に戻ってきてくれませんか?」
「あはは、取り敢えず今日は彼を連れて家に帰るので、その話はまた。」
明らかに乗り気では無い態度を見て、男は去っていった。
すると洸は横山の方を見ていった。
「貴方の方から家に誘ってくれても良かったのに。」
横山は今も別の女性と付き合っている。目の前の女性はそのことを知っているのか?と疑問が浮かび黙っていると、洸が続けた。
「貴方がもっと素直だったら良かったのに。葛木さんも赤池さんも、とても素直な人よね。貴方はそうなれないの?」
付き合っている時には決して聞かなかった、どこか上から目線の、それでいて優しい言葉。それを聞いて、横山は姉のインスタグラムに葛木から贈られてきた黄色い薔薇の写真がアップされていたのを思い出した。確かそれを知って山川杏里が葛木大介のことを教えてほしいと先日会いに来たのだった。
その時は、彼は恋人にも黄色い薔薇を贈るような非道な奴だと言ってやったはずだった。しかし、深山が言うとあの光景がもっと別なものに思えてきた。
「素直に、か。」
黄色い薔薇。素直に観察すると、とても綺麗な色合いだ。
赤のように派手ではなく、かと言って寒色でもなく、どこか暖かく優しい。それを葛木から贈られた時、赤池は素直に喜んだのかも、知れない。
そのことに思い至ると、横山は自分の十年近く前の誕生日の光景を思い出した。自分が十年間の人生を壮大な誤解の基に歩んでいた可能性に思いを馳せた時、彼は少し恥ずかしくなり繋いでいた手を解いた。