10万人目の男
友人に、外資系の企業に勤めている独身の男がいて、今そいつと美術館に向かっている。『絵画の革命家たち』という企画展を観賞するためだ。昨日の夜遅くに電話が掛かってきて、美術館のチケットが2枚あるから行かないかと誘われたのだ。新聞購読の勧誘で貰ったのだと。実を言うと、友人に誘われる前から、この休みに美術館に行く予定を立てていた。本音を言えば、ひとりで絵画を堪能したかった。だけど、断っておいて美術館でバッタリ会ったりしたら気まずくてならない。会うかもしれないと、ビクビクしながら絵画を観るのも集中出来ない。楽しみにしていた予定をやめるのも癪だし、一緒に行くしか選択肢がなかった。休日に、30前の男2人で美術館。傍から見ればさぞかし気色が悪い組み合わせだろう。ひとりでのんびりと休日を過ごしたい気分だったのに。何でこういう時に誘うかな。全く間の悪い男だ。考えてみたら、こいつは学生の頃からそういうところがあった。何でこのタイミングで、こんな事になるんだという事がよくあった。根っからの間の悪い男なのだろう。
ああ、ほら、今も間の悪さが出たぞ。美術館はもう目の前だと言うのに、どうしてこのタイミングで靴の紐がほどけるかな。間が悪い。友人はしゃがみ込むと靴紐を結び直し始める。正午過ぎの焼けるような強い日差しを浴び、全身に汗が滲みはじめる。館内はエアコンが効いて涼しいだろうな。その間に、後ろから来た数人に追い抜かれてしまった。早い者勝ちではないけど、お預けを喰らっているようで、もどかしくてならない。
友人は、もう片方の靴紐も結び直し始める。そちらもほどけていたのか、それとも緩んでいたのでほどける前に結び直しておこうと思ったのか、そうでなければ何となく結び直しただけなのか。俺はいい加減待っていられなくなり、先に美術館に入ることにした。思った通りエアコンがきいていて、汗が引いていくのを感じる。
少しして「ごめん、ごめん」と友人が入ってくる。「じゃ行こうか」と、俺が言った。そこで思いもよらぬ事が起きる。
パァーン!とクラッカーが鳴り響いたのだ。「おめでとうございます」と、美術館の従業員たちが拍手をしながらぞろぞろとやってくる。何だこの歓迎ムードは。何がめでたいんだ。身に覚えのない祝福に、俺も友人も目をパチクリさせる。従業員のひとりが代表して高らかにこう発表する「お客様が開館日から数えて、ちょうど10万人目のお客様になります」
10万人目!?そこでようやく、俺は事態を飲み込めた。ニュース番組で観たことがある。アミューズメント施設や温泉施設などで累計来館者数が10万人を突破した!というほのぼの系ニュース。この騒ぎはそれか。まさか自分が当事者になるとは。いや、俺じゃない。友人が美術館に足を踏み入れたところで、クラッカーが鳴った。この騒ぎの主役は友人。
満面の笑顔を張り付かせた美術館の館長が、手にタスキを持ってやってくる。そして俺の前を通り過ぎると、友人にタスキをかけた。タスキには《祝10万人目》と記載されている。
やはり友人が10万人目。俺は、99999人目のようだ。しかしあの間の悪い友人が、まさか10万人目を引き当てるとは。人生何が起こるか分からないものだな。
友人は、従業員に案内されるがままに、館内のロビーに設置されてある簡易ステージの上に立つ。何の騒ぎだとぞろぞろと人が集まってくる。大勢の注目を浴びて、友人は面映ゆそうにしている。「せーの」という従業員の掛け声のあと、友人はくす玉から伸びる紐を引っ張る。くす玉から《祝!10万人達成》という垂れ幕が現れた。
式典は進んで行く。館長から感謝状および記念品の贈呈式が執り行われた。美術館のオリジナルグッズおよび年間パスポートも贈与される。館長や美術館のマスコットらしき着ぐるみと記念撮影をして、式典は締めくくりとなった。その場に居合わせた他のお客から暖かい拍手が送られ、大変和やかな雰囲気の中でのお祝いとなった。友人は終始オドオドとしていて、居心地が悪そうだった。
本来の目的である企画展『絵画の革命家たち』を観て回る。ちなみに友人は企画展を観て回っている間ずっと《祝10万人目》というタスキをしたままで、目立っていた。「おめでとうございます」と声を掛けられる一幕もあった。取り忘れているのか、わざと付けたままなのか判断がつかず、結局美術館を出るまで指摘出来なかった。
「この後、どうする?」と友人が美術館を出たところで聞いてきた。《祝10万人目》というタスキを取りながら。帰ってもいいと思っていたのだが、俺の頭にふとある考えが浮かんだ。この間の悪い友人が、記念すべき10万人目を引き当てた。今日のこいつは、運に恵まれているんじゃないか。これを使わない手はないぞ。そうなると、ギャンブルだろう。
「これからパチンコに行かないか?」
「え、パチンコ!?何でパチンコなの?」
「10万人目の男だからだろう。今日のお前はツキまくっているに違いない。きっと勝てる」
「だけど俺、パチンコなんてした事ないからな」
「なおさら良いじゃないか。ビギナーズラックだってあるかもしれない。とにかく行こう」
繁華街にあるパチンコ店に到着した。パチンコ店特有の煌びやかで華やかな外観は、未経験者には入りづらく感じるのだろう。友人はただ見上げているだけで、動こうとはしなかった。その間に、2組ほど店内に入って行った。俺は彼の背中を押すよう「なんの心配もない。お前は10万人目の男だ。自信を持っていこう」と言うと、友人は深く頷いた。
俺が先陣を切り店内へ入る。続いて友人が入る。そこで思いもよらぬ事が起きる。
パァーン!とクラッカーが鳴り響いたのだ。「おめでとうございます」と、パチンコ店の従業員とこの日の為に雇ったのだろうコンパニオンらしき女性が拍手をしながらぞろぞろとやってくる。俺と友人は、デジャブ!?と顔を見合わせる。従業員のひとりが代表して高らかにこう発表する「お客様がオープンしてちょうど10万人目のお客様になります」
本日2度目の10万人目!?1度でも驚きなのにまさかの2度目。しかも1日で。どうなっているんだ。いったい何が起きているんだ。今回も俺じゃないけど。友人の方を見る。「えー、また!?」と友人は目をパチクリさせている。パチンコ店の店長が現れると、戸惑う友人にタスキをかけた。タスキには《祝10万人目》と記載されている。
10万人目突破記念の式典は、美術館の時と大差はなかった。店内に設置されてある簡易ステージに移動して、くす玉を割り、感謝状および記念品の贈呈式が執り行われる。パチンコ店限定のオリジナルグッズおよび1万円分の玉を贈与された。店長、コンパニオン、パチンコ台のキャラクターらしき着ぐるみと記念撮影をして式典は締めくくりとなった。違う点があるとすれば、友人の態度だろうか。2度目という事もあり、式典慣れしていた。「あちらのステージね。はいはい」「くす玉ね。はいはい」「次は確か感謝状および記念品の贈呈式かな。その後は記念撮影ですよね」といった具合だった。
贈与された1万円分の玉を使いパチンコをする。パチンコ台の前に座った友人は、ハンドルを握って、玉を打ち出していく。ちなみに友人は、今回もまた《祝10万人目》というタスキをしたままだ。そんなタスキをした奴が負ける事があったら、きっと大笑いされるだろう。不安が過るが、大丈夫だろうと思いが至る。ただの10万人目の男じゃない。2度も10万人目になった男。その辺の10万人目の男と一緒にされたら困る。負けるわけがない。
俺は隣の空いている席に座り、大人しく見ているだけにした。今日の感じだと、惜しいところまでは行くがギリギリでツキを逃すだろう。さて、2度の10万人目を引き当てた運は、どんな結果をもたらすだろうか。しかし10分もしないうちに、友人はパチンコ台から手を離した。モジモジとしていて、地に足のつかない感じだった。
「どうかしたか?」俺は、友人が言い出しにくそうな態度をしているので、さり気なく聞いた。すると、友人は唐突にこんな事を言った。
「俺、好きな子がいるんだ」
「ハァ!?な、何だよ急に」
「君が言うように、今日の僕はツキまくっているとしたら、告白すれば成功するんじゃないかと思うんだ」
「ああ、なるほどね。それはそうかもしれないな」
居ても立っても居られなくなった友人は、パチンコ台の前から立ち上がると、1万円分の玉を近くの台に座っているお客に譲り渡して、そのお客にタスキもかけてやり、パチンコ店を後にした。何もあげなくても換金すればいいのにと思ったが、彼の頭の中は告白の事でいっぱいでそれどころではないのだろう。俺も余計な事は言わなかった。
友人が恋い焦がれる相手というのは、2年前の飲み会で知り合った丸の内でオフィスレディをしている3つ年下の女性。本当は美術館のチケットもその子を誘いたくて、新聞購読の勧誘で貰ったのだろう。すぐに連絡を取り、彼女の自宅近くにある公園まで来てもらう事になった。
公園は自然が溢れていた。ロマンチックにも、小高い丘になっているところにひとつのベンチがあり、友人はそこで待つことにした。街灯の明かりがベンチに座る友人を照らして、まるでスポットライトが当たっているかのようだ。
俺は丘の下にある木々の陰に隠れて見守る事にした。目の前を暗がりでも分かるほどの絶世の美女が通った。顔が小さく、切れ長の瞳、上品な口元、スタイルも良かった。思わず目で追っていると、その美しい女性は、友人の待つベンチの方へ歩いていく。まさかあんな上玉だとは。正直、友人には高嶺の花のように思えるが、今日の彼はいつもの彼ではない。2度も10万人目を引き当てた強運。まぎれもなく本日の主役だろう。成功するかもしれない。
ここからだと友人の声は聞こえないが、どうやら告白が始まったようだ。友人はひざまずいて何やら語りかけている。彼女への恋心を伝えているのだろう。女はじっと黙って聞いている。微笑んでいるようにも見える。これは脈ありかも。告白は終わったようだ。さ、どうなる。女は何て答える。俺はゴクリと固唾を呑み込み、なりゆきを見守る。そこで思いもよらぬ事が起きる。
パァーン!とクラッカーが鳴り響いたのだ。女がクラッカーを手の中に隠し持っていたようだ。本日3度目のクラッカーに友人は「えーーー、また」と目をパチクリさせる。俺においても面食らった。これはいったいどういう事だ。OKという意味か。告白が成功したのか。それから女は、何かを言っているようだった。ここからでは聞こえなかったが、友人が困惑しているのは分かった。そして女は肩にかけていたバックから、タスキを取り出す。え、タスキ!?またタスキ!?と俺が首をひねっていると、女は友人の首にタスキをかける。残念ながら、タスキに何て書かれているかまでは見えない。いったいあそこで何が行われているんだ。次に女が、バックから取り出したのは、くす玉だった。友人にくす玉の紐を引っ張るように促す。女の口が「せーの」と動くと、友人は戸惑いながらも、くす玉の紐を引っ張る。くす玉が割れると、垂れ幕が出て来たが、やはり何て書いてあるかまでは見えない。女は拍手と歓声で祝福をしているようだった。
女は次々と進めて行く。何か感謝状のようなものを読みあげたかと思うと、女の顔がプリントされたTシャツ、エコバック、クリアファイルなどと共に友人に手渡した。まるで、感謝状および記念品の贈呈だ。次に女は携帯電話のカメラ機能を立ち上げると、自撮り棒を使い友人と記念撮影をする。そして今撮影したばかりの画像を友人の携帯電話に送ると、荷物をまとめて、そそくさとその場を離れていった。俺の前を通り過ぎる時に見えた女の顔は、何処かやり切ったような満足気だった。
俺が丘の上まで駆けて行くと、友人は頭を抱えてベンチに座っていた。
「おい、何だったんだ?告白はどうなった?」
「ああ、君か。振られたよ」
「え、そうか。じゃあ、さっきのあれは何だったんだ?」
「ああ、あれは、あれだよ。例のやつだよ。君も今日、何度も見ただろう」
「はっきりと言ってくれ。何だったんだよ」
何となく予想はついたが、そんな訳がないという思いがあったので、聞かずにはおれなかった。友人は大きく息を吐いてからこう言った。
「彼女に告白した者の人数が、僕でちょうど100人目なんだって」
「100人目!?という事は…」
「ああ、あれは100人目到達の記念式典だよ。いったい今日の僕はどうなっているんだ。訳が分からないよ。ツキまくっているの?いないの?どっちなの?」
「…そりゃツキまくっているんじゃないの。100人目なんだから」
俺は慰めようと言った。
「何人目でも振られたら一緒でしょう」
「それはそうかもしれないけど、それでも100人目だからな。100人目だぜ。凄いよ。自信持てよ。めでたいじゃないか」
「振られたんだから、めでたくはないよ」
この日の彼は、やはりツキまくっていたと思う。あの後、振られた腹いせで、やけ酒を飲みに居酒屋に行ったら、友人が店内に足を踏み入れた瞬間、パァーン!とクラッカーが鳴り響き、千人目のお客様になった。さらにその後に行ったキャバクラでも500人目のお客様になったし、締めで行ったラーメン屋でも1万人目のお客様となった。
あの間の悪い男が、これまでを清算するかのように、何度も記念すべき男となっていく。ツキまくっているとしかいえない。だったら、どうして振られたのか。ツキまくっているからといって、人の気持ちまでは変えられないという事だろう。あの時、告白ではなく、パチンコを続けるべきだったんだ。告白したいと言い出したあたりが、間の悪いあいつらしい。
友人がツキまくっていたのは、その日だけで、後日会った時は、何処の商業施設に入ろうが、お店に入ろうが、パァーン!とクラッカーが鳴り響く事はなく、誰にも祝福されるような事はなかった。友人は相変わらず間の悪い男だった。そんな間の悪い期間を耐え忍び、マイルのようなものが貯まれば、またああいうサービスディのような日が来るのかもしれない。
終