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或る思い出

作者: 藤川修太郎

 とある夏の日の朝まだき。少年は走っていた。畦道あぜみちは虫の声であふれていた。なぜ彼が走っていたか?――いや、或いは彼は走っていなかったかもしれない。が、とにかく彼は急いでいた。彼は、家出を試みたのである。彼の家はひどい貧乏であった。あてがわれる服は継ぎ接ぎだらけ。三食食べるのも贅沢であり、住まいは雨漏りにすきま風といった具合であった。そして、彼は、そのとき、あるものに強く憧れていたのである。それは、虫取り遊びである。彼の同級生は皆、夏の日には毎日欠かすことなく虫取り遊びにいそしんでいた。が、彼は貧家の生まれ故に、そのような遊びをすることなぞ、ついぞかなわなかったのである。のみならず、帰宅の後には、毎日、父の仕事――それは、畑仕事であった――のお手伝いを強いられていたのである。あまつさえ、彼の父母は清貧の類ではなく、寧ろ多少の浅ましさを伴う性分であったがため、彼の働くことについて、別段何か配慮をしてあげようなどとは、ついぞ一度たりとも思わなかったのである。よって、彼の働くのは殆ど当然のことのように取り扱われていたのである。かくいう彼にとって決して好ましくない暮らしの中、ついに彼の我慢は限界に達し、そうして虫取り遊びのため、遮二無二しゃにむに家を飛び出してきたのである。この故に、今、彼の手には虫取り網の類いはない。況や、虫かごの類いをや。どのように、虫を捕まえようか。彼は家出の直後より、ただこの問題にのみ思考をとらわれていた。素手で捕るよりほかにない。では、捕まえた虫はどうしよう。それは、またその時に考えよう。畢竟ひっきょう、彼の結論はこのようなものであった。

 彼は畦道のなかを、ただひたすらに急いでいた。それはまだ、太陽もほとんど出ておらぬ昧旦まいたんの時分であったのだが、ふと気がつくと、彼の顔には汗がしきりに流れ出てきており、それは、まるで止まる気色けしきがなかった。これは、ただ、その日が暑いからというわけではなかったのかもしれない。或いは、彼の中に何らかの迷いがあったのかもしれない。その故の汗であったのかもしれない。が、その時の彼には、その汗の理由を求めうるに十分なまでの心の余裕など決して持ち合わせていなかった。のみならず、この時すでに、更なる不安が彼の中にむらむらと生じつつあった。それは、同級生たちに今の自分の姿を見られてしまったらどうしよう、というものであった。これは、家出の時の彼にはつゆも思い及ばなかった不安であった。それも当然のことである。彼は日頃より、決して頭の切れる子供ではなかったのだから。この不安は彼を酷く狼狽ろうばいさせた。こんな姿を見られてしまっては、もう以前のように学校へ行くこともできないだろう。彼はそう思っていた。彼は、元来がんらい虚飾きょしょくの強い少年であったので、今のような卑しさ千万せんばんな姿を見られることだけはことに恐れたのである。恬然てんぜんと振る舞うことなぞ、見え坊の彼にはどだい無理な話なのであった。もはや泣きじゃくりたい気分であった。が、今となってはもう後戻りはできない。彼は誰にも見られぬこと、ただそれだけを信じて、そのまま歩みを進めることを選んだ。

 虫の声はなりやむ気色をまるで見せない。様々の虫の生を訴える声が、彼ただ一人しかいない田園の中、どこまでも広く響き渡っていた。アブラゼミ。ミンミンゼミ。コオロギ。キリギリス。有象無象うぞうむぞうの鳴き声に充ち満ちた畦道。太陽はまだ出切っていない。彼の目的の地は、家から五百メートルほど離れたところにある小さな林であった。そこには様々の虫が集まっているはずである。これは、彼の日頃の観察から来る考えであった。日頃の観察?――彼の同級生たちが放課後いつも、そこへ遊びにゆくのである。事実、この彼の予想は――後ほどわかることだが――決して誤ってはいなかった。彼は一層歩みを速めた。太陽の昇ってしまう前の方が、多くの虫が捕れると思っていたからである。

 彼はついに、目的の林の前まで来た。幸いにも、人気ひとけはどこにもなかった。これならば大丈夫だと、彼は途端に楽天的になった。そして、足早に、一本の大樹の前まで歩み寄った。そこにはなんと、彼を満足させるに十分の多くの昆虫が、そこになる蜜を求めて一様に集まっていた。彼は歓喜した。が、それと同時に、万全の準備をしなかった自分を改めて恨めしく思った。のみならず、自分の計画性のなさをひどく恥じた。恥じた?――彼の中にも、自分の器量のないのを自覚しうるほどの悧巧りこうさは兼ね備えていたのである。しかし、幾ら考えても、もはや仕様がない。彼は眼前に輝く一匹の昆虫に手を伸ばした。カブトムシは、案外簡単に彼の手に捕まえられた。立派な角を携えた、凛々しい雄のカブトムシである。彼は思わず微笑ほほえみ、そうして、カブトムシを一心に見つめた。彼は幸福の中に浴していた。長く夢見た景色である。彼はこの瞬間の喜びを力の限り噛み締めたつもりである。と、ここで彼の中にある妙案が浮かんだ。同じく樹の蜜につられてやってきた一匹のクワガタを捕まえて、そうして、このカブトムシと戦わせてみたらどうだろうといったものである。彼は少しも迷うことなく、この案を採用し、さっそく目の前の樹へと、その小さな手をつと伸ばした。こちらも容易い仕事であった。さっそく、二匹の昆虫を、近くにあった切り株の上へと運んでゆき、そうして、両者が互いに戦わんとするのを促した。すると、彼らはたちまち戦闘を開始した。初めは一回り体格の大きいカブトムシが優勢であったのだが、次第に小柄のクワガタの方に軍杯が上がり始めた。そして、ついに、小さなクワガタが大きなカブトムシを降参させた。カブトムシは背を向け、切り株の端の方へと急ぐのであった。が、彼はこれで満足しなかった。別の樹に居た別のカブトムシを捕まえて、再びさきほどのクワガタに対して戦闘を強いたのである。果たせるかな、こちらの勝負はすぐさま勝敗が決せられた。むろん、後から来たカブトムシの勝利である。彼はようやく満足し、腰を上げて、林の中を改めて探索しようと考えた。と、その時。別の子供たちの声が彼の林のところまで聞こえてきたのである。少なくとも三人は居る。こんなところを見られてはたまらない。しかし、その声はもうすぐそこまで迫っている。彼は林の奥へと一散いっさんけていった。

 十秒ほど走ると、彼は、木々の間隔の広く空いた、大きくひらけた場所へと辿り着いた。空が見える。太陽が昇ってゆくのがよく見える。彼は顔を上げた。太陽が、赤々と光り輝いている。モヤモヤと陽炎をまとった太陽は、彼の目にはあまりに眩しすぎた。それはまるで、何か神聖な存在であるかのように、その姿を公然としていた。まるで、自分が、この世界を創った存在であるかのように。まるでそうであるかのように、ただひとり、(寂しげに)光り輝いていた。少なくとも彼にはそのように映っていた。そして、太陽は、彼をひしと抱擁ほうようした。彼を捉えて離さなかった。のみならず、いつの間にか、彼の左の頬には、一条ひとすじの涙が流れ出していた。

 数秒の経った後、彼は初めて彼の涙の流れるのを自覚した。彼の意識は、少しの間、彼のものではなくなっていたのである。彼は、忽ち、彼の家を、家族を、恋しく思い始めた。そして、その時にはもはや、大粒の涙が、せきを切ったかのように、彼の目からみるみるうちに流れ出していた。思わず彼は声を出した。泣き声を抑えることさえ、彼にはもはやできなくなっていたのである。次から次へと、後悔の声が喉の奥底から湧き上がってきた。それを抑える術は、やはり、どこにも見当たらなかった。

 畢竟、彼はその場を後にすることを決心した。母に、父に、会いたい。ただその考えだけが、彼の頭を支配していた。この一時間のうちに、彼は、自分が別の誰かへとまるで変わってしまったかのように感じた。太陽。それは、何か不思議な気づきを彼に与えたのである。ことによると、あの時の太陽は実に月並みのものであったかも分からない。が、少なくとも、あの時の彼にとっては、その代わりとなりうるものの唯の一つもない、彼にとっての重大な何かをこの世でただひとり託された、もはや彼そのものとでも言うべき存在であったのに相違ない。

 彼のその後ついて、私の知る限りでは、それを詳しく語れるものは居ない。が、彼はきっと優しい人として、今もどこかで生き続けていることだろう。

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