09 ちょっとした嘘
都会的に洗練された印象の強い小山先輩は、紅茶を片手に窓際の席が似合う、かっこいい女性だった。
聞けば俺たちよりも一つ上の学年らしい。背も高くて大学生くらいに大人びているが、たった一年しか違わない高校二年生だという。
意外にも私服のセンスには自信がないのか、あるいは全寮制の女学院らしい規則があるのか、休日だというのに彼女は学校の制服を着用している。わずかな隙も乱れもない、それは紺色のワンピースみたいなデザインだ。おしとやかさと活発さが相反しつつも融合したような、そのベクトルは複雑だが美しい。
ふんわりショートの濁りなき色艶をした黒髪からは、なんだかフルーツみたいに甘くて清涼な香りが漂っている。至近距離から見ても顔に化粧の面影はないが、たぶん校則で目立つものは禁じられているのだろう。
笑うときは気取らず遠慮せずに笑う人みたいで、朗らかな笑顔が視線を惹きつけるほど魅力的。薄い紅色に膨らんだ唇の間から覗く白い歯は並びが良くて、けれど一本だけある犬歯みたいな八重歯が印象的だ。
スタンプラリーじゃないが、美人と出会った記念に噛まれてみたい。
さてさて、ここは先ほどまでいた女学院の校門から歩いて十分とかからない場所にある、地元のおじさんが趣味で経営しているという庶民派の喫茶店である。
座布団が乗っている木製の椅子が四つあるテーブル席で、何故か俺は小山先輩に手を引かれて隣に座らせられていた。とてもじゃないが、とっても緊張している。頼りの峰岸さんはテーブルを挟んだ向かい側にぽつんと座っている。
ぽつん。なんだか全然頼れない。
「砂糖とミルクをたっぷり入れたアイスコーヒー。想像しただけで甘いね。私は甘いのが苦手で、いつも甘くないレモン風味の紅茶しか飲まないのだけど、それは美味しいものかい?」
「はい」
ちびりと飲んで、俺は答える。
「甘くて美味しいですよ。なにぶん、ここまで二時間も自転車をこいできましたからね。疲れた体に糖分が優しく染み渡ります」
「わお、二時間!」
大きくのけぞって目を見開く先輩。いかにもわざとっぽいが、決して不愉快でない楽しいリアクションだ。緊張をほぐそうとしてくれているのが伝わってくるからだろう。
「そうか、そうか。そんなに遠かったっけ。……じゃあ、もう足がパンパンになっているんじゃない?」
「パンパンかどうかは、どうでしょう? さすがに両足ともくたびれてはいますが……あっ」
と、俺はまるで年頃の乙女みたいに敏感な反応で、か細い声を漏らした。
隣に座っていた小山先輩が身をよじって前触れもなく手を伸ばしてきて、遠慮ない仕草で俺の膝の上に乗せたからだ。これがいわゆるボディタッチ。耐性がないからびっくりした。
さすって、もんで、先輩の五本の指先と温かい手のひらが、驚いた俺をあざ笑うように太ももの上で動かされる。気持ちいい。
「へー、意外とたくましいじゃん。私には兄貴がいて、なかなか見慣れているつもりだったけど、やっぱり男の人の体には驚かされるよ。見るのと触るのとでは違うからかな? こうしていると年下でも頼りがいを感じてしまうね」
「そ、そうですか?」
「気になるなら私の触ってみる? 比べてみれば違いがよくわかると思うよ」
いやいや、それはさすがに――と遠慮した俺だが、年下相手に遠慮しない先輩は俺の手をつかむと、自分の太ももまで引っ張って遠慮なく触らせてくれた。触るといってもワンピースの布地越しだが、細い足はやわらかくもあって、なんだか不思議な気分になった。
「ありがとうございます」
何を言っているのだ俺は。にやけているのが自分でもよくわかる。
「でも二の腕は触るの禁止な。ちょっとダイエット中でさ、今は誰にも触らせたくないんだ。兄貴はやせすぎだって注意してくるけど、兄貴の意見なんて聞いても仕方がない」
「差し出がましいことを言いますが、俺も先輩にはダイエットの必要はないと思います」
「……なに? 褒めてくれてる? もしかして二の腕も触りたいの?」
いたずらっぽく笑って、小山先輩は自分の二の腕をぷにっとつかんだ。あまり余分な肉はついていない印象だが、それでもやわらかくて気持ちよさそうだ。触りたいか触りたくないかでいえば、正直言って触りたい。どうせなら触るだけじゃなくて、ぷにぷに揉んでみたい。
だけど、当たり前のことではあるけれど、それを口に出すわけにはいかない。いくらなんでも破廉恥で駄目だ。本当に触ってもいい許可がもらえる可能性に賭けてみるのも無駄ではない気もするが。
「……あのさ、オッチー君。あなたとは飾らない同盟を結んでいるから私は何も言わずに見守っていたけど、さすがに飾らなすぎじゃないかな? エッチな欲求が駄々漏れだよ。そっち方面については自制を求めたい」
ぽつんと座っていたはずの峰岸さんが身を乗り出してきて、人差し指を立てた。
口には出されなかったが、目つきで「めっ!」と言って叱られた。
いやらしい下心を看破されたみたいで、恥ずかしいやら申し訳ないやら。
「峰岸さん、ごめん」
「ま・り・か」
何事かと思ったが、そういえば名前で呼ばなければならなかったか。
今は二人きりではないのだが、峰岸さん的に小山先輩はオッケーなのだろう。
「マリカちゃん、ごめん」
「いいよ。私こそごめん、いいところを邪魔して。思わずストップはかけたけど、別に怒っているわけじゃないの。むしろ隠し事をしないで自分をさらけ出してくれているみたいで嬉しいくらい。でもエッチなのは自制を求めたい。男の人のそういうところ苦手だから……嫌いじゃないけどね」
そこまで言って椅子に座り直した峰岸さんは、俺と同じ甘ったるいアイスコーヒーを口に運んだ。小山先輩とは違って甘いものが好きらしく、とても幸せそうに顔をほころばせる。
今後のサークル活動のためにも、甘い飲み物やお菓子を買いだめしておこう。
「そういえば詳しく聞いていなかったけど、二人はどういう関係? ただの友達が二人きりで二時間も離れた場所まで来ないよね? 本当に恋人じゃないの?」
先輩の質問にまた頬を膨らませる峰岸さんだったが、今度は自分で否定した。
「恋人じゃないです。だって先輩、私が好きなのは――」
核心的な部分まで言いかけて言葉を切り、熱いまなざしで小山先輩を見つめる峰岸さん。熱っぽく両方の頬が上気していて、見ているこちらまで緊張が伝わってくる。
そうなのか峰岸さん。そこまで真剣な気持ちだったのか。
今さら峰岸さんの気持ちを思い知らされた俺は固唾を呑んだ。自分の恋心と向き合うことを避けている俺にとって、まぶしいくらいに本物の恋愛感情だ。果たして先輩はどう答えるのだろう?
はぐらかされたと言っていたけれど……。
「これは優しさで言うぞ。あの時も言ったことと同じ答えをまた、今度ははっきりと伝えよう」
そして思いやりを含んだ穏やかな口調で、目を細めた小山先輩は言った。
「新しい人を見つけろ、マリ。私じゃ駄目だ。だって私はお前をかわいがることしかできない。真剣な想いには真剣に答えるよ。……恋人には、なってやれない」
それを聞いた峰岸さんは一瞬、うなだれて。
次の瞬間、朗らかな笑顔で顔を上げた。
「……言ってくれて、ありがとうございます」
これを聞いてから考える時間が数秒ほどあって、わずかに不服そうな顔を見せる小山先輩。
「ありがとうって、なんだよ? 私に振られて嬉しいのか? 悲しんでくれないと悲しいものだぜ、なんだか振ったはずのこっちが振られたみたいでさ」
悲しんでくれないと悲しいとは、実にわがままな悲しみだ。わからなくもないけれど。
先輩からの思いがけない不満を受けて、こちらも考える時間が必要だったのか、「ちょっと食べても?」と断りを入れた峰岸さんはアイスコーヒーと一緒に頼んでいたホットケーキを切り分けて、小さな一切れを小鳥がついばむように口の中へ入れてしまうと、こくりと音を立てて飲み込んだ。
じっくり味わっているのか、それとも緊張で味はわかっていないのか。
とにかくアイスコーヒーごと色々なものを飲み込んだ峰岸さんは表情を改めて、それから改めて居住まいを正した。豊かな胸の位置も気になるのか、さりげなく上半身をよじって調整する。
いかん、無意識に胸に目がいっていた。エッチなのは自制を求められていたのに大きくて目立つものはこれだから恐ろしい。
真面目な話なのだから、俺は茶々をいれず真面目に聞いていよう。
「今日、私が先輩に会いに来たのは、過去を振り切るためでした。だから、ちゃんと断ってくれたのが嬉しいんです。ようやくこれで、はっきりこれからのことに目を向けることが出来ますので」
「なるほどね、そして私は振り切られてしまうわけだ。こうなってくると寂しいものだな。可愛い後輩だったのは間違いないのに、これが永遠の別れみたいで」
「……可愛いだなんて。ありがとうございます」
「それで、そっちが新しい恋人候補?」
――だから違いますって。
二人の会話を横で聞きながら俺はそう思った。
ところが峰岸さんはというと、
「かもしれません。……違うかもしれません」
などと曖昧に答えた。こちらを見ないのは、まさか照れているから?
「ふうん。これからのことは、これからってわけ?」
「そうなりますね、きっと」
これまでのことは、これまで。だから、ここからは新しく作っていく。あらゆる過去を乗り越えて、未来に向かって前向きに生きていくのだろう。それが若者というものか。
「……そっか。頑張れよ、マリ。そしてオチ君だっけ?」
「違います。彼はオッチー君ですよ、先輩」
「オッチー? すると苗字は落合とか大内とかいうのかな? ま、それはどうでもいいや。オッチー君、マリをよろしく頼むよ。なにかと心配だからな、彼女は」
わかりましたと首肯して、ついでに名前は乙終ですと自己紹介もしておいて、目のやり場に困った俺は顔を下げる。
なにしろ至近距離で、すぐ真横に先輩が座っている。ぴったり顔を向けられると緊張するのだ。
「うふふ、あのですね、先輩。実はばっちり頼んでいましてね」
そう言った峰岸さんは得意げだ。先輩を相手に“してやったり”と、ほくそ笑んでいる。ばっちり頼まれたらしい俺は所在なさげに頭をかくしかない。
そんな大した人間でもないのに恥ずかしい。
「え、なに? やっぱり二人は何か特別な関係なの?」
興味津々といった先輩は俺と峰岸さんの顔を見比べる。見比べただけでは何もわからないだろうに、首を振って一生懸命に見比べているから面白い。
こらえきれずに笑ったら小突かれた。わき腹で痛い。
「特別も特別、とっくに格別な関係です。なにしろ私とオッチー君は“飾らない同盟”を結んでいますからね」
「飾らない……同盟……!」
おお、なんと先輩は驚いている。わなわなと体が小刻みに震えているのは演技か本物か。同盟の名前を聞いただけで詳しい説明もされずに何を理解したのだろう?
それとも彼女らの中学校では有名な同盟だったのだろうか。だとしたら同盟とか裏切りとか普通にありそうで殺伐とした中学校だな。
「……うっわ、なにそれ!」
いや知らなかったのか。知らないなら知らないなりに驚けるという好例だろう。リアクションの勉強になるのでまじまじと見ておいた。目の保養にもなる。
「気になりますか、気になりますよね! もちろんお教えいたしましょう」
ノリノリになった峰岸さんが上機嫌で説明を始める。
二人きりのときは自分を偽らずにさらけ出そうという、飾らない同盟。
それを結ぶまでの経緯を含め、我らが同盟関係について先輩に身振り手振りを加えて説明する。
「ふーん。面白い遊びを考えたんだね」
「おっと先輩、これは遊びじゃないです。なんか文芸の同好会は遊びみたいなものですが、この同盟関係は真面目な契約ですから」
さりげなく我が実践文芸サークルを軽視したような発言があった気がする。
まぁ、あれは本当に遊びみたいなものだから仕方ないけれど。
「ふーん、真面目な同盟ね。……ってことは、破ったら罰則があるの?」
「あらま」
若奥様みたいな仕草で口元に手をやった峰岸さんは、どうやら先輩の疑問に驚いたらしい。俺と同盟を結んだ時点で安心したためか、違反した場合のことを考えていなかったようだ。
でもどうだろう、そもそも違反時のことを考えるまでのことじゃない気がする。
「何も考えていない? だったら私が同盟のオブザーバーになってあげよう。そうすればマリとも今までどおり、いや、今まで以上に仲良く出来そうだ」
「それは……」
口ごもる峰岸さん。さすがにちょっと困った表情。
「心強い!」
だが即決。
「まー、とにかく今後ともよろしくお願いします」
そんなこんなで、峰岸さんと小山さんは互いのスマホを取り出して連絡先を交換した。これまでは中学時代の名残で家の固定電話にかけていたそうだから、卒業してから疎遠になりつつあったらしい二人の関係的には進展だろう。なぜか俺まで先輩の連絡先を教えられたのだが、いやじゃないので喜んでおいた。
それから、しばらく三人で歓談となる。
部外者みたいな立場の俺はそうでもないが、一年ぶりに顔を合わせる二人には積もる話もあったのだろう。聞いているだけでも楽しかったので、相槌を打つのも控えて会話の邪魔はしまいと黙っていた。
「それでは、今日のところはこれで……」
なにぶん二時間もかかる道のりを自転車で来ているので、そろそろ帰らないと家に着くころには日が暮れてしまう。俺たちは後ろ髪を引かれつつも手を振って、笑顔で見送ってくれる先輩と別れた。
小山先輩と別れてから一時間、家へと至る帰りの道すがらのことだ。
同盟相手の俺と二人きりであることに気を許したのか、あるいは自転車の旅に疲れたのか、何でもないことのようにカミングアウトされた。
「私ね、つまり恋愛対象として女性が好きなのよ」
さらりと言い放った峰岸さん。
ついでだからということか、心の秘密を打ち明けた彼女の暴露は続く。
「性的欲求も女性オンリー。今まで男の人に興味を持ったことってない」
「それはそれは……」
さすがに返答に困る案件だ。言い方を間違えればセクハラ案件となるので、女性としゃべる性的な話題はリアクションが難しい。
どんな顔をして聞けばいいのだ。
「でも不思議とオッチー君にはちょっと興味出てきた。男子なのに、こんなことって初めて」
「それはえっと……」
これも返答に困る発言である。もしかして好かれているということか?
うっかり調子に乗ったら痛い目を見るかもしれないので、喜ぼうにも喜べない。
「それでね、オッチー君。これが本題なの。これからも私との飾らない同盟を続けてくれる?」
ようやく返答に困らない質問が来てくれたようだ。俺は微笑んで答える。
「もちろん」
それを聞いて、よかったと笑った峰岸さんは本当に嬉しそうだった。こうやって彼女が喜んでくれるからこそ続けたいと思えるのだけど、それはあえて言わないでおこう。
そして、あと少しで家に着くというころ。
ペダルを踏む力を弱めてブレーキをかけたらしい峰岸さんは、辺りに人の気配のない静かな路肩に自転車を止めた。何かあったのだろうかと思った俺も峰岸さんの隣に自転車を止める。
パンクでもしたなら大変だ。ここから先を歩く羽目になる。
「か、飾らない同盟だから、これだけは言っておきたい……!」
うつむいて、頬を真っ赤に染めて、いかにも一大決心を終えての重大な告白をするという様子の峰岸さん。スポーティな印象のあった赤い野球帽を脱ぎ、ポニーテールを縛っていたヘアゴムをほどいて指でいじっている。
もじもじと恥ずかしがっているようだ。
そんな姿を見せられた俺はというと、まだ彼女が何か言うべきことを残していたのかと思って、ちょっと驚いて、ちょっとためらった。打ち明けにくい隠し事というのは、聞くほうだって多少なりとも覚悟が必要なものだ。
果たして俺が聞いていいことなのかどうか。
「いやね、峰岸さん。あくまでも俺たちが結んだのは飾らない同盟であって、隠さない同盟じゃないんだからさ。言いたくないことは言わないままでいたほうが、いっそ自然体のままでいられるんじゃないかな?」
「ま・り・か」
何事かと思うまでもなく、彼女のことは名前で呼ばなければならないことを思い出す。
「無理にすべての秘密を暴露する必要はないよ、マリカちゃん。女の子は一つくらい隠し事があったほうが魅力的だって聞いたこともあるし。ミステリアスな感じがするって……」
「結婚して奥さんが隠し事ばかりしていたらどう? ミステリアスってことで納得する?」
「それは……すごくいやだけどさ」
浮気や不倫は論外のこととして、へそくりとかね。
「だったら聞いて。大丈夫、言うだけだから。相談とかじゃないんだよ、私が言いたいだけだから!」
「じゃ、じゃあ、聞くだけ聞いておこうかな……」
恐る恐る言うと、伸ばしきったヘアゴムをパチンと鳴らした峰岸さんは喜んだ。
そして秘密を打ち明ける。
「あのね、私、榎本さんのことが好きになっちゃった。どうやら彼女に恋をしたみたいね!」
それはあまりに予想外のことだったので、俺は目を丸くして言葉を失った。
峰岸さんが、あの榎本に恋?
どうして――と尋ねたらしい俺。問われた峰岸さんは再びヘアゴムをいじりつつ照れながら答える。
「彼女の明るさに振り回されているうちに、なんだか離れがたくなっちゃって。かわいいし、優しいし、そしてバカだし、それって私の理想的な女の子……」
うっとりしている峰岸さん。「バカ」という言葉に愛しさを込めていたような気がするけれど、そう考えると彼女の初恋の女性である小山先輩もちょっとバカっぽかった気がしてきた。俺たちにとっては先輩だけど、年上であることを意識させない気軽さというか、バカというよりも親しみやすいキャラクターだったといえる。
ちなみに榎本がバカであることに疑いはない。もちろんそれは罵倒語としての悪い意味ではなく、憎みきれない可愛げのあるバカということで、つまり褒め言葉としての意味だ。
小賢しさを出さないバカな女の子ってかわいいからね。バカをやりがちな男子は可愛げもなく、周りを苛立たせてしまうというのに。俺も気をつけよう。
「だけどこれは二人だけの秘密ね。誰にも言っちゃ駄目だよ、オッチー君」
「あ、うん。もちろん」
釘を刺されなくとも当たり前だ。お願いされずとも、俺は黙っているつもりである。
誰が誰を好きなのか、そういった他人の恋愛感情を簡単に言いふらすような人間は最低であろう。女子風に言えばデリカシーがない。
あと、それから、実をいうと俺は動揺もしていた。
馬鹿みたいな相槌しか打てないほど衝撃を受けていた。
考えてみれば、当然ながら榎本だって誰かに恋をされることもある。恋をされて、それを受け入れた彼女が相手に愛を返すことだって。つまり榎本の相談役に就任した俺が、いつの日か彼女の恋愛相談に付き合わされる可能性もあるのだ。
……榎本と、誰かの、俺には関係のない恋愛。
それは考えたくないことだった。唐突に胸が痛くなる。息が苦しくなる。
でも、どうして?
そう疑問に思いながらも、俺は自分の中に答えを探そうとはしなかった。
「マリカちゃん、帰ろう」
「ま・り・か」
「あ、ごめん――って、今度はちゃんと名前で呼んだよ! まさかそれ気に入っただけじゃないの! わざと”峰岸さん”って呼んで、これからも定期的に言わせてあげようかっ?」
「お・ね・が・い」
「お願いされちゃった!」
などなど、俺と峰岸さんはその重大な告白を経てもなお、飾らない同盟の関係性に揺るぎは発生しなかった。ただ少しだけ、俺の心に臆病な波紋を残したけれど。
そして俺と峰岸さんは二人そろって我が家に到着した。
ちなみに峰岸さんを誘ったのは俺だ。彼女の家はもう少し先に行ったところにあるらしいので、さすがに長旅にも疲れているだろうから、飲み物くらいはサービスしてあげたいと思ったのだ。
だが、この選択は間違いだったかもしれないと、帰宅した直後の俺は思わされた。あろうことか、我が家には榎本と美馬、そして赤松の三人が待ち受けていたのである。
「今日の集会は中止だって連絡したよね?」
メッセージを送るだけだと無視される可能性もあったので、昨夜の内にちゃんと三人には電話したはずだ。そして絶対に家には来るなとも言っておいた。
なのにどうしてこいつらは示し合わせたようにして、俺と峰岸さんを玄関先で出迎えているのか。そしてなぜエプロン姿の姉さんまで、三人の背後にこっそり佇んでいるのか。
すると俺を非難する気満々で、不機嫌な顔の美馬が人差し指を立てて指摘する。
「突然中止になった理由もうやむやだったし、最初からなんか怪しかった。それで、なんとなく他の四人と連絡を取り合ってみたら、不思議なことにマリカも今日は別の予定があるって言っていたから。これは二人が怪しいぞ、と」
これで終わりかと思えば、神妙な顔をした赤松までが追随してくる。
「現場を押さえようと思って午前十時に集合したんだが、そのときにはもう出かけたっていうじゃないか。しかも二人で自転車で。おいおいこれはただごとじゃないぞ……と、とにかく俺たちはそう思って、お前の帰りを待たせてもらうことにしたのさ」
俺は呆れた振りをして答える。
「勘繰りすぎだ。ただごとじゃないなんて、とんでもない。ただごと、だよ。あくまでも普通に出かけただけ」
二人は「本当に?」とでも言いたげな目をしている。悪いことをしたみたいで居心地が悪い。
ここは峰岸さんにも助太刀を願おう。彼女の言葉なら信じてくれるはずだ。
「本当だよ。ね、マリ……」
「み・ね・ぎ・し」
「峰岸さん」
危うく何も知らない三人の前でマリカちゃんと下の名前で呼びそうになったが、それは飾らない同盟を結んだ二人だけの秘密。他に誰か人がいるときは、飾らない同盟の効力が失われる約束なのだ。
とにもかくにも、言い訳が不自然なリズムになったままでは真偽のほどを怪しまれてしまうので、ええいままよと俺は立て続けに嘘をつく。
「やましいことは何もない。ちょっと気分転換に出かけただけだ。……ほら、最近なんだか峰岸さんの調子が悪かったから、少しでも気晴らしになればいいと思ってさ」
「はい、そうなのです。今日は乙終君に誘われてサイクリングに。みなさんに心配をかけるのもいやでしたから、黙っていて本当のことは言えませんでしたが」
俺と峰岸さんがそろって申し訳なさそうに頭を垂れたからであろう、さすがの赤松も野次馬根性たっぷりの好奇心を抑えて、一転、峰岸さんを心配した口ぶりになる。
「そういえば峰岸さんは調子悪そうだったな。悪そうというか、実際に悪くて木曜と金曜は学校を休んでいたっけ。気分転換というのも、そう考えると不自然じゃない。俺たちに心配をかけたくないからって、黙って二人で出かけたのも。……でもさ、だったら昨日出かければよかったんじゃないか? なにも今日の集まりを急に中止にしてまで」
「土曜日は、ほら、峰岸さんも病み上がり直後だったから。しっかり回復してからでないとね。でも気分転換するなら早いほうがいいでしょ? だから今日、確かに急ではあったけど、天気もいいみたいだから気晴らしのサイクリングすることになったわけで……」
「ふうん、なるほどね。だとすれば俺たちの取り越し苦労だったわけだ」
「まさしくそれだ。若いころの苦労は買ってでもしろとは言われるけれど、それが取り越し苦労じゃ意味ないぜ。よく言うじゃないか。骨折り損の、なんとやら」
「くたびれもうけ、だな! ……とは言うが、実はお前の帰りを待っている間、俺は紅一点ならぬ黒一点の状況を満喫させてもらったからな。礼を言っておくぜ、ありがとよ」
「はっはっは、わかってくれればそれでいい」
調子のいい赤松の言いようは美馬と峰岸さんも半分くらい呆れて聞き流していたが、こいつのおかげで不穏な空気は振り払われたわけだ。感謝しても良かろう。
ちなみにさっきから姉さんは蚊帳の外から事の趨勢を見守っているだけで、これは本当に単なる野次馬だったらしい。ならば手綱はどこだ。たぶん夕食の準備中でキッチンを抜けてきたに違いないから、所在無くエプロンを指でいじってないで戻ったらどうか。
いやまったく、話してみれば当初の殺伐たる気配はどこへやら。すっかり和やかな雰囲気に変わってしまう。そもそも最初から本気で怒っていたわけではないのだろう。こいつらにしてみれば、退屈しのぎの面白半分で俺を問い詰めてきただけなのだ。
遊ばれるほうにとっては甚だ迷惑な話だが、たぶん悪意はないので、あえて問題にはしまい。
「……嘘ばっかり」
あまりにも小さくてかすれていたから、いじけたような声は他の誰にも聞き取れなかったのかもしれない。いや、俺には確信がある。きっと俺以外の誰にも聞き取れなかった。
なぜならそれは、ある特定の一人、すなわち俺に対してのみ発せられた呟きだったように感じられたからだ。しかも聞こえなくても構わないと割り切ったものだ。
攻撃的なそれではなく、どこか落胆と、ほんのちょっぴりの不満を感じさせる声。
俯いているので顔色は見せないつもりらしく、かがみこみでもしない限り俺からは見えない。
「榎本さん、どうかされました? あの、私は……」
「ううん、なんでもない」
くいっと顔を上げて、そのまま横に首を振って、そこにはいつもの彼女が見せる明るい笑顔があった。つい先ほどまでずっと黙っていた榎本の様子を心配した峰岸さんも、それを見て少しは安心したようだ。
「みんな、折角だから夕食を食べていかない? あと少しで出来上がるよ」
どうやら自分のエプロン姿が気に入っているらしい姉さんが懇願するように誘って、それを居合わせた全員が快く受け入れた。俺と姉さん以外の四人は自分の家に今から乙終家の夕食をご馳走になってくると連絡を入れたのち、いつまでも玄関先でしゃべっていても仕方がないからと、気張っている姉さんを先頭に適当な順番に並んで、すっかり慣れた動作で我が家へと上がっていく。
たまたま出遅れて最後尾になった俺は、たまたま目の前にいた榎本の後姿が視界に入って、ほとんど反射的に声を掛けていた。
「あのさ、榎本さん」
「どうしたの?」
「……いや、どうもしないけど。ちょっと呼んでみただけ」
さっきのは嘘じゃないよ……とは、嘘だったからこそ榎本には言えなかった。
だからといって、本当は彼女の言うとおりに嘘であると認めることすらも、俺にはできなかったのだが。




