08 自転車に乗って会いに行く
晴れだった。快晴だった。すっきりした天気の五月晴れという奴だ。いや、この言葉が意味する五月は旧暦のことだろうか? いやいや、今でも使われているくらいだから新暦でも大丈夫なはずだ。いやはや、折角だから五月の行楽日和はゴールデンウェザーとでも呼んでおこう。どうせなら砂金が降ってくれれば、傘を逆さにして愉快な気分で歩くものを。
さて、峰岸さんとの同盟を結んで迎えた明朝。
それは午前九時の三十分頃で、ちょうど軽い朝食を終えたときだった。
「おはよう。今日はすっごくお出かけ日和だね」
予定されていた通りに遂行された峰岸さんの来訪である。
自転車で運動することを考慮しているのか彼女は長い黒髪をポニーテールに結んでおり、短い半袖をめくって二の腕を見せつけてくれている。いかにも準備万端といった姿だ。かわいい。
「さてさて、乙終君。早速だけど今から出発しても大丈夫? ご飯とか準備とか、色々やることもあると思うけれど……」
「あと五分もあれば大丈夫だよ。朝には弱いから、ちょっと眠いくらいで……」
「へー、その五分で寝てくるの? ずいぶん小刻みに二度寝するんだね」
「いや、この五分は着替えとかの準備に使うよ。眠いのは我慢するんだよ」
おざなりに言い置いて、小走りで部屋に戻って簡単に身支度を済ませると、宣言どおりに五分で戻った。するとその格好で待っていたのか、ドアを開けた玄関前で峰岸さんは自転車にまたがっていた。
今日の彼女はスカートやワンピースではなく、ニーソックスに合わせたハーフパンツだ。ペダルを踏んでいる足元のスニーカーは真新しい。
遅かったとも早かったとも言わず、自転車のハンドルから手を離して大きく伸びをすると、にっこりと微笑んでから俺に向かって自転車に乗るよう促した。
おそらく長距離を自転車で移動するため、いつもよりも動きやすい服装をしているのだろう。頭にはスポーツ少女に似合いそうな赤い野球帽をかぶっている。荷物はあまり必要ないのか、前のカゴに小さなリュックが一つだけ。
昨夜のうちに軒下から玄関先に出しておいた自転車に乗って彼女の隣に並ぶと、とりあえず俺は尋ねた。
「どこまで行くの?」
一緒に出かけようと誘われれば、普通は真っ先に目的地を教えてもらえそうな気もするが、昨日の電話から妙にはぐらかされてきたところだ。理由はわからないものの彼女にとって言いにくいことだったようで、ついに出発直前まで行く先を聞き出せなかったのである。
「ここから一時間半。ゆっくり行けば二時間くらい。たぶん乙終君は聞いたことがないであろう、とある私立高校が今日の目的地なの」
「そんなところまで何をしに?」
「中学生のころ好きだった先輩に会いに行くんだよ」
ぐらりとバランスを崩して、危うく俺は止まったまま自分ごと自転車を転倒させてしまいかけた。赤裸々な事実を告白した彼女の顔を確認しようとして、ぎりぎりのところで思いとどまる。
……過去との決別か。新しいステップのためだと言っていたはずだ。
ここで俺が過去を引きずらせるようなことを言って、無駄に彼女を考えさせて、協力するどころか足を引っ張っては意味がない。好きだったという先輩のことは気になるが、だからこそ会いに行くのだ。
「乙終君なら行けるよね? ちょっとばかり遠いけど、体力は大丈夫?」
「かなり遠い気がするけど、道案内してくれれば平気だと思う」
「わかった。……じゃ、行こう!」
とにもかくにも、とりあえず。ここは彼女のペースに合わせて走り出そう。
前へ走り出すために勇ましくペダルを踏み込んだ彼女の真似をして、遅れずに俺も力強くペダルを踏み込んだ。ゆっくりと、しかし着実に加速する。
そんなに遠いならバスとか電車とか、乗っているだけで楽ができる公共交通機関を使えばいいのにとも思った。けれど、たぶん自転車で、自分の足を使ってそこまでたどり着くことに意味があるのだろう。
いざ走り出せば、頬を撫でる風が心地よい。
体力勝負の自転車といえど悪路ではなく整備された道ばかりを進むので、きちんと道なりに進んでさえいれば、過剰な疲労が蓄積するということもなかった。山が見えても山は登らず。きつい坂道を避けて山裾に沿っているためか、直進するよりも走行距離は長くなっているはずだけれど、アップダウンが少ないので精神的にも肉体的にも苦痛は感じられなかった。
この程度なら休日のサイクリングだと思えばいい。
それも女子と二人きりのデート気分だ。
ひたすらペダルをこいでばかりいるので、ゆったり雑談を楽しむというわけにもいかないが、日差しも柔らかい朝の町を目的地も知らぬまま峰岸さんと二人で突き進んでいく自転車の旅は、どこか非日常的な興奮と爽やかさをまとった特別な雰囲気に満ち足りていて、前から後ろへと流れていく風景を視界におさめるだけでも、壮大なる青春の冒険を味わっているみたいだった。
実際には自転車に乗って日帰りで行ける場所なんて限られている。自分を中心とした地図に一日で移動することが可能な行動半径を記せば、それはきっと世界全体の大きさに比べれば悲しくなるほどに小さくて、ぐにゃぐにゃに歪んだ円にしかならないはずだ。
けれど、その限られた円の中にも色々な場所があって、たくさんの人がいて、いくつもの未知なる出会いがあるかもしれなくて、だからとても一人じゃ背負いきれないほどの物語が紡がれるのだろう。
たとえば自分が住んでいる見慣れたはずの町だって、実際に自分の足で歩けば、その広さに驚かされることがある。若者に過ぎない俺たちの行動範囲なんて地図上では狭いものかもしれないが、その小ささは必ずしも閉塞的な限界を意味したりはしないはずだ。
そんなことを、自転車に乗っていると考えずにはいられない。
際限なく足を動かすばかりで暇だからだろうか?
途中、トイレ休憩と水分補給のために公園へ立ち寄った。見覚えのない初めて入る公園だ。よく晴れて気持ちのいい休日だからか、すでに集まって遊んでいる子供の姿があり、ずいぶんと賑やかな声がする。
あれやこれやを済ませた俺と峰岸さんは木陰のベンチに座って、ひとまず疲れた足を休ませることにした。目的地まではあと四十分くらいかかるらしい。隣で自分の足を左右交互に揉んでいる峰岸さんは念入りにストレッチしている。ちらちら目がいってしまうのが彼女にばれていなければいいが。
次から次へと噴き出してくる汗を峰岸さんに貸してもらったタオルで拭きつつ顔を上げると、少し離れた場所で遊んでいる子供達の姿が目に映った。ところどころ穴の開いた芝生の上に集まっているのは小学生くらいの少年ばかりで、どうやらサッカーをやっているらしい。
あまり他人のことを言えないが、午前中から元気なことだ。
「こうしていると思い出すなぁ」
「思い出すってことは、もしかしてサッカー少年だったとか? そういえば赤松君は小学生のころサッカーをやっていたとか聞いたような気がするけど」
「ああ、いや。俺が思い出していたのは、この前のことね」
「この前のこと?」
小首をかしげて、わざとらしいくらいに峰岸さんが怪訝な顔をしてみせた。
想像はついているけど語らせたいのか、いたずらっぽく俺の瞳を覗き込んでいる。
「ほら、あれ、この前の連休にさ、榎本さんが小学生の氷見ちゃんと遊んでいたときのことだよ。俺たちはベンチに座って二人のことを見守っていたから、こうしていると不意に思い出して」
「……ふうん。榎本さんのこと、考えてたんだ」
そんな優しい顔をして、と、ささやくくらいの小さな声でそう言って、こちらを責めるでもなく、優しい雰囲気をまとった峰岸さんはやわらかく大人びたみたいに目を細めた。
「彼女、かわいいよね」
「……うん」
少し迷ったが、声量は小さいままで俺は正直に答えた。
すると彼女は質問をたたみかけてくる。
「好き?」
「……嫌いじゃないよ」
「へぇ。はっきりしないんだ。……私は好きだよ、榎本さん」
それは女子同士のことだからはっきり言えるんじゃないかな、と俺は言おうとした。誰かを好きという感情が誰も傷つけずにいられるのは、それが恋愛とは無関係の相手に向いている場合だけなのだ。少しでも異性を意識してしまうと、目の前の相手を好きだという本来はポジティブなはずである感情でさえ、劣情だとか下心だとか、とがった刃物みたいに冷たく光る。
自分が意図した「友情」や「信頼」などという言葉だけでは収まらず、すべてが「恋愛」の名のもとに様々な解釈と温度をもって蠢き始める。
けれど、心ではそう考えつつも、俺は結局何も言うことができなかった。
隣に座った峰岸さんが、あたかも深い迷宮に入り込んで道を見失っているかのような表情を浮かべていたからだ。迷える子羊のようにつらそうな顔をされてしまっては、おどけて茶化すことさえもできなくなる。
「峰岸さん……?」
心配に思って呼びかけると、ううん、と首を振って、何か深刻なものを振り払った。
「私たちは飾らない同盟を結んだんだよね。折角だもん。私も乙終君のことコノエ君って呼ぶからさ、二人のときは私のことマリカちゃんって呼んでよ。そうじゃなくっちゃ、悲しくって学校やめちゃう。私に冷たくするコノエ君のせいで、五月病をこじらせて不登校になってやるんだから」
それはひどい脅迫だ。呼ぶしかなくなる。
「……わかった。でも、さすがにコノエ君って呼ばれるのは恥ずかしいかな」
「だったらオッチー君でいい? それとも他の呼び方がいい?」
「オッチーでいいよ、それなら慣れてる」
子供のころから美馬が俺をそう呼ぶので、コノエ君などと下の名前で呼ばれるよりはずっといい。
さて、そろそろ休憩も十分だろう。
いつまでもベンチに座っていては予定よりも大幅に遅れてしまいかねない。日が沈む前に帰るためにも、早いうちに動き出さなければ。
「峰岸さん、それじゃそろそろ行こうか」
「ま・り・か」
「え?」
いきなり何事かと思ったが、そういえば彼女には、二人きりの時は名前で呼べと注文されていたのだった。
「マリカさん」
「さん、じゃだめ。ちゃん、じゃなきゃ」
「……マリカちゃん」
俺は頭のてっぺんからつま先まで羞恥の渦に包まれた。マリカちゃんだなんて、そう呼べば自分が実年齢より一回り以上も幼くなったみたいで、子供のように馴れ馴れしく甘えているみたいで、なんだかものすごく恥ずかしい。
けどここは踏ん張って、必要以上に恥ずかしがらず、明るく聞こえるように俺は声を振り絞った。
「マリカちゃん、行こう」
「オッケー、オッチー君」
それにしても峰岸さんは楽しそうだ。無理をした感じもない自然な笑顔を見せてくれている。現実は時として残酷だけれど、いつまでも彼女は笑顔であってくれればいいのにと、心地よい風に願った。
目的地に着いたとき、最初にブレーキをかけて自転車を止めたのは、考えるよりも先に動いた俺の左手だったと思う。じりじりとアスファルトにタイヤのこすれる音がして、わずかに遅れて俺の右手も力いっぱい前輪にブレーキをかけた。
「……え?」
と、間抜けな声が出た。
道端にいた一羽のハトがポッポーと、これまた間抜けな声で答える。
「どうしたの? そんな驚くような外観の高校じゃないよね? 普通だよ」
そう言う峰岸さんだが、驚きを隠せなかった俺は立派な門に掲げられている校名を人差し指で示した。
「……女学院、ってあるけど」
「そうだよ。だってここ女子高だもん」
全寮制のお嬢様学校だ、と峰岸さんは誇らしそうに付け加えた。
「……あのさ、今日は中学生のころ好きだったっていう先輩に会いに来たんだよね?」
「そうだよ。私の初恋の人が今ここに通っているの」
「そっか」
そう言いつつ、俺は自分の浅はかさを反省した。
初恋の先輩だというから男の先輩だとばかり思っていたが、相手が女性であっても全然おかしくはない。振り切りたいという初恋の話なので踏み込むのをためらっていたが、もしも踏み込んでいれば危うく自分のつまらない偏見を峰岸さんに押し付けてしまうところだった。
――それは女子同士のことだからはっきり言えるんじゃないかな。
つい先ほど、ぎりぎりの喉元まで出かかっていた言葉だ。
相手の悩みや苦しみを理解せず、色々な可能性を考慮せず、想像もせず、馬鹿みたいに自分の常識でしか現実を考えられない自分。
彼女は優しいから許してくれるだろうが、なんにせよ反省せねばなるまい。
「その先輩とは待ち合わせしてるの?」
暗い雰囲気になることを避けるため気を取り直しながら尋ねると、何も気にしていないらしい彼女はうんと答えた。
「昨日、たまたま連絡が取れてね。オッチー君の家から帰ったとき、晩御飯の前だったかな、家に先輩から電話があったの。いつもなら挨拶だけで終わるのだけど、昨日は、その、勢いで自分から会いに行くって言っちゃって」
「……言っちゃって?」
「うっかり言っちゃってから、これは無理だぞ一人じゃ行けないって思った。先輩が中学校を卒業してからは物理的にも心理的にも疎遠になっていて、何度か電話で話したくらいで直接顔を合わせたことないから、どんな顔していいのかわからないし、久しぶりに会うのは不安なの。それに……」
「それに?」
「初恋を引きずったままだから。卒業式の日に告白して、はぐらかされて……」
「……そうだったんだ」
卒業式の日というのはおそらく先輩の卒業式だろうから、告白してから少なくとも一年、あるいは二年が経過しているのだろう。初恋で、勇気を出して踏み切った一世一代の告白で、しかも不完全燃焼だったとしたら、まだ心の傷が癒えていないとしても無理はない。そりゃ引きずるってものだ。
……まぁ、誰だって引きずるよな。
ふとあることを思い出して、いつか見た誰かの涙に俺もまた胸が痛くなる。
しかし、まさか好奇心だけを理由に根掘り葉掘り聞くわけにもいかない。これ以上の質問はやめておこう。
実際に先輩と会えばいくつかの疑問は解消するだろうし、そうでなくても、いつか彼女から話してくれることもあるだろう。
「時間には余裕を持って早めに到着したから、待ち合わせの時間まで三十分くらいあるね。どうしよう、どっかで休んでようか? それとも着いたって連絡する? ちょっと早く来てもらうことになるけど」
「うーん……」
すぐに答えが出なかった俺は顔を上げて、休める場所が近くにあるかどうか探そうと周囲を見渡した。
が、目に入ってくるのは女学院の姿ばかりだ。女性にしか入学が許されないということもあり、その内部を知らない男子にとっては神秘的で魅惑的な色香を放っている。何かに誘われるように、華やかで小奇麗な印象のある校舎を意味もなく眺めてしまう。遠くに見える窓から教室の中を覗いて、そこに女子の面影が残っていないだろうかと探してしまうのは、さすがにちょっとやましい気分だ。
好奇心旺盛な男子としては多少の未練が残るものの、まさか部外者が無断で敷地内に入るわけにもいかず、後ろ髪を引かれつつも俺は視線を峰岸さんに向けた。彼女はどうやら校舎を見ていた俺の顔をずっと眺めていたらしく、だから不意に目が合ってしまう。
色々なことを見透かされたみたいで、なんだか後ろめたい。
俺は目をそらした。
「えっと、どこか休める場所ってあるのかな?」
「わからない。私もここに来たのは初めて。……けど、探せばあると思うよ」
「もちろん探せばあると思うけど、あっちこっち探してるうちに三十分が経ったら余計に疲れるだけだし悲しいよね」
「そのときはそのとき、そうじゃないときはラッキー。もしかしてオッチー君って、意外にネガティブ?」
そうだろうかと自分でも考えてみて、すぐには自分では判断が下せず、明言するのを避けるように「ちょっとくらいね」と答える。人間は誰しもちょっとくらいはネガティブで、その臆病さは生きていくために必要なものだとも思う。
全身全霊いつだって全力でネガティブな人は、その有り余る負のエナジーをどうにかしたほうがいいと思うけれど……それはもはや、なんらかの意味でポジティブだ。
「まぁ、このままここにいるのもあれだから、とりあえずどこか移動しようか」
これを言ったのは俺だ。特に反対する理由もないらしく、そうだねと頷いた峰岸さんにも異論はないらしい。
さて、それじゃどこに行こうか――と、そろって行き先を探した俺たち。
「……あっ!」
そのとき何かに気が付いたらしく、俺の隣で峰岸さんが声を上げた。視線の先を追ってみると、はるか前方、人通りも少なく幅のある歩道をこちらに向かって歩いてくる女生徒の姿が見えた。
彼女は誰も引き連れておらず一人だ。やがてこちらの存在に気がついたようで、右手を挙げて微笑を浮かべた。
「ほら、あれが先輩の小山さん。オッチー君、私の初恋の人だよっ」
小声で耳打ちする峰岸さんの声は浮かれている。やはり会えて嬉しいのだろう。告白をはぐらかされたとはいうが、それでも顔を合わせたくないほどの気まずい関係というわけでもないらしい。その辺りには彼女なりの悲喜こもごもした心境があるだろうから、あまり刺激しないように気をつけよう。
ゆっくりとした落ち着いた足取りでやって来た先輩は、改めて片手を挙げて峰岸さんにウインク。
「久しぶり。元気してた?」
「してましたよ。先輩のほうは?」
「んっふっふ。今からフルマラソンを走れるくらいには元気だよ」
それはすごく元気だな。
「……丸一日がかりでね」
その場で腕を振って見せるが、残念ながらタイムは遅いらしい。フルマラソンなら四十二キロにプラスで二百メートル弱だが、有名なチャリティー番組なら二十四時間で百キロくらいは芸能人を走らせる。
二人のやり取りを苦笑して見守っていたのがばれたのか、ここで彼女が俺の顔を興味深そうな目つきで見つめてきた。無遠慮なまでに忌憚なく一歩踏み込んで、ぐっと顔を近づけられる。
まるで値踏みされているみたいだ。どうせなら高く見積もってもらえたほうが男としては嬉しい。
「ところでマリ、この少年は誰だい? 中学校で会った記憶はないから、察するに高校の同級生かな? あるいはもしかして……」
さらに近寄ってきた彼女に、そばで立ち尽くす俺は肘で突っつかれる。
「マリの恋人かい?」
初恋の人に恋愛ネタでからかわれて不服なのか、答えもせず拗ねたように峰岸さんは頬を膨らませた。
なので、否定する役割は俺が担うことになる。
「違います。クラスの友達といいますか、同じサークルの仲間です」
「ふぅん……?」
興味津々といった様子でキラキラ輝くのは、二つの黒水晶みたいな彼女の瞳だ。じっと見られているので、何かを言いたげな表情であることがわかる。
すごく言いたそうである。うずうずしている感じが伝わってくる。
「……ま、いいさ。いいことは言わなくたってわかる。やなことは言うな」
したり顔の小山先輩は右手で自分の髪を撫で付けると、その右手を胸の前くらいでサムズアップさせて美しく笑った。実に頼もしく気取っている。
「近くにいい場所があるのを知ってるんだ。とにかく場所を移そうか。よし、私についてきな……ってね」
どこへともなく、どこかへと。悠然と身を翻した先輩は背を向けて歩き出した。