表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/36

07 峰岸さんとの同盟関係

 五月の中旬に入って数日後、ようやく大型連休の余韻が抜けた俺は日常の中に小さな違和感を覚えた。目立った変化の一つに隠れてしまって気が付くまでに時間はかかったが、早い段階で気が付いたのは俺だけだったらしい。

 まずは大きな変化。これは先述したように、榎本の変化だ。

 自分を押さえ込んでいた常識のかせを少し外して、欲求不満解消のため積極性を身に付けていた彼女。もちろんそれだって馬鹿正直に「私は欲求不満です、いじってください!」とは言えないから、事情を知らないクラスメイトからすれば、連休を明けてからの彼女がちょっと“お転婆”になったくらいに思えただろう。

 少なくとも好意を抱かれる方向への明るいテンションアップであって、ネガティブな変化ではなかった。もちろんそうなるように、相談役である俺から彼女にアドバイスをした事実もある。

 それはやりすぎ、だけどここまでは常識の範疇はんちゅうだよ、などと。ぶんぶんと尻尾を振ってはしゃぐ小型犬の手綱を握らされていたわけだ。

 小学生との触れ合いや俺たち実践文芸サークルでの雑談を経験してか、榎本はますます活発になって、ますます感情豊かになって、ますます親しみやすいフレンドリーさを手に入れたようだった。屈託のない自然な笑顔が頻繁に見られるようになったのは、なんだかんだと中学生のころから彼女のそばにいる身として、嬉しいの一言ではすまされないような、特定女子に対する“意識”を俺の心に生み出しつつあった。

 けれど、それを明確なものにしてしまうには時期尚早な気がしたので、現時点では保留ということにしておこう。

 一方、なかなか気付かれないような小さな変化としては、これまで頼れるクラス委員長としてみんなをまとめてきた峰岸さんのことがあった。

 最初、それは榎本の友達として、生真面目な彼女が振り回されているのだと思われた。つまり、峰岸さんは榎本が見せるあまりの元気のよさについていけず、けれど折角の友人を傷つけまいと、彼女のテンションにあわせて無理をしているのかと思ったのだ。

 それだったらまだ対処のしがいがあっただろう。相談役として俺から榎本に事情を説明して、困惑気味の峰岸さんに気を遣ってやるようお願いすれば、それで当面の問題は解決したに違いない。

 しかし、どうやら峰岸さんは美馬に対しても遠慮しているようだった。

 たとえば俺や赤松は同じサークルであっても異性なのだから、遠慮されるのも避けられるのも理解できる。しかし美馬は彼女にとって同性で、あけすけでクールな美馬は峰岸さんに無理をさせるような人間でもないように思われた。

 その点に誰よりも早く気が付いたらしい俺は心配もあって、注意深く峰岸さんを観察した。榎本のアホさが原因なら、彼女の相談役である俺にも責任があるからである。

 すると、さらなる事情を察知した。

 どうやら彼女は榎本や美馬に限らず、クラスのほぼ全員に対して、ぎこちない態度をとるようになっていたのだ。先生に対しても当初の有能ぶりが嘘のように奥手がちであり、まるで無理をしていて、どこか演技がかったクラス委員長だ。

 そして誰の目にもわかるくらい露骨に疲れた様子を見せた翌日。彼女は熱を出して学校を休んだ。最近調子が悪かったのは風邪なのに無理をしていたからかと、俺に遅れて峰岸さんの不調に気が付いたクラスメイト達はささやきあった。

 しかし、ここ数日あえて声を掛けずに彼女を見守っていた俺には一つの予感があった。

 予感……いや、この場合は共感かもしれない。

 翌々日も体調不良だった彼女は学校を休んで、さらにその翌日は土曜日で休日。

 気持ちいいくらい青々と空が晴れたのに、天気がいいからといって無意味な外出はせず、だらだらと暇を持て余していた午後の二時。

 突然鳴り響いたドアチャイムが俺を玄関先に呼びつけた。


「あれ、峰岸さん? どうしたの? ……っと、それより体は大丈夫?」


「風邪は昨日で治りましたから。心配してくれてありがとうございます」


 気安さを感じさせるラフな普段着で俺の家を訪れたのは、昨日まで学校を休んでいた峰岸さんだった。それにしてもアポなしの不意な来訪である。

 訪問の目的がわからず緊張した俺が不思議がっていると、不思議がっているのが不思議らしく、映し鏡みたいにして彼女も小首を傾げた。


「今日はサークルの集会でしたよね?」


 少し自信のない声。

 答える俺も自信がなくなる。


「あ、それ明日……」


 二人の間に気まずい沈黙が通り雨のように降りかかった。

 どちらにも沈黙の雨を打ち破る言葉の傘に持ち合わせはなく、目を泳がせて息を呑むことくらいしかできない。

 たっぷり数秒を無為に使い果たして、所在無くうつむいた峰岸さんは赤面した。


「……ごめんなさい。帰ります」


 むき出しの心が冷たい沈黙の雨に濡れすぼみ、まるで捨てられた子猫のような面持ちをする彼女。弱々しく背を向けて、寂しげな様子で扉を閉めようとする。

 このまま放り出せるわけがない。


「せ、折角だから上がっていってよ。ちょうど暇してたから、こうして峰岸さんが遊びに来てくれて嬉しいなぁ!」


 ちらりと顔だけで振り向いて、少しためらって彼女。


「今、お姉さんの早紀さんは……?」


 果たして峰岸さんはどちらの答えを期待しているのだろうかと考えて、考えたところで嘘をついたって仕方がなく、半ば開き直った口調で俺は言った。


「いない。留守だよ。たぶん夕方までは帰ってこない。だから二人きりになるね」


 それを聞いた峰岸さんは目を閉じて、なにやら考え込んでしまう。姉さんが外出中ということは家に上がれば俺と二人きりになってしまうので、ここは誘いを断って帰るべきかどうか悩むのも無理はないだろう。

 やがて音を立てず静かに扉を閉めて、しおらしく玄関の内側に残った峰岸さんは頭を下げてこう言った。


「お邪魔します」







 とりあえずリビングに案内してソファに座ってもらうと、まず俺は飲み物を用意することにした。峰岸さんの好みがわからないので、ここは無難に麦茶である。

 五月の初めに実践文芸サークルを結成して以来、その拠点に定められた我が家には彼女も放課後や休日に何度か足を踏み入れてもらっているのだが、こうして家の中で女子と二人きりになるのは高校生になって初めてのことだ。

 しかも峰岸さんは榎本や美馬と違って、俺とは高校で知り合ったばかりの女性である。失礼のないようにと俺が緊張するのも当然で、しどろもどろな対応になりかねない。

 何事も最初が肝心だ。

 慎重に言葉を選んで、俺は彼女の緊張を解きほぐしにかかった。


「あの、精一杯くつろいでね。気を遣わなくてもいいから」


「は、はい……」


 はっきりとしない反応を見る限り、頼れるクラス委員長として勇名を馳せた彼女も男子と二人きりになるのは不慣れなことらしく、すっかり緊張した様子だ。俺も彼女の緊張を受け取ってしまい、いきなり頭の中が真っ白になった。

 正真正銘のノープラン。自宅に女子を招いて、さて何をすれば正解と呼べるのやら。すっかり対応に困ったが、こればかりはどうしようもない。美馬や榎本以外の女の子と遊んだ場数が足りないので、峰岸さんのようなタイプの女子を相手にどう対処すべきか妙案が思いつかないのである。

 このままでは時間が無駄に過ぎ去ってしまうばかりなので、とにかく何かやったほうがいいだろう。きっかけはともかく家に上がるように誘ったのは俺で、なにはともあれ彼女はお客様なのだから、もてなす責任が俺にはある。

 とにもかくにも、ここは必死になって話題を搾り出すしかない。


「一休さんって知ってる?」


「とんちのお上手なお坊さんですよね?」


「うん。でもあれって結局は屁理屈だよね。上手いとんちだからって褒めているけど、あの話を子供に読み聞かせていたら、言い訳ばかりする大人になりそう」


「……ええ、まぁ」


「うん。それだけなんだけど……」


 会話終了である。盛り上がるどころか、最初より盛り下がった気のするムードが心に痛い。これがデートだったら「つまらない男ね」なんて言われて振られていたところだ。

 ここには俺と峰岸さんだけがいて、他の誰かに話を聞かれる心配はない。友達なんてものはぶつかり合って音を鳴らす打楽器みたいなものだ。傷つくことを恐れて遠慮ばかりしていては、きっと誰にも近づけない。

 罠を張り巡らせて牽制しあうのは敵が相手の場合だけでいい。後悔しかねない下手な策を弄するのはやめておこう。直球勝負は変化のいらないストレートを投げるだけで後腐れがなくていい上に、振りかぶった分だけ気持ちがいいものだ。


「……あのね、実は心配だったんだ」


「一休さんの将来がですか? でもあの方は無事に悟りを開いて、どこかの住職になったかと」


「えっと、そうじゃなくて」


 苦笑する余裕が出てきたのは、いい傾向だということで。

 ようやく相手の目を見る度胸を得られた俺は、視線を真っ直ぐに向けて、目の前に座っている彼女の端正な顔を視界に捉えた。

 誤魔化しなく誤解なく、馬鹿正直にいこう。


「峰岸さんのことが心配だったんだ」


「え、私のことが? でもどうして? 別に私は……」


 斜め下へと顔をそらした瞬間を見計らって、少しだけ卑怯な気もしたけれど、彼女の尻切れトンボなセリフにかぶせる形で俺は切り込んだ。


「ひょっとして五月病みたいなものじゃないかなって」


 俺の指摘が直撃したのか的外れだったのか、いずれにせよ彼女は反論を封じ込めて黙り込んだ。しかし慌てた様子はない。まぶたを揺らして両目を閉じたのも一瞬だけで、ただちに顔を上げて真正面に座る俺の目を覗き込んだ。

 淡々と、あくまでも上品に彼女は口を開く。

 まだ隙がない。いつもの頼れるクラス委員長だ。


「どうしてそう思うんですか?」


「俺がそうなりかけているから……と言ったら笑う?」


「笑いたいところです。――笑える気分だったなら」


 と、ここで初めて隙らしい隙を隠すことなく見せてくれた峰岸さん。完璧な印象の強かったクラス委員長の時とは異なって、自分の内面に弱い部分が存在することを白状したようなものだ。

 そしてそれは、多くの場合が“ある種の救難信号”なのだ。

 ここで一緒に溺れてはならないから、俺は考えに考えて、気の利いた言葉を選ぼうとした。泥舟だとしても、少なくともしばらくは彼女が安心できるように支えてあげたい。


「俺なんかでよかったら、これから峰岸さんがそういう気分になれるよう協力するよ。とりあえず話を聞かせてくれないかな。そして、帰るときまでには笑ってほしい。そうでなくちゃ……」


「なくっちゃ?」


「可愛い顔が台無しだよ」


 と、キザに気取ったつもりの俺。だけど彼女からの反応は辛らつだ。


「言葉を飾りすぎていて、折角の優しい気持ちが台無しですね」


「だよね。自分でも言ってて恥ずかしかったもの」


「……でも嬉しいです。心配してくれていたのは」


 小さな声で言って、照れ隠しなのか、彼女は両手で挟んだコップを口に運ぶ。

 余程のどが渇いていたのか、麦茶を飲み干してしまったらしい。俺の方もすでに空になっていたので、おかわりを入れてこようと席を立った。

 さりげなく峰岸さんからコップを受け取る。


「あ、そういえば麦茶でよかった? 欲しいならジュースもあるけど……。それとも紅茶とか?」


 ないものはないが、あるものは出し惜しみしない。それもこれも峰岸さんのためだ。

 無論、これが男なら水でも飲んでろと言うところだが。どうりで男の友達が少ないわけだ。そう考えると赤松って意外と付き合いいいよな。


「乙終君と同じものをください」


「じゃあ……ジュースにしようかな」


 たぶん刺激は要らないだろうから、炭酸じゃない奴を。

 リビングに峰岸さんを残して隣のキッチンへ向かう。姉さんが冷蔵庫の中に買い置きしていたオレンジジュースを手にとってコップに注いでいると、これまた姉さんが買いだめしていたクッキーがあったことを思い出した。

 ごめん姉さん、二人でおいしくいただきますから。

 姉さんが好きだというクッキーとオレンジジュースの組み合わせは峰岸さんの舌にもあったらしく、和気藹々と会話が弾むほどではないにせよ、ささやかに楽しく午後のジュースタイムを過ごすことができた。気のせいか、多少は親睦が深まった気もする。

 ゆるやかに時は過ぎて、三時。

 壁掛け時計を横目でチラッと確認した峰岸さんは困った風な顔の前で、両手の五本指をあわせながら、もじもじと臆病で人見知りな子供がそうするように俺の表情を窺ってきた。


「すごく、迷ったんですけれど……。あの、ちょっと弱音をはいていいですか?」


「うん、いやでなければ遠慮なくどうぞ。弱音だったら、無理に強がられるよりはずっと嬉しいよ。色々あって、相談されるのは慣れてるしね。すごいことで悩んでいても驚かない自信がある」


「さすが部長、って感じですね」


 そういえば俺はサークルの部長だったな、などと実にどうでもよいことを思い出していると、そして彼女は語り始めた。

 彼女の過去の記憶。忘れるには近すぎる中学生のころを。


「私、中学校ではクラス委員長を押し付けられていたんです。おとなしくて反抗しないからって、面倒ごとを避けたみんなが、口数が少なくて黙りがちな私を一方的に推薦して……」


 誰からも強制されていない彼女の自由意志で行われる自白ではあるものの、やはり過去の自分を知られてしまうのは忸怩じくじたるものがあるのだろう。喋りながら俺の顔を見ていられなくなったらしく、すっと目を伏せる彼女。

 直視から逃げたというか、視線をずらすことによって、精神的な二人の距離にワンクッション置いたつもりなのだろう。たぶん彼女なりの無意識なダメージコントロールだ。ダイレクトに事実や感情をぶつけ合うコミュニケーションはいつだって諸刃の剣となる。

 そう、まだこの段階では、自分のことを語ってくれている彼女への相槌あいづちにさえ気を遣うのだ。どこで何が凶器となって、彼女の心をえぐってしまうかわからない。

 深く入り込むには地図が不明瞭で、行き先もわからず足が鈍る。

 速やかに返すべき言葉を選べず俺が黙り込んでいると、深刻に受け取られるのが恥ずかしかったのか、彼女は少しだけ声を張る。あくまでも少しだけ。


「でも、私は変わりたいって思った。だから、いっそ高校では自分から名乗り出てクラス委員長になるんだって決めた。そんな意地を張ることで、四月のうちは頭がいっぱいだったの……」


 言い終えて、そこで演技が力尽きたみたいで、ぽろぽろと涙がこぼれる。

 目の前で彼女が流すやわらかな涙には俗世間的な濁りがなくて、頬を伝えば詩的に美しいものを感じた。あれが悲しみの産物なら、確かに“憂いの感情”には、女性を絵画的に至高まで演出する魅力があるのだろう。穢れきっていない少女の心から零れ落ちたものは、どんなきっかけであれ、純なる輝きを失いはしない。

 しばし見とれていた俺は、しかし、だからこそ彼女の笑顔を見たいと思った。

 愛想笑いではなく、気取った微笑でもない。その人本来が持つ本物の、屈託のない満面の笑みを。

 笑顔は人を幸せにする。同時に、幸せでなければ見られない笑顔もある。


「大丈夫……に、しよう。五月からはまた変われるよ。六月からも、そして七月からも。人はいつだって変わっていけるのだし、周囲もそれを受け入れてくれるはずだから」


「……本当の弱い私がばれてしまったら、嫌われてしまうかもしれない」


「そんなことないと思う。少なくとも俺は弱い部分を含めて峰岸さんに好意的だしね。あと、たとえば榎本さんなんて、誰かを嫌うってネガティブな感情とは無縁のところで生きてそうじゃない?」


 一応は認める方向で頷いて、中途半端な角度に頭を下げたまま峰岸さんは考え込んだ。そして搾り出した答えがこうだ。


「積極的に仲良くしてくれる榎本さんは嬉しかった。だけど、ずっと人間的に生まれ変わろうと虚勢を張り続けていた私は、今になって、どう付き合っていけばいいのかわからなくなってしまって。彼女の前でなら、もっと自分らしい笑顔ができるんじゃないかなぁって……」


 中学生活で苦しんだ経験のある人間は、大なり小なり高校で生まれ変わることを願う。新しい環境、新しい人間関係が、新しい自分を導き出してくれることを期待して。

 いわゆる「高校デビュー」と呼ばれる例のあれだ。

 ただし、その切実さや深刻さは人によって異なる。軽いジョークのつもりで言っているだけの人もいれば、変わることに文字通り人生をかけている人もいるし、命がけで変わろうとするあまり、空回りして状況が悪化することもある。

 本当の自分とは何か。どう振る舞うのが自分らしいか。

 誰もがその問いから無関係ではいられない。いられなくなる時期が思春期なのだ。


「氷見ちゃんも榎本さんも、思えば同じようなことで悩んでいたからね。打ち明ければ、みんな助けになってくれると思うけど」


「うん、それはわかるの。でも、気持ちの切り替えって、そう簡単にはいかないから……。本気で悩んでいることは、誰かに気軽に打ち明けられるものでもないの。ただ、こうして乙終君に打ち明けたのは、その、気の迷いだとして……」


 これは気の迷いだったのか。いや、ここは結果を重視して喜んでおくことにしよう。気の迷いでも打ち明けられなかった可能性がある限り、彼女にとって告白する相手が誰でもよかったというわけではないのだから。


「そういえば、乙終君も五月病になりかけているって……?」


「え? あ、ああ……。その話もしたほうがいいよね、やっぱり」


 これは榎本さんに聞けばわかるけど――と、ちょっと気まずい前置きをして俺は言う。榎本と俺との関係は、自分でも明確に定義しかねているのだ。


「中学生のころの俺はちょっと暗かったんだよね。友達もあんまりいなかったし。色々あって……っていうか、なかったからかな? とにかく、あのままじゃ駄目だと思った」


「でも、全然そんな風には見えませんでしたけど?」


「それはよかった。でもさ、それを言ったら俺から見た高校生の峰岸さんも、弱かったっていう中学時代なんて想像できないよ。それくらい無理をしているってことなのかもしれないけれど」


「……乙終君も無理をしているのかな?」


 一瞬うんと頷きかけて、即座に考え直した俺は首を横に振った。


「いや、俺は無理をせずにすんでいるよ。たぶん、四月の最初の時期に赤松と美馬の二人に再会できたことも大きかったと思う。純粋に楽しかった小学生のころに戻れた気がして。中学校の三年間を切り離して考えられるようになったから、今は」


「……そうでしたか」


 と、なにやら峰岸さんの返事は元気がない。

 そこで俺が、今の発言に彼女の名前を出していなかったことに気がついて、慌てた。


「あ、そして峰岸さんとは、これからだしね! 素敵な峰岸さんと知り合えたのは輝かしい高校生活を期待させてくれる幸運な出会いだから!」


「ふふ、それは私もです。もっとも私の場合は乙終君だけに限らず、サークルメンバーの皆さんとの出会いすべてが、ですけれど」


 そう思ってくれているなら、彼女を仲間に誘った俺としても幸せなことだ。

 真面目一辺倒ではない部分についても、これから互いの理解を深めていけることだろう。ある意味では悪友と呼べるような関係性をも目指して、俺たちはサークル活動を媒介にたくさんの思い出を作っていけるのかもしれない。

 かもしれないじゃなくて、作るのだ。

 希望ある未来のことを想像するときは、過去の傷なんてものは薄れている。

 そしていつか後悔や未練といったものを完全に乗り越えられたなら――。


「でも、よかった。高校で新しい自分をスタートさせたいっていう同じ境遇にある仲間は、今のところ峰岸さんだけだから、ちょっと嬉しいな。思い出すのも辛いことまで教えてくれてありがとう。なんだか俺、気が楽になったよ」


 懸命に変わろうと努力しているのが自分ひとりではないと知れたことは、とても心強い事実だ。俺と彼女の事実から押し広げて考えれば、きっと、誰もが自分に出来る範囲で変わろうともがいているのかもしれない。それを他人には知られないように隠しつつも、少しずつ、着実に自分が思い描く理想像へと近づいていこうと努力しているのだろう。


「あの、乙終君。でもね、これだけは聞いておいてください」


 切実なる声だったので、俺は峰岸さんを正面から見据えて首を縦に振った。


「あの日、新しい部活動を創設するっていう乙終君の誘いに乗ったのは、新しい場所でなら、新しい自分の振る舞い方を見つけやすいんじゃないかと思ったからで。自分の目的のために皆さんを利用しているんじゃないかって、実はずっと気に病んでいたので、今日は話せて楽になりました。……ごめんなさい」


「そんなこと。……正直に言っちゃえば俺もさ、あのとき峰岸さんを誘ったのは、みんなに頼られて完璧に振る舞っていたクラス委員長のことを、これからの高校生活のお手本にしたいっていうのが強くて。いい影響を受けたいがために、君とは友達になりたくて……。つまり全部自分の都合だったから。実は俺も、本当は峰岸さんに頼りきっていただけなんだ。ごめん」


「……お互いさまだったんですね、私たち」


「持ちつ持たれつってことかな」


「恋人みたいに?」


「……こ、恋人っ?」


「ふふ、冗談ですよ。その反応は可愛いですねっ!」


 ころころと笑われる。かわかわれたらしいが、悪い気はしなかった。過去の暴露話が一段落して、ようやくふざけあえるようになって、むしろ嬉しいと思うのだ。

 この日の告白は、たぶん俺たちのあり方に一石を投じうるものだっただろう。

 けれど、だからといって今日までの関係が嘘だったということにはならないし、今日からの関係は、もっと意味を持って育まれていくはずだ。


「そういえば最初に言ったとおり笑える気分になったみたいだね、峰岸さん。だとすれば今日は有意義な時間を過ごせたのかも。……あの、そろそろ帰る? 途中までなら送っていくけど」


 日が暮れ始める夕方ごろには姉さんが帰ってくるので、その前に峰岸さんは帰ったほうがいいだろう。なにしろ姉さんは我が実践文芸サークルの顧問であり、もし姉さんに俺たちが休日を二人きりで過ごしていたことが知られれば、明日の集会で他のメンバーにも今日のことがばれてしまうかもしれないのだ。

 別に俺はいいとしても、今の段階では、峰岸さんは他の人に秘密にしていることを知られたがらないだろう。心の整理と準備には時間がかかるものである。

 てきぱきと帰る身支度を整え終えて、ソファから立ち上がった峰岸さん。

 しかしリビングを出ようかというとき、見送るため背後に立っていた俺へと目線を合わせるように振り返った。長い黒髪が風にたなびく。ちょっと緊張している様子。


「あの、提案があります。似たような境遇にある乙終君と私で、“飾らない同盟”を結びませんか? 二人きりのときには無理をせず、気軽に相談し合える心の同盟です」


 え、なにそれ? と言いたくなったけれども、それはすんでのところで飲み込んだ。たぶん彼女なりの精一杯のお願いなのだ。適当な返事で彼女を傷つけてしまうのは本意ではない。

 おそらく、飾らない友達関係になろうという誘いなのだろう。ならば断る理由もない。むしろこちらからお願いしたいくらいだ。

 深く考えるまでもなく俺が同盟関係を受け入れると、一呼吸あって、肩の力を抜いた彼女は喜んだ。俺の返答があるまで息を止めていたらしい。ほのかに顔が赤らみている。


「飾らない同盟というからには、絶対に飾っちゃ駄目ですからね? みんなには秘密にする私たちだけの同盟ですが、二人のときは互いに見栄を張らないこと。意地も張らないでくださいよ?」


 これからの同盟関係を約束した俺と峰岸さんは、それを簡単には反故にされない確固たる契約にするためか、お互いにスマホを出して連絡先を交換した。

 そして、これで満足したのだろう。

 一礼して退出すると、嬉しそうに帰っていった。







 彼女からの電話はその日の夜にあった。夕方に別れてから、四時間程度が経過したころだ。

 事前に「話したいことがあるから今から電話するね」とのメッセージがあったので、まぁ、心の準備は万全だ。電話口で事務的に簡単な挨拶を終えると、うずうずしているのか、やや上ずっている声の峰岸さんは早速本題を切り出した。


「明日の予定だけど……」


 ちなみに、彼女と結んだ“飾らない同盟”の効力によって、電話など二人きりの状況下では敬語を使用しないことになっている。

 新鮮味があるのでちょっとドキドキだ。


「明日こそはサークルの集会だね。例のごとく俺の家。みんな来るよ」


 電話での会話は慣れないもので、どこか二人だけの空間にいて、こっそり耳元へ口を寄せ合って、秘密の言葉をささやき交わしているような感覚がある。相手が同年代の女子であれば、意味のない雑談でも夜のお供にずっと続けていたいくらいの心地よさに溢れる。

 これが男なら用件を言って相手の返事を聞いて即座に切るところだ。男友達が少ないゆえんである。


「それ、中止にすることできるかな? できないかな?」


「……中止? まぁ、たかが雑談で重要な話し合いをするってわけでもないし、俺から他の三人に連絡すれば中止にできないこともないけど、どうして?」


 何か事情があるのだと予想して身構えていると、やわらかなささやきが鼓膜を揺らした。


「二人で会いたい」


 女性からこんなことを言われたのは初めてだ。動揺のあまり危うくスマホを落としそうになった。

 思わず床に正座してしまう。背筋を伸ばして肩肘を張ってしまう。勢い込んでしまう。


「つまり、つまりそれは……!」


 デートのお誘いなのか。手に汗をにじませて俺は尋ねた。


「ぶっぶー、デートじゃないよ。ちゃんと段階を踏んでからだね、それは。まず恋をしなくちゃ」


「あ、うん……」


 微妙に振られた気がする。

 いや、ちょっとくらい可能性はあるのかもしれないが。


「でも、それじゃ何? 遊びの約束ってわけじゃなさそうだけど」


 即座にうん、と電話越しに頷いて彼女は言った。


「過去を踏み切る最後のステップ。乙終君、頼みたいことがあるの。明日は私の手を引いて、そして私の背を押して」


 なんだか詩的だ。散文的にしか喋っていない俺が馬鹿みたいだ。

 ちょっと恥ずかしくなる。


「……具体的には?」


「明日の朝、私は自転車に乗ってあなたの家まで迎えに行く。そしたら私と一緒に自転車に乗って、ついてきてほしいところがあるの。電話じゃあれだから、詳しくはそのとき話すよ。……ね、手伝って。約束したもんね?」


 求めるよりも甘えた感じ。わがままに頬を膨らませた気配を声に含めて。断れない空気が今後に及ぶ二人の良好な関係性を人質に捕らえたみたいで、俺は頷くしかなかった。


「わかった。いやじゃないし、別に俺はいいよ。だけど俺だけで大丈夫なの?」


 他に誰か誘ったほうがいいのでは、と提案したわけだ。けれど彼女は否定する。


「……やだよ、二人きりがいい。誰にも知られず、乙終君だけを連れて行きたい」


 ――だって、そのための同盟でしょ?


 かもしれない。ここで誰かを誘えば、その誰かも飾らない同盟の一員に加えざるを得ないだろう。今のところ別の誰かを同盟に加えるつもりはないらしい。

 俺は「なら仕方ないね」と答えて、その答えに満足した彼女は「それじゃ明日」と電話を切った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ