06 とりあえずの満足
氷見ちゃんが取った「外へ出る」という選択肢は、孤立無援だった彼女にとって榎本との立場を逆転させる行動だ。たとえ遊びであっても、高校生が小学生をいじめているかのような構図は社会的に問題とされるが、その逆はあまりならない。
小学生に扮した女子高生の榎本に付き合わされてきた鬱憤と緊張があるだけに、逆襲に出た氷見ちゃんのポテンシャルは無限大だ。肝心なところでは女子高生としての常識が邪魔をする榎本は、意外にも外に出れば弱い。衆人環視の前では当たり前に恥じらうからだ。
しかし氷見ちゃんにとっては「小学生同士の遊び」という建前で、年上の女子高生を自由にもてあそぶことができるだろう。榎本が自分から「ごめんね、私小学生じゃないの」と正体を明かさない限り、ずっと。
そんなこんなで近所の公園へ赴くことになった俺たち。
さしもの榎本も小学生時代に着ていた制服を諦め、ここは無難に服を着替える。コーディネートの基本はブラウスのようだ。
おしゃれな横縞模様のニーソックスに、これも元気な子供らしさをアピールするためか、太ももを大胆に露出したホットパンツ。足元にはピンクのラインが入った白いスニーカー。それから野球帽に水筒を完備だ。
涙ぐましい努力で頑張って小学生に近づこうとしているのは目に見えて伝わってくるが、どうしても女子高生、よくて中学生くらいにしか見えない。男子高校生である俺の立場から言わせてもらえば、友達として一年強の付き合いがある榎本は女子高生らしい魅力や、可愛さの残る色気が少しずつ目立ってきている年頃なので、どう頑張られても俺より年下には見えない。
だからといって年上にも見えないのが俺と榎本のはっきりしない距離感だが、それは決して悪いことではないのだろう。
俺をはじめとして赤松、美馬、峰岸さんの高校生組みは、それぞれに自腹で自販機のジュースを買って、同性同士で二人ずつ、隣り合った二つのベンチに並んで腰を下ろすと、親友となったばかりである二人の“小学生”を見守ることになった。
事情を知らない人が見れば、きっと榎本は小学生の女の子に振り回されるお姉さんといった感じに見えるだろう。いやいや、見えるも何も、実際には榎本が自分のことを小学生であると偽って遊んでいるだけで、それは正しい印象だ。
あれをして、これをしてと、次から次へと上から目線で指示を出す氷見ちゃんはすっかりご満悦。指示を出される榎本はどこを駆け回ったのか、泥だらけで汗を浮かべている。
しかし氷見ちゃんよりも輝かしい笑顔で嬉しそうだから幸せな娘である。
「加奈、二人でおままごとしよう」
「おままごと?」
「そう、シンデレラ」
さすが小学生。なんて子供らしい遊びだろう。
「私がいじわるな継母。加奈がシンデレラ」
「うん」
ここまでは普通。ここからが少女サディスティック。
「だけど二人きりじゃ魔法使い役も王子様役もいないから、ずっと私にいじめられててね」
「……任せて! 氷見ちゃんなら大丈夫。どんどん責めてね、私、何にでもこたえるから!」
報われないとわかっている悲劇のヒロインを演じることに、なぜか全力の榎本。相手が自分より幼い小学生だからか、油断しているのだろう。あるいは、もしや、小学生になじられることが徐々に快感となっているのかもしれない。
だとすれば色々と人間的に危険な気もするのだが、ちゃんと帰ってこられるのだろうか、彼女は日常の世界に。
「すごく、天真爛漫といいますか。いつも一生懸命で、精一杯に楽しんでいるみたいですよね。それでいて、誰にも嫌われない明るさがあって……」
それは榎本についての評価だ。発言者は峰岸さんである。
――あれでも欲求不満みたいだけどね。
とは言えない。峰岸さんが褒めているのだから、俺も榎本を褒めてあげたいと思った。中学生のころから彼女を知っているのは、たぶん、この場において俺だけだろうから。
「榎本さんは、たぶん、優しいのだと思う。自分が道化になってバカをやることで、みんなを元気付けようとしているんだって……。この前までは、もうちょっと常識的な無邪気さをキープしていたような気もするけどね」
「彼女、中学生のころからあんなだったの?」
とは、そろそろ欲求不満を隠せなくなりつつある榎本について尋ねる美馬だ。
小学生になりきることすら楽しむ、いじられたがりの構ってちゃん。
可愛いといえば可愛いけど、やっぱ普通に考えれば変か。
「今と変わらず明るくて元気な女の子だったよ。……普通のね。でも、なんというのかな、最近は高校生になったばかりでテンションが上がってるだけだと思う」
「テンションが上がってるって、つまり高校デビューみたいな感じ?」
「うぐっ……」
いきなり痛いところをつかれた俺は言葉に詰まる。
一見なんでもないような「高校デビュー」という言葉は、しかし高校生活に対して空回りに近い希望を持っている人間にとってはナイーブな響きを持っている。中学生のころに負った傷を忘れられず、思い出しては苦悩してしまうからである。
誤魔化して顔をそむけようとしたが、俺はそこで意外なものに気がついた。
「…………んっ」
静かに息を呑み、ひっそりと顔を曇らせる峰岸さんである。普段の凛々しい装いとは裏腹に、どこか思いつめたような弱々しい印象を受ける。
ひょっとして、彼女も高校デビューについて思うところがあるのだろうか?
軽々しく踏み込んでいいものかどうか迷った俺が峰岸さんに声を掛けるべきか決めかねていると、灯台下暗しとでもいうのか、隣に座っている彼女の様子に気付いていないらしい美馬が問いかけてきた。
「私にはちょっと、あの子が無理をしているようにも見えるけど。大丈夫なの?」
これもまた榎本についてだ。そんなに気になるか。好きなのか。
ゆっくりと考えて、俺は答える。
「もう、誰も落ち込ませたくないんだと思う。榎本さんって優しいから。たぶんだけど、あんまり悲しむ人の姿を見たくないのかも」
「どうしてそう思うの? やけに知った風な口調だけど」
「それは――」
……彼女にとって、中学生のころの俺がそうだったから。
いや、これは言う必要がないだろう。美馬には言っても仕方のないことだ。中学はもうすでに卒業して、俺たちは高校生になったのだから。新しい今を生きているのだから。
一瞬だけうつむいた俺は顔を上げて、キョロキョロと榎本の姿を探した。これはすぐに見つかった。今は氷見ちゃんと一緒に砂場で遊んでいるようだ。
笑って、喜んで、氷見ちゃんを相手に緩みきった榎本の、あどけない表情が見える。
何も考えていないような、けれど、ずっと何かを考えているような。
「オッチー? もしかして、オッチーって……」
少し臆病に震えた声。
このとき美馬が俺に何を言おうとしたのか、何かを言われかかった俺がそれを理解してしまう前に、まるで俺たちの会話を邪魔するみたいなタイミングで赤松が大きく声を張り上げた。
「あっ、おい! あいつらを見ろ!」
全員の意識が赤松の視線の先にひきつけられる。
あいつらとは、もちろん榎本と氷見ちゃんの二人のことだろう。今は仲良く砂場で遊んでいる。仲良く遊んでいるなら何も問題ないように思うが、その、世代を超えた仲の良さが、ある意味では危険領域に達していたのかもしれない。
なにしろ立場逆転の主従プレイだ。
小学生である氷見ちゃんが、自分よりずっと年上の高校生である榎本を冷笑混じりに使役して、灰かぶり姫ならぬ砂かぶり姫となった榎本は恍惚とした笑顔を浮かべており、かりそめの女王と認めた氷見ちゃんのお膝元に砂の城を建築しようと熱心に働いているのだから。
「氷見ちゃん、だよね……?」
「……あっ」
デキの悪かった砂の城を遠慮なく踏みつけて、砂場にへたり込んだ榎本の鼻に指をつきつけ、すっかり勢いづいている氷見ちゃんが余裕たっぷり「だめ~」と笑って、そんな風に年上の女子高生をからかっていたときである。
彼女のクラスメイトであろう女子小学生とみられる三名が、砂場で遊ぶ二人に遠慮がちに声を掛けてきたのだった。学校では優等生の仮面を被り、決して自分をさらけ出さず、なかなかクラスに馴染めないと悩んでいたらしい氷見ちゃん。
よりにもよって、おそらく学校の誰にも知られたくはなかったであろう、我を忘れて調子に乗っているサディスティックな一面が運悪く同じクラスの女子に目撃されてしまうとは、一体誰が予想しえたであろうか。
ここまで器用に当たり障りなく生きてきた少女にとって、こんな現場を見られてしまうなんてダメージが計り知れない。彼女のイメージがマイナス方向へと一変されかねない致命的なミスである。
砂の城を踏みつけた足も、鼻の頭に押し付けた指先も、ちょっと勝ち誇ったような顔つきも、虚をつかれた氷見ちゃんは全く動かすことができず、きらりと日光を反射させた冷や汗が頬を伝う。声を掛けた三人も二の句が継げないでいる。
ところが、気まずげな沈黙は数秒だけのこと。
冷気を浴びたみたいに固まっていた空気は破られる。
たいていの場合、それは空気を読めない能天気な奴によって。
「あれ、みんなも一緒に遊びたい? ちょうどよかった。さっきから氷見ちゃんがノリノリでね、さすがの私でも一人じゃすべての要求にこたえるのが大変だったのね。ささ、みんなも氷見ちゃんにひざまずいて遊ぼうよ!」
にっこり笑う榎本に悪気はない。配慮がないだけだ。
「さっきから遠くで様子をうかがってたんだけどさ」と少女A。
「氷見ちゃん、そのお姉ちゃんに命令してたよね?」と少女B。
「しかも偉そうに楽しそうに、まるで女王様みたいに」と少女C。
三人の視線が一斉に氷見ちゃんに集中する。怪訝なる瞳だ。あるいは好奇心か?
「えっとそれは……」
指を引っ込め、足を引っ込め、ここをどう切り抜けるべきか懸命に頭を働かせる彼女。
いっそ榎本を実の姉と言い張って、わがままを言って遊んでいたと説明するべきか。いや、それでは結局彼女らに自分がわがままな人間だとの印象を与えてしまうのではないか――。
即答できず、口をもごもごさせるしかなかった氷見ちゃん。
ここで出しゃばる女こそ、期待を裏切らない榎本だ。
「まるで女王様じゃなくて、まさしく女王様なのね。責任感と自覚と能力と、そして何より彼女はね、とにかく他人を支配したいっていう本能的な欲求に恵まれているの。人の上に立つ人間って多くの場合は状況がそうさせてしまうのだけど、まれに本人の資質が状況を作り出してしまう場合があるのよね」
と、ぺらぺら喋っているうちに興が乗ってきたのか、いつものように胸を張って得意げになった榎本は、戸惑った様子の女の子三人を相手に勝手な自説を繰り広げた。
「それにクラスに一人くらい女子をまとめるリーダーがいないと駄目だよ。女子って何かと派閥を作りたがるものだし、一致団結して男子の暴走を止めるためにも、とにかく女子を代表する女王様は必要だから。あと、困ったときには責任をなすりつけられるしね」
「えっ、なすりつけないでよ!」
「じゃー、すがりつこうっと」
「すがりつくのも駄目!」
年の差を忘れて、元気な子猫同士みたいにじゃれあう榎本と氷見ちゃん。離れて見ていると、本当に仲のいい姉妹のようだ。赤松よ、なんだったら妹を榎本に譲ってやれ。
そんなやんちゃな二人の姿を見て、女の子三人は興味津々に目を見張る。
「氷見ちゃん、学校での落ち着いた印象と全然違うね」と少女A。
「生真面目で他人を寄せ付けないタイプだと思ってた」と少女B。
「だけど、今の氷見ちゃんって“変だけど”好印象だよ」と少女C。
悪意のない三人が笑いながら伝えてきた言葉に、今までの外的イメージが崩れ去ったことを悟った氷見ちゃんはうろたえるしかなかった。積極的に友達を作るよりも、一歩下がってでも、彼女は優等生的な外面を重視してきたのだ。処世術に等しい生き方を破壊された衝撃といったら、俺に欲求不満の秘密を盗み聞きされた榎本の比ではないだろう。
その榎本はといえば、三人の少女と同じく笑って氷見ちゃんを見守っている。
一瞬の立場逆転劇でもあるが、これもまたすぐに逆転してしまうだろう。榎本はそういう娘だ。
「じゃあまた、学校で」
そう言ってヒラヒラと手を振った彼女らが、なんとも言いがたい含み笑いを浮かべていたのは気になったが、おそらく明日からは氷見ちゃんの学校における立場は色々と変わってしまうだろう。
それが果たして本当にいいことなのかどうかは別として、彼女が周囲に気を遣い過ぎず彼女らしく生きられれば、それは一つの幸せに至る道であると俺は願いたかった。
後日談を少々。どれも一週間程度のできごとだ。
まずは氷見ちゃんの件について。例の三人に持ち上げられる形で彼女は人の上に立ちたがる本性を現したのだが、それから実に三日目にして、クラスは男女含めて氷見ちゃんの一人天下になったらしい。
そのことを報告しに我が家を訪れた氷見ちゃんはとても嬉しそうで、クラスで女王様と呼ばれているとは想像もつかない可憐さと無邪気さだった。
「今度からは素直に甘えちゃいますね、乙終さん!」
別れ際の玄関先で、いじらしく腕に抱き付かれて言われた俺は赤松を蹴落として氷見ちゃんの兄の座を奪い取ろうかと本気で考えないこともなかったが、いやしかし、彼女にとっては兄の親友という特別な関係だからこそ素直になれるものがあるのだろう。
肉親に言えぬ悩みもある。今の距離感こそちょうどいいのかもしれない。
「どんどん甘えてくれたまえ。氷見ちゃんの兄貴より甘えがいがあるよ、俺は」
くるりとターンした氷見ちゃんは、とんとんと靴音で喜びを表現しているみたいだった。
「甘えて甘えて、いつか乙終さんの心の中をあまあまな私でいっぱいにしてみせます。知ってますか? チョコレートでコーティングされた心は恋の味になるんですよ!」
そう言い終えると、彼女は俺からの反論は許さないとばかりに走り去った。
さすがアメとムチを使いこなす小さく可憐な女王様。厳しく当たるサディスティックな言動のみならず、人心を掌握するための甘い言葉を知っている。これは将来が楽しみだ。
あと、ついでだから榎本についても述べておこう。
「あのね、どうやら私は小学生になつかれてしまったみたい」
と嬉しそうに報告してきた榎本。たぶん小学生と精神レベルが共鳴したのだろう。
赤松を媒介にして氷見ちゃんと連絡先を交換すると、あれから何度か暇な時間を作り出しては待ち合わせて、彼女の友達たち小学生数人と一緒に遊んだそうだ。
さて、榎本は再会するに当たって自分が高校生であるとカミングアウトしたわけだが、氷見ちゃんはもちろん初対面の時点で知っていて驚かなかった。そのことに榎本は驚いたようだが、俺としては彼女が驚いたことに驚いている。
コスプレ程度で小学生を騙せるわけがないだろうに、どこまで本気なのかわかったものじゃない。
「あのエネルギッシュなフレッシュさと、女の子らしいピュアでキュートな自己主張は見習うべきものがあるかもね。鋭い爪をむき出しにしたって可愛い子猫なら敵を作らないし、なでさせてくれる子猫は誰からも好かれるのね、現実として」
学会の場で自信のある研究論文を堂々と発表するような語り口からすると、小学生との触れ合いで感心したものがあった様子。少女サディストと乙女マゾヒストの化学反応か。
彼女を悩ませてきた欲求不満もだいぶ解消されてきたようで、俺は「よかったじゃん」と肩を叩いた。
「だけど駄目なのね、やっぱり」
「何が駄目なの?」
「自分より幼い小学生が相手だと、どうしても“おもり役”としての遠慮と責任感が邪魔をするの。楽しいことは楽しいけれど、結局それは慰みでしかないのね。さすが積年の欲求不満。せめて同世代の人が相手じゃないと、なかなか満たされなくって大変なの。もっと自然にいじられたいのかもしれない。あくまでも女子高校生として、ね?」
いったい彼女は女子高生としてどういじられたいのか、想像しただけで恥ずかしくなった俺は具体的な返事に困り果てた。しかし彼女は相談役である俺の反応をいちいち期待しているから困りものだ。
仕方なく感心して頷くと、それを見た榎本は喜んで頷き返した。
「小学生に教えてもらったようなものね。もっと素直であるべきだって」
年頃の乙女でありながらも榎本は童心豊かな女子高生だったらしく、小学生と何度か遊んでいるうちに感化されたのか、この日から彼女の溌剌さには磨きがかかった。すなわち“人当たりのいいキャラ”から“陽気なキャラ”へと、クラス内での立場を若干ながら変化させたのだ。
それでも相変わらず男女双方から相応の人気を得ていたことを考慮すると、おそらく彼女は人から好かれるタイプとして天性のものがあったのかもしれない。これで真実は欲求不満のマゾ系女子だというのだから、彼女の心の空隙には相当根深いものがあるのだろう。
「根深いものを埋めるの手伝ってね、乙終君!」
「……そうだね、とりあえずは任せてくれと言っておくよ」
うまくいかないものだな――と、無意味に気取った俺はニヒルに笑ってみせた。