04 実践文芸サークル
五月上旬の大型連休がやってきた。一般的にゴールデンウィークと呼ばれる休日の密林地帯だ。
高校生活に対するプレッシャーとストレスゆえか、四月に迎えた休日は心と体のリフレッシュのために寝て過ごしてきた俺である。
そこに後悔はないが、さしたる思い出もない。
ただ休むためだけに白紙となった一日があって、それを二十四時間かけて灰色に塗りつぶすだけの青春無駄遣い感覚。それが心なしか寂しくはあったけれど。
しかし、この輝ける連休は特別だ。俺には予定が立てられていた。五月一日に結成された我が実践文芸サークル「オモイツカナイ」の初会合が行われるのである。
「とはいえ、どうして俺の家でやるんだ? 部活じゃないから部室がないのはわかるけど、やっぱり他の場所も検討してみるべきでは?」
「五人も集まるとなると、そこそこ広いって噂の乙終君の家が一番おさまりがいいからだよ。サークルの部長だしね。親御さんも基本的には留守なことが多いって、前に言ってたよね?」
「まぁね。でもさ、留守してる親の代わりに姉さんがいるけど大丈夫?」
リビングの四角いテーブルを囲んで、あまり柔らかくない安物のソファに座っていた俺たち。思い思いの姿勢でくつろぐ四人の顔を見比べたのち、身をよじった俺は隣のキッチンへとつながる扉を見やった。
動きに誘われたのか、赤松も俺の視線に続く。
「お前の姉さんは、お前より人間ができた素晴らしい女性だからな。いてくれても問題はない。というか、いないほうが問題とさえ言える。むしろ俺たちのほうこそ休日の邪魔をして姉さんに悪いんじゃないかと思っているぜ」
「いや、姉さんなら喜んでたよ。お客さんが来るのって嬉しいみたいでさ」
苦笑して俺が言ったちょうどのタイミングで、噂の姉さんがリビングに姿を現した。手には盆があり、五つ乗ったグラスにはジュースがなみなみと注がれている。
エプロンドレスのような服を着ているが、これは本人の趣味だからどうこう言うまい。
「みんな、いらっしゃい。サークルの活動? なんだっけ? うん、とにかく今日はくつろいでいってね。楽しく騒いでくれても大丈夫だから」
「お姉ちゃん、ありがとう。とりあえず私たちは私たちで勝手にやってるので、お気遣いなく」
この美馬の言い草もそうだが、同じく俺と小学生からの付き合いである赤松も含めて二人そろって俺の姉さんとは子供のころから仲がよく、血もつながっていないのに姉呼ばわりしている。当の姉さんは二人に姉と呼ばれることが嬉しいらしいので、この件に関しては部外者の俺から苦言を呈することもためらわれた。
榎本と姉さんは中学が同じだったものの、学年が一つ違うためか、彼女たちに直接の面識はなかったようだ。いつもは元気で最近は調子に乗りつつある榎本だが、少々緊張しているようにも見える。
だが、それも長続きしないだろう。きっと優等生ぶった仮面に過ぎない。
そして同じく姉さんと初めて顔を合わせた峰岸さんは緊張している様子もなく、いつもの頼れるクラス委員長然としている。普段と変わらず楚々として隙がない。いつだって美しいと言えば、少し表現が大げさか。
「あの、ところで乙終君、お姉さんのお名前は?」
やや身を寄せて小声で尋ねてきたのは、上品に耳打ちする峰岸さんだ。さすがに赤松達の真似をして、他人の姉を姉さん呼ばわりすることに抵抗があるのだろう。隣の榎本も気になるのか耳をそばだてている。
「早紀だよ。乙終早紀。なんだったら“姉さん”って呼んであげると喜ぶかもよ。いや、きっと喜ぶに違いないな。なにしろ峰岸さんっていう可愛い妹が増えるんだからね」
「……男性から可愛いなんて言われたの初めてです」
「その反応は本当に可愛いね」
かくいう峰岸さんはフリルのあしらわれたワンピース姿で、いかにも年頃の純情乙女といった清楚な印象だ。初々しく照れた仕草で頬を朱色に染められてしまったので、こちらまで気恥ずかしくなってしまう。いつもの学校での凛々しげなイメージとだいぶ違って見えるのは、ここが教室ではなく俺の家だからだろうか。肖像画でも背景は描かれた人物の印象を左右するしな。
ちなみに彼女の黒髪は肩より伸びたロングストレートで、前方にそびえる豊かな胸は目を引くほどの大きさを誇っている。他の部分は平均的なスタイルの峰岸さんだが、その整った顔つきも含めて、総合的には一般の水準を超えて見える。
しかし女性を外見で判断して他人と比べるのは失礼か。見たものを見たまま書きたがる自然主義文学の地の文らしく、視界に入った女性の容姿などを詳しく描写したがるのはよくない悪癖。年頃の少年らしく、ここは一言「素敵」とか「可愛い」で済ませておくと語弊が少なかろう。
イメージ先行で語るならば、同年代の三人の中では最も女子力が高そうだ。女子力と言ってしまうとジェンダー論的に批判を受けてしまいそうだけれど、ここはわかりやすさ優先で、スラング程度に受け取って許してほしい。彼女はクラス委員長をやっているくらいだから、たぶん頭もいいだろう。家事万能な姉さんといい勝負かもしれない。
「あの、早紀お姉さん!」
まさか今が授業中とでも勘違いしたのか、いきなり挙手とともに立ち上がったのは他でもない榎本だ。今日は二枚重ねの春らしい色をしたティーシャツと、ゆったりしたハーフパンツといった装いである。久しぶりに制服やジャージ以外のものを見た気がする。
彼女の胸は握りこぶしに手のひらを一枚重ねたくらいの盛り上がりで、実を言えば俺が一番好きな形と大きさなのだが、あくまでも服の上からの印象でしかないので、うかつなことは言えない。より正確な記述と未知への好奇心のため一度でいいから触ってみたいという思春期バカな欲求もあるにはあるが、実際に口にするほど愚かではないので、正直言って目のやり場には困る。
たとえマゾだからって、俺からのセクハラを許してくれるわけではない。相談役としてどこまで期待され誘われているのか現段階ではわからないし、結局のところ可不可は彼女の匙加減なので、こちらからは具体的に行動を起こしにくい。
あいにく俺はサディストでもないので、彼女とは普通に仲良くなりたくもあり、取り返しのつかないミスは避けたいところだ。
その榎本が胸の前で手を組んで、きらきらする眼差しで姉さんに迫っていた。
「早紀お姉さんには、サークルの顧問的な立場になっていただきたく……!」
「え、私が?」
予想だにしなかった提案らしく、驚きつつ困惑した姉さんは目を丸くした。
すぐには答えられず姉さんは困っているが、そういうことなら俺としても返事が気になるので、あえて口は出さない。確か姉さんは部活にも入っていないし、まだ二年生になったばかりだから、受験勉強も忙しいほどではないだろう。
「あ、それは私からも提案。お姉ちゃんはオッチーよりも頼りがいあるものね」
そう言ったのは美馬だ。ちなみに彼女が言う“オッチー”とは、乙終をもじった俺のあだ名である。幼なじみである彼女しか使わないので、なんだかセンスが微妙な気もするが。
さて、美馬の服装は独特といえば独特だ。上は薄手のシャツなので榎本と印象は変わらないのだが、下には何故か制服のスカートをはいている。本人いわく「制服のスカートは一番落ち着く風通し」だそうなので、風になりたい男子としては興味が尽きない。
それから彼女の胸についてだが、これはあまり言及しないほうがいい。小学生のころは仕方がないが、高校生になった彼女も依然として仕方がない。彼女と会わなかった中学の三年間で成長を願ったものの、時の流れは残酷である。
いよいよ本人がコンプレックスとしつつある平坦さなのだ。
ギリギリBだ、ギリギリB。見てくれはAっぽいが、本人がそう力説するのだから間違いない。ちなみにパッドや寄せて上げるブラなどは負けた気がするので使わないらしい。女性の胸に言及するのはセクハラだ! とか言われそうだし実際そうなのだが、美馬の場合は結構あけすけに自分からネタにしてくるところがあるので大目に見てほしい。頭皮が薄い男性が自分からそれをネタにする自虐ネタのようなものなので、彼女とは幼馴染という関係もあり、セクハラというよりセクコミュだ。セクシャルコミュニケーション。自分で言ってて、なんだそれ。
さて、俺よりも姉さんの方が頼りになると言われてしまえば、さすがに黙っているわけにもいくまい。
「まぁ、姉さんは中学生のころ俺と同じく文芸部員だったからね。高校には文芸部がないのだし、文芸サークルの顧問になってくれたら俺としても心強いよ」
「コノエちゃんがそう言うなら……」
みんなの前で下の名前をちゃん付けで呼ばれてしまったので、ほんのちょっぴり気恥ずかしい。面倒見がよく俺には甘いところもある姉さんが首肯した結果、かくして彼女は実践文芸サークルの顧問に就任することになった。
これでメンバーは五人にプラス一人で総勢六名だ。
一時はどうなることかと思っていたが、着実にサークルとしての体裁は整いつつあった。
リビングに六人が寄り集まって、雑談と呼ぶべき中身のない議論はそこそこに盛り上がりを見せていた。
「すなわち、実際あの村に鬼の侵略の魔の手が及んでいたのかどうかが問題だな」
文芸サークルの最終的な目標といえば、おそらく一冊でもいいから同人誌を作り上げることだろうが、まともに創作経験のない素人集団である俺たちには少し荷が重い。一口に文芸サークルといっても、サークルの形は千差万別。なにもオリジナル小説を載せた冊子を作ることだけが存在意義ではないのだから、文学的テーマについて、メンバー同士で雑談の花を咲かせるのも立派な活動の一つであろう。
文芸サークルならば文芸らしく小説の、小説ならば具体的な物語の、物語ならば単純明快な昔話を最初の話題にしよう……と、ここで昔話の王道的作品として、かの有名な桃太郎に話が及んだのである。
「おじいさんとおばあさんが鬼の横暴を教えてあげたんじゃないの? だから桃太郎は義憤に駆られて旅立ったわけでしょ。走っちゃったメロスみたいに激怒したんじゃない?」
「しかしそれが村側の人間による宣伝の結果だったとしたら? 戦争の相手国のことは悪く言われてしまうからね。実際には鬼のほうが人間社会から追い出された流浪の民なのかもしれない」
「……そりゃまぁ、勝てば官軍という言葉もあるにはあるけど」
美馬が納得しかねるといった表情で腕を組む。貧乳なので腕を組みやすかろうと思ったが、思っただけなのに厳しくにらまれて俺はおののいた。他人の心を読むとは執念か?
これ見よがしに自分の腕で胸を持ち上げるようにする美馬はなるほど執念だ。
冷や汗をたらした俺は顔をそむけて、今しがた思いついた説を披露する。
「桃太郎に対してあっさり負けを認めた鬼たちの結末から察すると、どうも最初から鬼が島の陣営には徹底抗戦の意思がなかったように見える。考えてみてほしい、人間一人と三匹の動物にあっさりと敗れてしまう悪の本拠地があるだろうか?」
「奇襲作戦が成功したのではないでしょうか? たとえば鬼たちの宴会中を狙ったとか……」
今度は峰岸さんが膝の上に置いた手を握りこぶしに変えて言った。いささか緊張しているようなので、それを解きほぐすためにも俺は気安さを意識して答える。
「だけど、村人によれば残酷で無慈悲な鬼の集団が、たった一回の戦術的な敗退で素直に負けを認めてしまうかな? やろうと思えば態勢を整えなおすまで桃太郎を鬼が島に閉じ込めておくこともできただろうに、完全に屈服して、金銀財宝を譲っているんだ」
「……きっと誰かに怒ってほしかったんだよ。うん、私にはわかる。桃太郎にこらしめられて、それで鬼たちはようやく救われたのね。誰かに構ってほしくて悪さをしていただけなのよ、ずっと……」
もちろんこれは榎本の意見だ。憧れ半分で鬼に感情移入しつつあるので、どうかと思う。
鬼たちに反撃の意思はなかった、なぜなら桃太郎の攻撃を誘っていただけだから――という榎本の主張を全員が奇異の視線で見守っていたが、俺は話を先に進めることにした。
「奪い取った宝を持ち帰って村人から称賛されたわけだけど、それは本当に正義の善行だったのかな? やっていることは侵略と略奪で、鬼に対して鬼になっただけじゃないだろうか」
これに「語り手次第ね」と一言で切り捨ててしまったのは冷めた美馬で、「詳細な記録を見てみませんと」とは生真面目な反応を見せる峰岸さん。
まぁそうだろうな、と思いつつ俺は結論に移る。
「桃太郎は英雄願望が強い少年であり、また、世間の流言に乗せられやすい若者だったと仮定することもできる。正義感を持て余して打ち倒すべき悪役を探していたところ、鬼が島に悪い鬼がいると村人から聞いて、そんなら鬼を倒そうと短絡的に決意した。そうすれば自分はヒーローになれる……ってね」
「つまり?」
「桃太郎は感謝されたがりの向こう見ずな若者だったってことさ」
自分でも詭弁にしか聞こえない暴論にも似た結論だが、それでもとりあえず建前として気取った調子で言い終える。美馬と峰岸さんの反応はうーんといった微妙なもので、榎本は話そっちのけでジュースを飲んでいた。
せっかくの議論だからと部長らしく頑張って発言したのに報われない。
「……だとすれば、ひょっとすると俺は桃太郎なのかもしれないな」
と、ここで自嘲気味につぶやきを放ったのは赤松だ。雑談が始まったころから妙に静かになって一人考え込んでいる様子だったが、授業中によくやるように居眠りしていたわけではないらしい。
「感謝されたがりの向こう見ずだってこと? あんたが?」
つっけんどんな口ぶりだが、何かを悩んでいるらしい彼のことを心配したらしい美馬が赤松に問いかけた。俺も一応は彼の親友を自認しているので、ひとかどの心配を赤松の曇りきった心情に向けておく。
「ぜひよろしかったら、お話を聞かせてください。私たちが力になりますよ」
ここで発揮されたものこそ、悠然たる美貌のクラス委員長にして、困ったらこの人と信頼される峰岸さんのリーダーシップだ。
わずか一言で、場の空気が一瞬にして出来上がる。
そう促されては、注目を集めた赤松は口を開くしかなかった。
「俺には小学生の妹がいるんだが……」
「あ、それって氷見ちゃんだよね?」
「そうだ。その氷見が、実は最近、俺に遠まわしな相談を持ちかけてきたんだよ」
という前置きから始まった赤松の説明によれば、ずばりこうだ。
彼の妹である氷見ちゃんは進級してクラスが変わってから、今まで仲の良かった友達と別れてしまい、新しいクラスの雰囲気にうまく馴染めないと悩んでいるらしい。それを先日微妙なニュアンスをもって報告された赤松は、以来、妹思いの兄として気をもんでいるのだった。
いつも陽気な赤松のことならいざ知らず、友達との付き合い方に悩む女子小学生のためならと、雁首そろえた俺たちは雑談の話題に困っていたこともあって、早速彼女のためにできることはないかと考えることになった。
教育上の理由で都合よく改訂を重ねていく桃太郎など、もうどうでもよい。
「人間関係の問題は複雑です。事情も分からず闇雲に外側から突っつけば、かえって深刻な状況に追い込んでしまう場合もあるので、ここは彼女本人に勇気を出してもらうほかありません。ですから、私たちの力で彼女を励ますことができないかどうかを考えるべきでしょう」
たった一ヶ月だが、その一ヶ月で鍛えられたクラス委員長としての本領を発揮して、雑談にも似た雰囲気の対策会議を進行する峰岸さん。
チョークの代わりなのか、テーブルに置いてあったテレビのリモコンを右手に持っているのは、まぁ、間抜けにも見えるが可愛いから許そう。景気づけの指揮棒みたいなものだ。
「しかし氷見は素直じゃないからな……。小学生らしい可愛げってものがないから、あいつのために俺たちが普通のことをしたって意味がないかもしれない。ちょっと最近すれててさ、あんま相手してくれないんだよ」
「それは兄であるお前に対してだけなのでは」
そう言いながら、ついでだからと俺は小学生当時の、たしか四歳ほど年下だった氷見ちゃんの思い出を引っ張り出すことにした。赤松の妹だった彼女とは当然のように何度となく一緒に遊ぶことがあって、そのときはいかにもキュートな女の子といった印象で、例えるなら天使のような可愛さがあった。
最後に会ったのは引っ越す前だったと思うが、たぶん今は小学六年生くらいか。どんな子に成長しているのやら。兄に似ていないといいがと切に願う。
「小学校を卒業してからは、私とも会わなくなったのだっけ。氷見ちゃん」
「お前が一言ぴしゃりと言ってくれれば、あいつも恐縮して言うことを聞くと思うが」
「恐縮させてどうするのよ、恐縮を。そして私は怖がられていたの?」
「氷見の奴、乙終にはなついていたが、美馬にはな……。お前、ちょっときついから。年下が相手でも容赦しないしな」
きついと指摘された途端、まさしくきつい目つきで威嚇した美馬の迫力に赤松はビビッて身を縮こまらせた。この二人、仲がいいのか悪いのか昔からよくわからない関係である。
「普通のことをしても意味がない可能性がある……というのは、まさしくそうかもしれませんね。人から指図されてクラスメイトと仲良くしようというのも、おかしな話ですから」
「高校生の私たちが小学生の女の子に口出しするのも、ひょっとしたら余計なお世話になりかねないわよね……。マリカの言うとおり、ことは慎重を要するわ」
きつい表情をしていた美馬だが、今度は菩薩顔みたいな慈悲深さで頷き、一人で考え込んだように目を閉じる。ちなみに峰岸さんをマリカと下の名前で呼ぶのは、現状では美馬だけだ。
俺と赤松も名案といったものが思い浮かばず、リビングは重い沈黙に包まれた。
……のだが、どんな沈黙もいつかは破られる。大抵は予想外の言動で。
「うー、おトイレ! これは緊急だよ! 我慢できそうにないから失礼するね!」
顔を真っ赤にした榎本だ。トイレなら止めはしないし、行くなら黙って行ってくればいいのに。そう騒がれては意識してしまうじゃないか。
いらぬ想像をせぬようにと顔をそむけた俺だが、立ち上がった榎本に腕をつかまれた。
「場所わからないし、乙終君に案内してもらうね! おトイレ行こう、乙終君!」
「……は? え、俺が? 俺が一緒に行くの?」
凄まじい力で腕を引っ張られてしまっては、相手が女子であることもあって乱暴に振り払うこともできず、結局俺は榎本に連れられて問答無用でトイレに席を立つこととなった。
どうして俺が――と混乱半分で疑問に思ったけれど、たぶんトイレまで直行で急がなければ我慢できないからだろう。おそらく、なりふり構っていられぬほどの緊急事態なのだ。榎本を責めるのはやめておこう。
リビングから廊下に出て我が家のトイレまで案内すると、その扉にぺたりと背中を預けた榎本は、勝ち誇った顔つきで俺の目を見た。トイレの中に入るつもりはないらしい。
「ふふ、私が他人の家でお花を散らすと思う? 半日程度、我慢できるわ」
「いや我慢しなくても。ここは無理せずに入ったほうがいいよ。俺は先に戻ってるから、その分、ほら、ゆっくりしてくれていいし……」
「いや、ゆっくりって言われても。……気を遣われた感じで言われても、それって逆にゆっくりしにくくない?」
「……確かに」
お互いに深く考えることなく言い終えて、そろって急な羞恥心に襲われた。
俺たちはトイレの前で何を言い合っているのだ。
「そんなことより乙終君、私は今すごく乗り気なの。すでに乗っているといってもいいわ。ううん、もうやたらに乗りまくっているのね。前のめりライダーよ」
「そんなことよりトイレは?」
「乙終君を連れ出すための口実だよ! トイレなら来る前に済ませてきたもの!」
張り切った榎本に肩をつかまれてガクガク揺さぶられた。俺は三秒で降参だ。
「すまん、話を進めてくれ。もう邪魔しない」
「うん。赤松君の妹さんのこと、私はとても力になってあげたいのね。だって、誰かが誰かに相談を持ちかけるときって、たとえ婉曲的でも本当に困っている場合が多いもの。多いというか、もうほとんど全部そう。相談者は誰だって、ナイーブな心の底から真剣に悩み苦しんでいるのね、きっと。だから私は、私にできることを悩める彼女のためにしてあげたい。小さな女の子って好きだし」
「確かに榎本さんって女の子とか好きそうだよね。いや、子供全般が好きそう」
「うん、だからなおさらなの。そこで乙終君の出番。ね? あなたは私の相談役だから頼りにするの」
「頼りにされるとは相談役の相談役たるゆえんだね。ことあるごとに頼られても困るけど」
「まーまー、そう言わず。乙終君に相談したいの。私の本質を知ってしまったあなたに」
と、その本質、つまり欲求不満のことをアピールしながら榎本は俺の手を力強く握った。
「悩める氷見ちゃんのために私を使って。……私が喜ぶ方法で!」