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13 夕食後のひととき

 時間を知らせる壁掛け時計の針は一分一秒を噛み締めるようにゆっくりと進み、やや緊張を匂わせつつも三人で過ごした夕食の時間が終わって、午後七時を過ぎること三十分。

 場所は階段を上って二階の奥、薄暗い廊下に向かって開かれた部屋のドア。

 まずは一歩だけ遠慮がちに足を踏み入れた榎本が「へえ~」っと興味津々な声を漏らす。


「初めて入るけど、ここが乙終君の部屋?」


「そうだよ、ここが俺の部屋。いつ来客があってもいいように、普段から片づけているんだ。そんなに広くはないけれど、とりあえず適当に座っていいからね」


「あ、うん。お邪魔します」


 そう言ってドアを閉めた榎本は少しだけ部屋の中央に向かって歩いた後、近くにあったクッションへと遠慮がちに腰を下ろした。事前に俺が用意していた来客用のふかふかクッションだ。

 家具量販店の商品棚を前にあれでもないこれでもないと念入りに選んだ一品なので、安めに抑えた値段との兼ね合いもあるが、座り心地は悪くないはず。

 俺の部屋に上がり込んでくる来客がほとんどいなかったので新品にも等しい状態を維持しているクッションに座って、少しの間ふわふわと意味もなく揺れて遊んだ後、榎本はきょろきょろと周囲を眺め始めた。


「なんだか不思議な気持ち」


「不思議?」


 それは一体どういう感情だろう。中学生のころから仲がいい女子を自分の部屋に招待しておいて、こともあろうに居心地が悪いとか言われたらショックだ。

 彼女の言っている「不思議な気持ち」というのがよくわからないけれど、とにかくリラックスしてもらえるといいのだが……。

 しかし、この状況でリラックスするのは個人的にすごく難しい。

 榎本と二人きりで緊張しているのは俺も同じなのだ。


「うん、不思議。すごくドキドキする。興奮しているってわけじゃないけど、こんな調子で今夜は眠れるのかな、私……?」


「あー、うん」


 ドキドキすると言って頬を赤らめた彼女のせいで俺の方もどぎまぎした。

 そう、彼女は今夜のことを心配している。なぜなら今夜は特別だからだ。夕食の後、家に帰っても一人だという彼女を心配して気を利かせた姉さんが電話で榎本の母親と話をして、今日はこのまま彼女が泊っていくことになったのである。

 でかした姉さん。さすがだ。

 もちろん女子である榎本が寝るのは男子である俺の部屋ではなく、壁一枚を隔てて隣にある姉さんの部屋だ。パジャマも多分姉さんに借りるだろう。きっと可愛いに決まっているのに、まじまじと見られないのが残念だ。

 だが、就寝時間までは俺と話をしたいというので、ならば二人きりで気兼ねなく会話できるようにと、こうして俺の部屋に来てもらったのである。

 もう窓の外は暗い。すっかり夜だ。

 他意はないがカーテンを閉めておこう。

 いつの間にやら日が暮れて街は静かになり、制服よりラフな私服姿の榎本と部屋で二人きり。正直とても緊張している。

 別に何をするというわけでもないのだが……。

 きょろきょろと物珍しそうに部屋を見回していた榎本が人差し指をこめかみに当てながら、遠慮がちに俺の方へ顔を向けた。


「質問があるんだけど、この部屋って中の人の声が外に聞こえる?」


「声? さすがに大きな声を出すと外にも聞こえると思うけど、普通にしゃべる分には大丈夫だと思うよ」


「ふうん……。じゃあ気をつけなきゃね」


 どうやら彼女は大きな声を出さないように気を付けるらしいが、一体これから何をしようというのだ。

 普通の声で普通に話をするだけなら、それほど気にしなくても平気なはずだが。

 よっぽど言いにくい話なのだろうか。万が一にも人に聞かれて困るような話であれば、そんな話を聞かされても俺が困る。

 一応、ちょっとだけ身構えておこう。

 何を言われても大丈夫なように覚悟を決めておく。


「それで、俺に話って?」


 ごくりとつばを飲んでから尋ねると、ごくりと同じように榎本が喉を鳴らした。

 そのまま口を開きかけた彼女だったが、中途半端なところで視線をそらせて頬をぽりぽりかいた。照れ隠しのつもりかもしれない。


「さっきも言っちゃったんだけど、また口にするのは恥ずかしいなぁ……」


 さっきも言っちゃった……というと、夕食の前に言っていたことだろうか。

 古沢さんに冷たくしすぎたんじゃないかという後悔と、最近あんまり構ってもらえていないという不満。

 どちらかの話か、あるいはどちらもか。


「古沢さんのことについてなんだけど、今度、週明けの月曜日にでも私の方から歩み寄ってみようかなって思ってるのね。それで友達になれたら嬉しいから。けど、もし友達になれなかったら……どうしよう。どうしたらいいかな?」


「どうしたらって、それがわからないなら無理はしなくてもいいんじゃないかな。クラスの全員と仲良くならなくちゃいけないってわけでもないし、友達になれないからって相手のことを無視するわけでも喧嘩をするわけでもないからね」


「うん……」


「それに榎本さんなら大丈夫じゃないかな。きっと古沢さんとも仲良くできるよ」


 根拠はないけどそう思う。

 こればかりは相手の気持ちもあるので難しい問題だが。

 とにかく俺の励ましで元気を出してくれたのか、この件についてはひとまず終わりらしい。

 つまり残った話はもう一つの件だ。


「……いじってほしいの」


 これはこれは、ものすごくストレートな欲求が来た。

 カーテンを閉めた狭い部屋に榎本と二人きりで向き合っている状況なので、すごくエッチな言葉に聞こえるけれど、間違っても彼女はエッチな話をしたいわけではないだろう。いや少なからずエッチな要素は含まれているだろうけれど、必ずしもエッチなことばかりを要求されているわけではなく、正直これはどうしたらいいのか全然わからない。

 そう、どうしたらいいのだ。

 どうしたら彼女は喜んでくれるのだろう。

 彼女の欲求不満を解決するための相談役になっている俺だが、今までのことを思い出してみても、榎本が求めているであろう単純明快な解決方法を提示できてきたわけではない。自己評価する限りでは、正直あまり役に立てていない。

 好意を寄せている相手、つまり榎本の方から「いじってほしい」と言われて嬉しくないわけがないけれど、いじるとは何だろう。

 精一杯に自分で考えてみる。何が正解であるかどうかはともかく、色々なことが頭に浮かびはする。それこそ、あんなことやこんなことがたくさん。

 しかし、とんでもない恥ずかしさと照れ臭さがあって、自分から何かを提案することができない。

 手を握るとか、キスをするとか、抱きしめてみるとか、もしも仮に俺たちが恋人同士であったなら、いくらでも何度でもできる。

 けれど今の俺たちは恋人関係にはなく、あくまでも友達の間柄だとすれば過剰なスキンシップや性的ないじりというのも難しい気がしてならない。いじってほしいからといって、あまりに嗜虐的なものも違う気がする。

 果たして、彼女が求める「いじり」とは何なのだろうか。

 そして俺は実際のところ、彼女に何をしてあげたいのだろう。

 好意を持っている相手だからこそ適当なことは言えない。適当なことを言っても榎本なら見捨てずに俺の相手をしてくれるという信頼感があるのも事実だが、それに甘えてばかりいても情けない。

 何かを考えなければ。可能な限りの誠意と愛情をこめて。


「だったら、ひとまず榎本さんにはこれをしてもらおうかな……」


「これって、スマホ?」


「そうだよ。榎本さんも何度か見たことがあると思うけど、高校に入学した記念に買ってもらった俺の新しいスマホだ。でね、そのスマホにインストールして遊んでいるゲームがあるんだけど、それの周回クエストをやってもらおうかなって」


「あ、うん、そういうゲームなら私もいくつかやったことあるからわかるよ。どうしてゲームをやらせたがっているのかよくわからないけど、とりあえずやってみるね?」


「うん、お願い」


 というわけで、やってもらうことになった。

 クッションをお尻に敷いて体育座りした榎本が俺から受け取ったスマホを両手で持ち、本当にやったことがあるのか特に操作方法などの説明を求めることもなく、黙々とスマホのゲームをプレイし始めた。

 プレイするといっても、エンジョイするには程遠い。彼女にやってもらっているのは触っているだけで楽しいタイプのゲームではなく、素材集めやキャラクターのレベル上げなどを目的とした周回クエストだ。

 知らない人に詳しく説明することは省くが、要するに単純作業である。


「あの、これ……」


「ん、どうしたの?」


「どうしたっていうか、どうもしないっていうか、あんまり面白くないね……」


「そりゃあ、まあ、どんなに頑張っても自分が得するわけじゃない他人のアカウントで報酬もなく面倒くさい作業をやらされているわけだからね」


 普通の人は面白く感じないはずだ。むしろ負担に感じる。一種の罰ゲームだ。

 普通の人と違ってマゾ気質な榎本ならもしやと思ったものの、そうではなかったらしい。推測が外れた。

 ふむふむともっともらしく言いながら、大変貴重で有意義なデータが得られたとばかりに俺は腕を組んで神妙に何度も頷く。


「なるほど、そうか。榎本さんは誰かに何かを無理やりやらされるのが好きってわけじゃないんだね。ただ単純に楽しくない作業を押し付けても嬉しくはない、と」


「えっと……」


 怪訝そうな表情をする榎本がこちらをうかがうような声を出し、スリープ状態にしたスマホをテーブルの上に置いて俺を見た。


「もしかしてだけど、乙終君……。まさか、今、私が何を気持ちいいと感じるのか試してるの?」


「そうだけど……。さすがに駄目だった?」


 そうだ。俺は試している。榎本に任命された相談役としての責務を果たすため、欲求不満な彼女が求める「いじり」とは何なのかを確認しようとしているのだ。

 もしかして怒らせただろうか。考えようによっては彼女で遊んでいるようにも見えてしまう。やるにしても、ちゃんと最初に言っておけばよかったかもしれない。

 いつになく冷たい声色で表情も笑っていないので、目の前にいる榎本の感情が今の俺には全く読めない。考え事をしているだけなのかもしれないが、最悪の場合、ぷんすか怒って部屋を出ていってしまう可能性さえある。

 まさか嫌われてしまったんじゃないかと不安におびえていると、ふうっとため息をついて足を崩した榎本が首を横に振る。


「ううん、駄目ってことはない。むしろ、ちょうどよかったのね」


「ちょうどよかった?」


 ひとまずは安堵したものの反応に困る。これは予想できなかった返事だ。好意的な言葉だったので助かったけれど、ちょうどいいって、何がちょうどいいのか。

 なんにせよ榎本は怒るどころか喜んでくれているようだ。

 よくわからないので、ここは彼女の話をおとなしく聞くことにする。


「そうなのね、ちょうどよかったの。だって、ほら、今日は乙終君と二人でいられるせっかくの機会だから、実は私も色々と試してみたかったのね? 一人でできることには限度があるから」


「限度があるって、そりゃあ一人でできることには限度があるだろうけど……」


 その言い方だと、まさかとは思うが一人でできることは一通り試した感じだな。

 ふむふむ、そうか……。

 いやらしい妄想をしてしまったが、いやらしくないことかもしれない。なんでもすぐにエッチなことを考えてしまうのは俺の悪い癖であり、あまりに失礼な想像だ。

 冷静に思い出す。あくまでも彼女は自分の欲求不満に対して真摯であり、いじられたいと願う気持ちについては本気であるとともに、真面目で深刻な悩みなのだ。俺みたいに意識の低いスケベな男子と一緒にしてはならない。


「だから手伝ってほしいの」


「いいよ。俺にできることなら喜んで手伝おうじゃないか。なんでも言ってくれ」


「ありがとう。じゃあ……」


 真剣な目をした榎本は脇に置いていたカバンから何やらスルスルとヒモのようなものを取り出した。


「ちょっと興味があるんだけど、これで縛ってもらっていい?」


「えっ」


 いやらしいことだった!


「……いや、その、あんまり俺は詳しくないけどさ! そういうのって世間ではSMプレイっていうのでは! いじられる、とかいう範疇を超えちゃってると思うんだけど!」


 そう言ったら榎本が慌てて立ち上がった。


「いやいや、だから私はそんじょそこらのマゾじゃないのね! 縛られて喜ぶような変態さんとは違うってことを証明したいのね! 乙終君!」


 声でかいです。外にまで聞こえるぞ。


「つまり証明したいから縛ってほしいってこと?」


「なのね! そうなのね! そういうことなのね!」


「……なるほど!」


 ならば大丈夫だ。いやらしいSMプレイなどではない。もはや自分でもよくわからない理屈だが、これは単なる確認作業なのでセーフだ。

 常識的に考えて、自分のことを縛ってほしいなどと普通の人は言えない。きっと一世一代の勇気を出したに違いない彼女からの頼みなので、内容は別としても、ここは素直に協力してあげよう。

 ということで榎本を縛る。

 彼女の両手を彼女の背中側で、つまり後ろ手に縛ることにする。


「もうちょっと強くてもいいんじゃないかな」


「もうちょっと強くてもいいの?」


「うーん、もうちょっとっていうのかな……。少なくとも簡単にはほどけないようにしてもらわないと。あっ、縛られた! これじゃ身動きが取れない! っていうのが肝心だと思うのね?」


「なるほど、身動きが取れない感覚か。それは確かにそうかもしれない。……じゃあ、ちょっと痛いかもしれないけど、強めに縛るから我慢してね」


「うん、お願い。……あっ、んっ」


 強めに力を入れてギュッと結んだら、身をよじった榎本が変な声を出した。

 エッチだ……。

 これではまるで、いやらしいSMプレイではないか……。


「ど、どんな感じですか……?」


 つい敬語が出てしまった。

 あくまでもこれは榎本の依頼に基づいた事務的な確認作業であり、決して楽しいSMプレイをしているのではないと自分に言い聞かせるためかもしれない。こうして意識的に敬語を使うことによって心理的距離を置いたのだ。

 実は緊張しているだけであるが。


「どんな感じかと言われれば、手だけじゃ足りない感じがするのね……」


 足も縛れということか。

 ふむ。

 縛った。


「これでどうでしょうか」


「うーんと、まだもうちょっと、その……」


 まだ何かあるのか。

 ふむ。

 よかろう、お望みならば何でもやろう。なんでも言ってくれ。


「あのね、そこにあるカバンの中に布が入ってるからね、それを取り出して私の目を隠してほしいの」


「え、目を?」


「私の視界を奪ってほしいのね……」


 手足の自由だけでなく、視界まで奪われたいらしい。

 やるなら徹底的にということか。これはなんとも研究熱心だ。俺も小説を書く際には彼女くらい熱心に資料集めをせねばならないと感心する。

 いや待て果たして本当に感心してよいものなのか。あまり深く考えず、ひとまず彼女のカバンを開けて中を漁る。よくわからない小道具などに交じって、ピンク色のスカーフみたいな一枚の布が入っていた。これで目を隠せばいいのだろう。

 じゃあそうしようと思って彼女を見たが、榎本と目が合ってどきりとした。

 すでに彼女の両手は縛られ、歩けないように足も縛られている。これでこの布を使って両目まで隠してしまえば、いくらなんでも犯罪的な気がしてならない。はたから見たら完全に俺が悪者だ。彼女をいじめるド変態である。

 さすがにこのまま顔まで布で隠すのは抵抗感がある……。

 少し気まずくなって榎本にそう伝えたら、彼女は意外にも納得した。


「確かに私が乙終君の立場だったら、布を片手に立ち尽くしていたかもしれない」


「まさに今の俺がそんな状態だ」


「でもここで終わられたら中途半端なのね。ためらう気持ちもわかるけど、ためらわないでほしいというか……。今日は乙終君と二人でいろいろと試せるまたとない機会なのに、こんなんじゃ欲求不満で終わっちゃう」


「欲求不満か、それは大変だ」


 何をしでかすか予測できず行動の読めないときがある榎本のことだ。欲求不満がたまると無茶をしかねない。

 ならばここは我慢して彼女の望みをかなえてあげるしかないか……と思っていたら、何を納得したのか彼女がうんうんと頷いた。


「そうそう、大変なのね。だから代わりといっては何だけど、手で目を覆うってのはどうかな。布を使うよりは大丈夫そうじゃない?」


「手で? でもそれは……」


「お願い」


「けど……」


「お願いだから」


「……わかった」


 手足を縛られた状態でこちらを見て、うるうると期待に染まった目で頼まれたら断れない。ここまで来て何もしないというのも、じらされているようで我慢ならないのかもしれない。

 衝動に流されるまま一線を越えてしまわないよう、もう一度自分に言い聞かせることにする。これはあくまでも確認作業だ。何を確認しているのか自分でもよくわからなくなってきたけれど、これは今後の彼女にとっても大事な作業に違いない。


「じゃあ、手で目を隠すよ」


 というわけで立ったままでいる榎本のうしろへと回り込み、右手を使って彼女の両目を覆った。腕がそんなに長いわけでもないので、そうすると背後から抱き着くような格好になった。左手はどこを触るでもなく、ぶらぶらとさせている。彼女の両手は後ろ手に縛っているので、すぐ背後にいる俺のお腹あたりに当たっていた。

 なんだか後ろから抱きしめているみたいだ。

 しかも榎本が無抵抗に受け入れてくれている。

 ドキドキする。

 胸の鼓動が早くなって、心臓の音が聞こえる気がする。

 体温がかつてないほどに上昇してくる。

 榎本が気持ちいいと感じる行為を確認するつもりだったはずが、このままでは俺のほうが先にギブアップしてしまいかねない。頭がうまく働かず、具体的に言葉にすることはできないけれど、このままでは”何か”を我慢できなくなっていく。


「ねえ、何かいたずらしてみて?」


 そんな俺の限界に近い気持ちを知ってか知らずか、なるべく平静を装った声を出す榎本はねだるようにそう言った。

 ……何か、そう、何かだ。

 今の彼女に何をしてあげられるか、本来はそれを考えるべきだ。

 けれど、どうだろう。

 あまりに潔く彼女が俺を受け入れてくれるので、理性を動員して欲求を我慢することが難しくなり、常識の枷を一段階ほど緩めるような判断が俺の頭を支配した。越えてはいけない一線を越えないぎりぎりまで踏み込み、彼女の願いよりも、俺は自分が何をしたいかを優先することにした。

 自由になっている俺の左手。それを前に伸ばし、まずは榎本が着ているシャツの裾に手をかけた。視界を閉ざされ何も見えない状態で服をつかまれ、驚いた彼女がびくりと反応したのを見て、少しずつ、ほんのちょっとずつめくりあげていく。

 へそが完全に見えるくらいまで、それから、正面から見ればブラジャーの下側が見えるくらいまでシャツの裾を持ち上げる。呼吸が激しくなって揺れを大きくした彼女の胸が、すぐそばまで持ち上げていた俺の左手にそっとぶつかった。


「あ……っ」


「え、ごめん」


 触れた瞬間に榎本が思いのほか大きな声を出したので、もしや嫌がっているのではないかと思った俺は慌てて手を離した。

 すると榎本は不満そうに顔をこちらへ向け、拗ねた子供のように口をすぼめた。


「ちょっと、ばか、やめないでほしいの……ね?」


 生唾を飲んだ。

 いいの? とは聞かない。

 榎本の目をふさいでいた右手に力を込め、少しだけ彼女を抱き寄せる。

 同じことをしても意外性はない。今度はシャツの裾をつかまずに、下側から潜り込むように左手をシャツの中へと侵入させる。左手の指先だけをお腹にトントンと当てて、べたべたと手のへらで肌を触りはしない。

 最初は軽くタッチするように、彼女のへそ、その凹んだ部分に中指をあてがう。


「ん……!」


 彼女が震えた。つま先立ちになって、すぐに踵を下ろす。

 声を我慢しているのが伝わってくる。本気で抵抗しようと思えばできるのに、それをやらずに「もっと、もっと」と無言で俺を誘ってきている。

 だから俺は彼女をいじめるように、けどそれ以上に喜んでもらえるように、今度はへそから脇腹へと左手を動かして、くすぐるように指先でツンツンと何度かつついた。


「ん、あ、あ……っ!」


 敏感なところを刺激されて我慢できないのか、榎本が大きく身をよじった。

 危うくバランスを崩しそうになる。手足が使えない状態で倒れると危険なので、咄嗟に左手でがっしりと彼女を抱きしめた。


「あ、ありがとう……」


「どういたしまして……」


 恥ずかしくなって顔をそらすと、ちょうど物陰から飛び出してきた黒いものが目に付いた。

 黙っていることもできず、つい反射的に言葉が出る。


「あ、ゴキブリだ」


「え、ゴキブリ!?」


「うん。ほらそこ」


 彼女の目を覆っていた右手を離して、ゴキブリがいるほうを指さす。

 カサカサと元気よく動いているので、こちらに向かって走ってきそうだ。

 それを目にした榎本は露骨に焦りを見せる。


「ゴキブリはさすがにちょっとダメだと思う! これはいじられるとかそういうのじゃないと思うのね! 助けて乙終君!」


「攻め方にはいろいろあると思うけど、榎本さんって虫は駄目なのか」


「乙終君! ね、乙終君!」


「わかった!」


 手足を縛られた状態では逃げることもできず、本当にゴキブリが苦手なのか本気で怖がっているので、これは直ちに対処しなければならない。囚われのお姫様を助ける英雄だ。そもそも縛ったのは俺なので、助けたところでマッチポンプだが。

 名残惜しく思いつつも彼女から離れて、丸めた雑誌を武器にしてゴキブリに立ち向かう。

 ところが素早い動きを見せるゴキブリは俺の脇を通り抜けて榎本に直行した。声もろくに出せずに叫んだ彼女は尻餅をついて、その音に驚いたゴキブリは逃げるように向きを変えて壁に走った。

 そこにはちょうど窓があり、今がチャンスだと小走りで駆け寄った俺はカーテンと窓を開いてゴキブリを外に出した。


「ふう、なんとかなったね」


 一仕事終わったとばかりに満足げに窓とカーテンを閉めて振り返る。

 腰を抜かして座り込んだ榎本はまだ両手両足を縛られている。先ほどまでの影響かシャツもめくれあがっていて、暴れたせいかハーフパンツもずれたように下がっており、隠されているべき下着が少しだけ見えていた。

 こちらを熱っぽく見る榎本は息が上気していて、全身が汗ばんでいる。

 無言のまま見つめ合う俺たち。

 先ほどの続きをするかどうか、お互いに何も言い出せずにいる。


「ねえ、騒がしかったけど何かあったの? 大丈夫?」


 外側から急に響いてきた声、それは俺たちを心配する姉さんの声だった。

 まだノックをされただけで、部屋の扉は開かれていない。これは幸運である。

 なにしろ今は両手両足を縛られた榎本がすぐそこにいるので、もしも中に入ってきた姉さんに見られたら大問題なのだ。家族会議が始まってしまう。


「だ、大丈夫だよ! ゴキブリが出てきて驚いただけ!」


「ゴキブリ! それは大変!」


 そう言いながらも扉を開けて中に入ってくる気配はない。榎本がそうであったように、姉さんもゴキブリが大の苦手なのだ。本当は俺も苦手だが、怖がる榎本の前で格好いいところを見せたかったために我慢していただけである。


「うるさくしてごめん。だけど俺たちを騒がしたゴキブリはもう外に逃がしたから大丈夫だよ」


「そうなんだ……。あ、だったらちょうどいいかな? お風呂の準備ができたから、どちらか先に入っちゃってね」


「うん、わかった。わざわざありがとう」


 それを伝えたら納得したのか姉さんの足音が遠ざかっていく。ひとまずの窮地を脱することができたらしい。ほっと一息ついて榎本へ顔を向ける。立ち上がれずにまだ座っているが、縛られたまま彼女も胸をなでおろしたようだ。

 ふーっとため息を漏らしている。


「危なかったのね……」


「こんなところを見られたら俺たちの正気を疑われてしまうからね。身内である俺はともかく、榎本さんの場合はこれから姉さんに会うたびに気まずくなっちゃうだろうし」


「うん。気まずいというか恥ずかしいというか……。もし今の姿をお姉さんに見られていたら、もう二度とこの家には足を踏み入れられなかったと思う」


 それは本当に困る。榎本には今後も何度でも家に来てほしいから。

 そして可能なら姉さんとも仲良くなってほしいものだ。


「お風呂に入りたいかな……。これ、ほどいてくれる?」


「うん、任せてくれ。すぐほどくよ」


 彼女のもとに駆け寄り、まずは後ろ手に縛っていた手から解放する。そうすれば足を縛っている紐を自分の手でほどけるだろう。

 前かがみになって自分の足を縛る紐と悪戦苦闘しながら、榎本がこちらを見ずに口を開いた。


「ごめんね。こんなことに付き合わせちゃって。本当はね、何か話があるとか用事があるとかじゃなくて、ただ乙終君と話がしたかっただけなの」


「謝ることはないよ。こうして一人で戻って来てくれて俺も嬉しかったから。最近あまり二人でゆっくりと話す機会がなかったからね」


「うん……」


 紐をほどき終わって、ようやく立ち上がる榎本。

 自分のシャツをつまんで眉を顰める。


「あ、すごく汗かいちゃってる。すぐに着替えなくちゃ風邪ひいちゃうかもしれないのね」


「そうだね。ついでにゆっくりと湯船につかってきてよ」


「そうする。……けど、ねえ、乙終君。お願いがあるんだけど、今日は着替えがないから乙終君の服を貸してくれる?」


「ん? 別にいいけど、俺の服でいいの? 姉さんのじゃなくて?」


「うん。乙終君のがいい。少し大きくてもいいから。……ダメ?」


「いや、ダメじゃないよ。榎本さんさえよければ、俺の服ならどれでも好きなのを貸してあげるよ」


 そう言いつつ、適当に選んだシャツを榎本に渡す。

 それを受け取って、お風呂に向かう榎本。部屋を出ようとしてドアに手をかけたところで、こちらを振り返った。


「貸してって言ったけど、これ、もらっていい?」


 これ、とは、榎本が大事そうに胸に抱えている俺の服のことだ。

 つまり、俺の服が欲しいということだろう。

 どうしてだろう……と思わなくもないけれど、断る理由もない。もしかしたら、自分が一度着た服を俺に返すのが嫌なのかもしれないから。


「……えっと、榎本さんが欲しいならあげるよ」


「ありがとう。大切にするのね」


 そう言って笑った榎本は今度こそドアを開けて部屋を出ていった。

 彼女を見送り、一人残された部屋の中央で呆然と立ち尽くし、時間とともに少しずつ冷静になってくると、だんだん恥ずかしさがこみあげてくる。

 一体俺たちは何をやっていたんだ。

 今夜は眠れなくなりそうな気がする俺だった。

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