12 榎本との夕食
うららかな土曜の午後から始まった実践文芸サークルの会合は無事に終わったと言ってよく、本格的な日暮れが訪れる前に全員が帰ることになった。ただの雑談を騒がしいくらいに楽しくやっていた赤松たちが一人残らずいなくなってしまうと、まるで嵐が去った後のように家の中が静かになる。
その静寂の中で、リビングの隣にあるキッチンから、てきぱきと手際よく姉さんが食事を準備する音だけが聞こえてくる。
そろそろ夕食の時間か。お腹が空いたな。
そう考えながら家事を任せたきり、ぼんやりと寝ぼけ眼でソファに座っているのは他でもない俺である。本当は何か手伝ったほうがいいのかもしれないが、自他共に認めるレベルのシスコンである俺は姉さんが作ってくれる料理が大好きなので、食事の準備に関しては一切邪魔しないことにしている。その代わりと言ってはなんだが、せめてもの気持ちで後片付けや皿洗いは日常的に手伝っているから許してほしいところだ。
分担は適材適所でやる派だ。よろしく。
さて、ご飯を待ちながら適当にテレビをつけて夕方のニュースをダラダラ見ていたら、それは許さぬと誰かに怒られた気がした。いや違う、ピンポーンと呼び鈴が鳴ったのだ。宅配便か何か知らないが、ともかく誰かが来たらしい。
ゆりかごに沈み込む赤ちゃんの気分で座っていたため、若干わずらわしい。眠気もあるのでソファから立ち上がるのさえ面倒だ。
けれど、しっかり者の姉さんは料理で忙しいので俺が出るしかない。
押し売りのセールスマンやら宗教の勧誘やら、とにかく誰が出てきてもいいように表情を余所行きのものに改めて、少し緊張してドアを開ける。
「ごめん、来ちゃった」
「榎本さん?」
警戒しつつ開いたドアの隙間から外を覗き込んで俺は驚いた。不意に来た客は誰なのだろうと思えば、そこにいたのは榎本だ。ドアノブに手をかけたまま念のため彼女の周囲を眺めてみるが、先ほど一緒に帰ったはずの美馬や赤松の姿はない。
どうやら一人で戻ってきたようだ。
なんだろう。
「どうしたの? 何か忘れものとかした?」
「ううん、そうじゃないの。さっき帰ったばかりなのに戻ってきてごめん。けど、あのね? 少し話がしたくて……」
「……まあ、とにかく入って」
スカートの端をぎゅっと握ってもじもじと答える榎本が可愛くて、ドアの内側と外側で向き合っているだけでも胸がどきどきしてくる。冷静に考えてみれば、こうして榎本を一人で家に上げるのは初めてだ。夕食の準備をしている姉さんがキッチンにいるので榎本と二人きりというわけでもないけれど、好きな女子が家に上がるとなると緊張を隠せるわけでもない。
どうぞどうぞと恐縮しながらリビングに案内する。一日に二度もお邪魔することになった彼女は彼女で遠慮しているのか、迷惑にならぬようにと足音も立てず静かについてくる。
さっきまでみんながいた部屋に、今度は榎本と二人で向き合うこととなった。
「それで、俺に話って……?」
「うん、そのことなんだけど」
言いにくそうに頬をかく榎本。いつものように軽い口調で切り出せないところを見るに、それなりに大事な話をするつもりなのかもしれない。
全く心当たりがないけれど、いったい何だろう。
また変なことを言いだすかもしれないので、期待が半分、不安も半分だ。
何を言われてもいいように身構えていると、こちらの話し声に気づいたらしく、夕食の準備を中断した姉さんが顔を出した。
「あら、榎本ちゃん? みんなと一緒に帰ったんじゃなかったんだ」
「あ、いえ、一度は帰ったんですけど、再びお邪魔してます」
エプロン姿の姉さんに声をかけられ、いきなり押しかけて申し訳ないと思っているのか榎本は背筋を伸ばした。
そういえば、あまりこの二人がしゃべっているところを見たことがない。仲が悪いというわけでもなさそうだが、一年先輩である姉さんを相手に榎本も緊張しているのかもしれない。
どれほど仲がいい友達でも、その兄弟姉妹とは気まずかったりする。
一度ちゃんと打ち解けてしまえたら楽なのだろうが。
「榎本ちゃん、よかったら一緒に晩御飯を食べていく?」
「え、いいんですか?」
「もちろんだよ。大歓迎するよ。榎本ちゃんさえよければ、ね?」
「はいはい! こちらこそ、もちろんです! 今日はお母さんに予定があって明日の午後まで帰ってこないので、晩御飯も一人で寂しく食べなきゃいけない予定だったので嬉しいです!」
そうか、このまま一緒に食べていくのか、それはよかった。
榎本と食卓を囲むことができるとわかった途端に嬉しくて心が躍るのは、彼女に恋する俺の根が単純だからかもしれない。
やったぜ。
無邪気に喜んでばかりいるのも単純すぎるので、一応は色々なことを心配して姉さんに尋ねる。
「ちょっと待って姉さん、いきなり榎本さんを誘っても大丈夫なの? 夕食の準備だって大変なんじゃ……」
「心配しなくても大丈夫だよ。今夜はカレーだから、急な来客でも大丈夫」
それを聞きいた榎本が立ち上がって顔を輝かせた。
「カレーですか、大好きです! ね、乙終君、カレーだって!」
「いや、まあ、今夜がカレーなのは知ってたけどね」
晩御飯の準備をするのが大変といっても、献立がカレーなら一人増えても大丈夫だろう。もちろん大変なのには変わりがないので、後で姉さんをねぎらっておくとしよう。
というか榎本よ、わざわざ俺のそばまで歩いてきて、こちらの腕をつかんで揺さぶってくるのはやめてほしい。カレーが大好きな子供じゃないんだから……。
「うふふ。そんなに喜んでくれると作っている私としても嬉しいなぁ。じゃあ、もうちょっと待っててね」
「はい!」
ご飯が待ちきれない小学生みたいに喜んでいる元気な彼女の返事を聞いて満足したのか、笑顔を浮かべる姉さんはキッチンに戻った。
しかし姉さんの姿が見えなくなっても榎本はまだ俺の腕をつかんだままだ。
さすがに何か言おうと思ったが、こんなに近いと普通に緊張する。
口を閉じて、少し目をそらす。すると彼女がこちらの顔を覗き込んできた。
「なんでそんなに顔赤いの?」
「そうやって榎本さんが顔を近づけてくるからかな……」
「あ、ごめん」
あまりに近すぎる二人の距離に気づいた榎本が申し訳なさそうに謝りながら離れた。ほっとする反面、今までつかまれていた腕に彼女の温度が残っているのを少しだけ名残惜しく感じてしまう。
もっと堂々と腕を組んでいられたら幸せだろうな……。
無論、そのためにはまず俺が自分の気持ちや態度をはっきりさせなければならないけれど。
黙ったまま二人で顔を突き合わせているのは気まずいので、なんでもいいから何か話をしよう。
「今日は親御さんが帰ってこないんだって?」
「あ、うん。さすがに子供じゃないから家に一人でいるのが不安ってわけじゃないけどね。ただ、寂しかったのは本当」
「そっか」
欲求不満になるほど誰かに構ってもらいたがる榎本である。やはり寂しがり屋でもあるのだろうか。
兄弟や姉妹はおらず、物心がついてからずっと母と二人暮らしというので、一人で夜を過ごすのは彼女にとってつらいのかもしれない。
「といっても、ここに戻ってきた理由は家に帰るのが寂しいってだけじゃないんだけどね。乙終君に話があるってさっきも言ったけど……」
「そういえばそうだったね。俺に話か。言いにくい話じゃないなら、さっそく聞かせてくれる?」
「うーん、そうだね……」
言いにくい話なのか榎本はもじもじしている。
なかなか促すこともできず、言葉が出ないまま過ごした数秒の沈黙。
このままでは埒が明かない。別に急いでいるわけでもないけれど、いつまでも彼女が話し始めるのを待っていれば、三人分のカレーが先に出来上がってしまう。
おいしいカレーを前にしたら、もはや話などそっちのけになってしまいかねないではないか。それに準備が終われば食卓に姉さんも来てしまうので、内容によっては榎本と話すのも難しくなる。
仕方がない。ここは頼れる相談役としての面目躍如を図ろう。
「榎本さん、ちょっと失礼するよ」
そう宣言した俺は腰かけていた椅子から立ち上がって榎本のそばに行く。
「え、何?」
きちんと閉じた両膝に手を置いて、姿勢よく座っている彼女が不思議そうに俺を見上げてくる。位置的に上目遣いになっている榎本の顎に手をやって、くいっと少しだけ持ち上げる。
薄暗い部屋で小さな字の本を読む時くらいに顔を近づけ、イケメン気取りの気障っぽい言葉遣いを意識して彼女に命令する。
「さあ、ちゃんと俺の目を見て話してくれ」
「……えっ」
「話すんだ」
「えっ」
目を真ん丸にした榎本がびっくりして動けなくなってしまった。
そのまま見つめていると、いつになく彼女の顔が赤くなっていく。
少し顔を下ろせばキスできそうな至近距離。照れているように見える彼女のウブな反応が面白い。
ただし、いつまでも見てはいられず、先に目をそらしたのは俺だった。
「ごめん、やっぱり今のなしで!」
ひっくり返らんばかりの勢いで手を離して榎本から遠ざかる。
思い付きをやってみたはいいものの、これでは話をするどころじゃない。
「今のなしって言われても……ねえ、今の何?」
「いや、その……」
恥ずかしがって逃げようとした俺を見逃さず榎本が攻めてくるので、今度はこちらの顔が赤くなっている気がする。ああ、とんでもなく頬が熱い。
今のは何なのか、か……。馬鹿にされるのも恥ずかしい気がする。
こうなったら下手に言い訳などせず、素直に白状したほうがダメージは少なそうだ。
「ほら、これでも俺は榎本さんの相談役だからね。最近あんまり構ってあげられてなかったから、ね?」
素直に白状したつもりだが、自分で聞いていて言い訳がましい気もしてきた。
セクハラか何かで訴えられやしないだろうか。
やるにしても段階を踏むべきだったか。あまりにも唐突だったので機嫌を損ねてしまったのではないかと危惧したが、どうやら榎本は悪い気もしないらしい。
「うん、ありがとう。実は欲求もたまってたから嬉しかったんだけど……」
なんだ嬉しかったのか。
「だけど?」
「そういうのは弱いかも……」
「あ、うん……」
強いとか弱いとか言われても、榎本が求めるマゾ的なポイントがよくわからないから困る。これでも相談役を名乗っているので彼女の役には立ちたいけれど、弱いってことは嬉しいってことでいいんだろうか。
もう一度さっきと同じようなことをした場合、喜ぶのか嫌がるのか判断が難しいところだ。ぎりぎりを攻めた結果、良かれと思ってしたことが原因で嫌われるのは避けたい。
どうしたらいいんだろう。
気まずい、というより、気恥ずかしい沈黙。
いっそ姉さんがいるキッチンに逃げようかなと思っていると、話を変えるように榎本が小さく手を叩いた。
「そういえば、今日は古沢さん来てなかったよね?」
「来てなかったね。模擬デートをしてくれたらサークルには顔を出さないっていう約束を守ってくれたんだ」
「そうなんだ。約束を守ってくれたんだ。じゃあ、やっぱりそういうところはきちんとしている感じなんだね」
「ぐいぐい来るタイプだったから意外かもしれないけど、どうやら彼女はそうみたいだ。……それが何か問題でも?」
気になって尋ねてみれば、何か問題でもあるのか榎本が眉根を下げた。
「いやね、実は彼女にちょっと冷たくしすぎたかなって」
「……榎本さんが?」
「……うん。そう見えなかった?」
「ええっと……」
確かに、そう言われるとそうだったかもしれない。冷たくしたというか、古沢さんとは距離を置いていたという感じだ。古沢さんもそう感じたと言っていた。
見ている限りでは榎本と古沢さんとの間に何かしらの因縁があるわけでもなさそうだったが、ひょっとして苦手なタイプなのだろうか。
気にはなるものの、こちらから彼女の交友関係について、あまりに深く踏み込んで尋ねるのも変な気がする。
それとも彼女は聞いてほしいのだろうか。
相談役としては彼女が抱えている欲求不満の件だけでなく、色々な面で相談に乗ってあげたいというのも本心ではある。
彼女が話しやすいように、こちらから聞いてみたほうがいいだろうか。
「もしかして、そのことが気になってわざわざ戻ってきたの?」
「いや、その、それは口実っていうか……」
なにやら歯切れが悪い。
やはり迂闊に深入りしないほうがよかったのではないかと思って若干の後悔を覚えていると、ようやく踏ん切りがついたのか榎本の方から口を開いた。
「最近ね、ちょっとね、あんまり乙終君としゃべれてなかったからね? 相手にされなくて、いつになく欲求もたまってたのね……?」
「あ、そうなんだ」
「うん、だからね?」
榎本はこちらの目をまっすぐに見つめたまま、熱っぽく答える。
「もっと私をいじめてほしいの」
「えっ」
「……あ、違うからね! いじめてほしいって言ったけど、決して、絶対、いやらしい意味じゃないからね!」
勘違いされてはならぬとばかりに焦った榎本は再び顔を真っ赤にして立ち上がるが、そうまでせずともわかってるわかってる。
いやらしい意味じゃなくて、マゾ的な意味での欲求不満案件だろう。
でもそれって、いやらしいと言えばいやらしい気もするが……。
自覚があるのかトーンダウンして腰を下ろした榎本は少しだけ顔を俯かせ、上目遣いにこちらを見る。
「乙終君に構ってほしいだけなの」
そう言われると正直すごく嬉しい。どんな需要であれ、好きな相手に自分の存在を求められるのは幸福だ。優柔不断な性格のせいもあって、榎本に限らず誰が相手であろうと恋愛沙汰になる寸前でブレーキを踏んでしまう自分が情けないけれど、この曖昧な関係を大切にしたがっている自分がいて、感情を制御するのも難しい。
ためらっていると榎本が袖をつかんできた。
「お願い。私をもっといじめて……」
「榎本さん……」
いじめるって例えばこうだろうかと、彼女の手を強くつかみ返そうとして、逆の手を伸ばした時――。
「お待たせ、カレーできたよ!」
「あ、ありがとうっ!」
陽気な声でカレーの完成を告げる姉さんが二人分の皿を両手に抱えてリビングへやってきたので、俺と榎本は飛びのくように離れた。
「ん、どうしたの?」
「いや、カレーが嬉しくって、つい立ち上がっちゃって!」
「うふふ、そんなに喜ばなくたっていいじゃない」
やや言い訳が苦しい気もするけれど、そんなに気にしていないのか姉さんは深く追求せずに笑顔を浮かべた。その場で飛び跳ねるくらいにカレーの完成を喜んだことが嬉しいらしい。
さすがにそれは俺を子供扱いしすぎじゃないかと思わなくもないが、どちらかと言えば姉さんに甘えて生きてきたシスコンなので、子供のころから子供扱いされることには慣れている。
「とにかく召し上がって。ね?」
「うん……」
ごまかすようにスプーンを手に取って、まずは一口目のカレーをおいしく味わうことにする。姉さんが作ったにしては珍しく甘口ではなく、ほどほどに辛い。
冷たい水を飲みながら榎本の方を見ると、彼女も一心にカレーを味わっていた。何か声をかけようとかとも思ったけれど、無駄に集中している。
姉さんが来たこともあり、しばらくは会話もお預けのようだ。
ひとまずは気持ちを切り替えて、晩御飯のカレーを食べてしまおう。
「げほっ、ごほっ!」
「ごめん、辛かった?」
「いや、全然大丈夫。ちょっとむせただけだよ」
恥ずかしさで顔が赤らんだことを隠すなら、カレーは熱くて辛いくらいがちょうどいい。




