07 心を鳴らして
その日の放課後、今日はサークルの予定がないので寄り道せずに帰ろうと思っていた俺だったが、廊下に向かって足を踏み出したところで出鼻をくじかれる。
また古沢さんに声をかけられたのだ。
顔がすごく近いところに来るので、さすがに足を止めるしかない。
「ねーねー、乙終君、ちょっといいかな?」
「ちょっとくらいならいいけど、何?」
交際関係にない男女にとっての適切な距離をとるべく身を引こうとしたら邪魔されて、つかまれるようにガシッと肩に手を乗せられる。
あったかい彼女の息が頬にかかるくらい近いので、何か甘い匂いがすると思ったらキャラメルだこれ。
「今から少し、あなたの時間をちょうだい」
「ちょうだいって……。何か用事でもあるの?」
「あると言えばあるかな。ないと言えばないけど」
ないと言えばないのか。じゃあなんで話しかけてきたんだろう。
逃がさないと言いたげな手の力はともかく、差し迫っているようには見えない。
「お話がしたいだけだよ。ほら、行こう?」
肩に置かれていた手が一度は離れて俺の手をつなぐ。体育祭で紅白に分かれて引き合う綱引きの綱のように、無理やり引っ張られそうになる。
「行こうって、どこに行くつもりなの? 二人で出かけるデートはこの前にやった模擬デートで終わりって話だったよね……?」
また誘われているんだろうかと警戒していると、それは即座に否定された。
「うん、だからデートはしないよ。それに、もうサークルには顔を出さない。それが約束。でも、お話までは禁止されてない。ね?」
「それはそうだけど……」
ちょっとお茶しない? はデートに含まれますか?
馬鹿なことを考えていたら彼女に手を引かれ、そのまま古沢さんと一緒に教室を出る羽目になった。
長い廊下を歩き、階段を上っていく。
どこに連れていかれるんだろうと思っていたら校舎の三階にある音楽室だ。鍵がかかっているんじゃないかと思ったら開いていて、誰かいるんじゃないかと思ったら無人だった。
一歩遅れて俺が入ったところで扉を閉めて、カチャリと内鍵まで閉めた古沢さんが得意げに語る。
「今日は吹奏楽部の練習がお休みなんだって」
「だからといって勝手に使っていいの?」
「いいんだよ。昼休みとか吹奏楽部の練習がない放課後とか、暇をした生徒がよく楽器で遊びに来てるもん」
「そうなのか……まあ、いたずらするわけじゃないから大丈夫か」
そういえばパソコン室のパソコンは休み時間や放課後なら生徒は自由に使っていいと言われていた。図書室にある本を誰でも自由に読んでよいように。そんな感じで音楽室に置いてある楽器もある程度は自由に使っていいのだろう。
おそらく各教室や施設の使用ルールは学校ごとに違うから、厳しいところだと使うたびに教師の許可がいるのだろうけれど、うちの学校はそういうところに甘い。
屋上だって鍵が開いている。
「生徒会を敵に回すと使えなくなるけどね」
「アニメの見過ぎでは?」
いくらなんでも生徒会にそんな権限はないはずだ。
部活の申請をするために生徒会長と会ったことがあるけれど、三年男子の生徒会長は生真面目で神経質っぽくは見えたが高圧的というには程遠かった。結局は部活の新設は認められずにサークルを作ることになったが、少なくともルールを守っている間は怒られることもなさそうだ。
「現実を甘く見過ぎでは?」
真似をされて彼女に笑われた。
まあ、確かにアニメや映画を馬鹿にできない異常な事態というのは現実世界にも起こりうる。時には現実のほうがフィクションを超えたりもする。現実は所詮こうだろうと、少ない人生経験をもとに決めつけて生きるのは危険かもしれない。
「ごめん、生徒会を敵に回すのはやめておくよ」
「そうなの? 言論の自由を大事にしてそうな文芸サークルなんだから、教師とか生徒会みたいな権力者を敵に回すのは上等って感じじゃないの?」
「いや、そんな危険サークルじゃないから。そもそも言論の自由を大事にする文学だからって必ずしも作り手が反体制派とも限らないからね。というか今の俺たちがやってるのってエンタメだから。何かを敵に回すような活動じゃないから」
「からから、からからって、だったら『エンタメ楽しんでますサークル』に変えればいいのに。文芸サークルって聞いたら純文学とか堅苦しいのを想像する人も多いんじゃない?」
「個人的には名前は何でもいいけどね……。小説を書いてるのって究極的には趣味でしかないから、文学や文芸を名乗るほどでもないし」
「あ、代わりに私の恋人でも名乗れば? サークルじゃなくて乙終君が」
「うーん、よくわからない論理だね……」
「だったら感覚に訴えなくちゃダメかな」
何を考えているのやら、上機嫌な古沢さんはピアノの前に座った。丁寧な手つきで慎重にピアノの鍵盤を覆っていたカバーを外して、いかにも今から演奏しそうな雰囲気だ。
本気で感覚に訴えかけてくるらしい。
それにしてもピアノか。なんとなく難しそうな印象がある。
「何か弾けるの?」
「あんまり上手くはないけどね」
適当に音を鳴らして指のウォーミングアップを済ませると、もぞもぞと椅子に座り直してからピアノの演奏を始めた古沢さん。
すごくアップテンポで、踊りたくなるくらいに楽しくなってくる音楽だ。
聞き覚えがあるのもそのはずで、すごく有名なゲームの曲である。
リズムに乗った彼女は軽快な指運びのまま目立ったミスもなく、きりのいいところまで一分くらい弾いて演奏を終えると、どうすごいでしょと言わんばかりに得意げな顔をして俺の方へ振り返った。
実際すごかったので素直にほめたかったけれど、どうしても気にかかることがあったので、つい言わなくてもいいことを口にしてしまう。
「これも元彼の影響?」
ゲームが好きな元彼とか言っていた。だったらこれも彼氏のために頑張って練習とかしたんだろうか。
別に古沢さんに恋をしているわけでもないのに、なぜか心がもやっとする。
嫉妬ではない。でも、ではなんだろう。
自分がみっともなく思える。
「気にしてくれているのは嬉しいけど、これは元彼の影響じゃないよ。だから安心して聴いて?」
そして二曲目を始める。
これも聞き覚えがあるはずで、やっぱり人気ゲームのBGMだ。上手いというか、すごく楽しそうだ。
好き、というのが伝わってくる。
「じゃあ、古沢さんがゲームを好きなの?」
曲が終わったところで尋ねてみると、彼女は少し迷ってから答える。
「好きと言えば好きだけど、たぶん乙終君が思っているほど好きって感じじゃないかな。昔、友達がゲームばっかりやってるくらい好きな奴でね、その影響か私も同じように好きになったの」
友達の影響か。それなら普通かもしれない。元彼の影響を受けた趣味を聞かされるよりは穏やかに受け入れられる。
自分でも理屈のわからない安堵を覚えていると、俺とは反対に難しそうな顔をする古沢さんが口を開いた。
「そいつ……」
どこか遠い目をして、つぶやくように言葉を吐きだす。
「同じものを好きだったのに、いつから同じじゃなくなったんだろう」
ピアノの鍵盤に指を乗せたまま、何も鳴らせずに古沢さんは肩を落とした。
悲しさというには違和感があるけれど、誰にでも共通したような寂しさや切なさを感じてしまう。クラシックの名曲が見たこともない風景を思い浮かばせてくれるようなシンパシー。大人への階段を途中で振り返ったとき、かつていた場所があまりに遠くなったことを失ってから知る手遅れ感。暖かいノスタルジーを心地よくも感じながら、心がチクリとする。
ただの友達という感じではない。親友だったのだろうか。
彼女の話を聞きたくもあるけれど、聞いていいのかもわからない。
もうこれで演奏会は終わりなのか、ピアノの鍵盤に蓋をした彼女は椅子から立ち上がって俺のそばに来た。
「昨日の放課後、乙終君との模擬デートの話を聞かせてくれって言うから彼女たちと一緒に帰ったんだけど……」
「あ、うん」
彼女たち、というのは榎本たちのことだろう。昨日、古沢さんは文芸サークルの女子メンバーたちと四人で仲良く帰ったはずである。
模擬デートの話を女子だけでしたいと言っていた。模擬デートをやった自分で言うのもなんだが、まさか本当に小説の参考になったとは思えず、どんな話をしたんだろうかと興味半分で疑問に思う。
「乙終君、あなたって彼女たちに愛されているんだね」
核心を突くような彼女の言葉。否定することも、肯定することもできない。
どうしてそう思うんだろう。しかし不思議なことに古沢さんは確信を持っているようである。
「私、それで思ったの」
「……何を?」
問いかけた俺の横を通り過ぎて、閉まっていた分厚いカーテンを少しだけ開けた古沢さんの顔が夕日に照らされた。
「好きな人と結ばれればそれでいいって思ってたけど、あなたに恋する彼女たちを出し抜きたいわけでもない。誰かの大切なものを奪いたいわけじゃないんだって」
それは意外な言葉に思えた。彼女なら平気で奪おうと考えるだろうと、ある意味では失礼な印象があったから。実際、そんな話を昼休みに聞いたばかりだ。
柄じゃないことは自分でもわかっているのか、少しは照れている感じで夕焼けに染まった古沢さんは微笑んだ。
「友達になりたいと思えた女子が初めてなのかも。ありがちな話だけど、恋と友情のジレンマって奴。……榎本ちゃんだけは私を警戒してたけど」
「警戒しているっていうのかな……。たぶん榎本さんは古沢さんのことを嫌っているわけじゃないと思う」
「わかってる。警戒しているというより、ただ避けてるって感じ。ねえ、乙終君。君と榎本ちゃんって、お互いに恋愛感情はあるけど付き合う決心がついていない、そんな中途半端な関係なんでしょ?」
「彼女がどこまで俺のことを本気で想ってくれているのかはわからない。……だけど、まあ、これは古沢さんを信頼しているから教えるけれど、俺が榎本さんのことを好きなのは事実だよ」
「じゃあ、迷ってるっていうのは?」
「これも古沢さんを信頼して教えるけど、美馬だよ。彼女とは幼馴染なんだ」
そう、俺は榎本と美馬の二人が同じくらい好きなのだ。どちらにも軽くない恋をしている。優柔不断な話で自分でも情けなくなってくるが、今の俺はどちらか一人を選ぶことができないのである。
だからこそ俺は自分の気持ちに対して真剣に向き合いたい。小説を書きたいというのも本音だが、その中でも特に恋愛小説を書きたいと思うのは、自分の気持ちにけじめをつけたいからなのだ。
「へえ、美馬っちとは幼馴染なんだ。どちらかと先に付き合って決めるとかはしないんだよね?」
「前も言ったけど、それはしないよ。自分の中で結論を出してからじゃないと駄目だと思うから」
そうでなければ自分を許せなくなる。軽い気持ちで交際を始めるカップルを否定するつもりはないけれど、俺には向いていない。
この考え方に共感しているのか理解できないのか、迷っている感じの古沢さんは少し悩んで、ためらいがちに口を開いた。
「私もそうすればよかったのかな?」
「やり方は一つじゃないと思う。たぶん正解なんてないよ。ただ、自分の中で納得のいく方法っていうのはあるかもしれないけどね」
「納得のいく方法……」
そんなものが簡単に見つかるなら苦労はしないし、見つかったところでうまくいく保証はない。
それでも懸命に探そうとするところに青春を捧げたい。
自分も、周りも、すべてを納得させるだけの生き方と価値観を手に入れたい。
古沢さんは俺に背を向けて窓越しに外を見る。徐々に自信がなくなって最初より小さくなっていく彼女の声が聞こえるように、あまり接近しすぎない程度の距離で古沢さんのそばへ寄る。
「私、今まで恋をして付き合ったのは二人だけだよ。中学生の頃に同じクラスだった男子と、あとは先輩。どっちも軽い気持ちってわけじゃなかった。なのに、私が馬鹿だったのとタイミングが悪かったのもあって、他の女子には嫌われるし男遊びをしているって噂されるようになったんだ」
何か返事をしなければと思った瞬間、制服のポケットに入れていた自分のスマホにメッセージが届いた音がした。
あまりにタイミングが良かったので確認してみると、それは目の前に立っている古沢さんからであり、一枚の写真データが送られてきている。
「これ……」
見覚えがあると思ったらそれもそのはず、福富が彼女への告白の際に見せつけていた例の写真だった。
制服を着崩して下着を見せている古沢さん。
確実に一瞬は目を奪われたが、すぐに恥ずかしくなって画面を消す。
「たまに自分でもどうかと思うけど、私って見られて興奮するとこあるから。燃えてるときは見せつけてやりたいくらいな気持ちになる。好きな相手になら、何でもしてあげたくなる」
そう言って古沢さんは手に持っていたスマホをちらっと見る。
「一度も相手を恨んだことないよ。嫌われても、都合よく使われても、しょーがないってあきらめる。けど……」
「けど?」
「……うん。気持ちのいいことって、どうしてこんなにも痛みを伴うんだろう」
声が心細く聞こえたから泣いているのかと思ったけれど、身をかがめて隠れるように指で目元をぬぐった古沢さんの涙は見られなかった。
弱音を吐いていても自分が弱いと思われたいわけではなく、むしろ強くなりたいことの裏返しなのかもしれない。
古沢さんはこちらを向いて、すでに涙の枯れた強い目をして俺を見た。
「私、うまく立ち回りたいの。誰かの食い物にはされたくない」
欲求不満の榎本も、飾らない同盟を結んでくれた峰岸さんも、思えば同じようなことで悩んでいた。言葉にはしないけれど、美馬も悩んでいるかもしれない。
人間関係や身の振り方、自分らしさや自己表現。おそらく誰もが自分なりの悩みを抱えている。時には深刻なくらいに抱えていて、押しつぶされそうにもなる。
他人と比べて深刻かどうかはともかく、自分の内面や恋愛感情についての悩みがあるのは俺もそうだから少しはわかる。
なら、俺も彼女の力になれるだろうか。
ゆっくりとした手つきで窓を開けて、風のない日に風を感じようとする彼女。
「なんだかわからなくなっちゃった。なのに、なんで恋をするんだろ」
ひょっとすると今のは単なる独り言で、声に出してはみたものの古沢さんは俺の答えを求めていないのかもしれない。
だが、ここは素直に俺の考えを伝えたい。
口にするのも恥ずかしいくらいの願いと決意を。
「誰かを好きって気持ちは自分さえ裏切ることがあるけれど、だからといって、俺はあきらめたくはない」
声に反応して古沢さんがこちらを向いたので、それを確認して俺は続ける。
「愛することも、愛されることも、誰か一人と永遠に共有していたい。たった一人と誓い合いたいんだ」
あるのかもわからない本物の愛。そんなものに憧れている。
大人になると理想ばかりを言っていられないくらい現実が重くのしかかってくるのかもしれないけれど、せめて今くらいは熱烈に信じていたい。
馬鹿にされるかと思ったものの、真面目に聞いていてくれた古沢さんは優しい笑顔で喜んだ。
「そう、それを聞きたかった。私はそれを求めている。ずっと愛して、ずっと愛されたい。たった一人の大好きな相手と」
古沢さんの共感がもらえて、自分の願いが理解を得られた俺は嬉しいと思えた。
内容が内容だけに榎本や美馬には打ち明けられない気持ちなので、ある意味では同じような悩みを持っているように思えた古沢さんだからこそ言えたのだろう。
恋人にはなれないかもしれないが。
友達にはなれる。
大切な仲間の一人に。
「ねえ、乙終君、あれを見て」
「……どれ?」
大事なものを見てほしいのかもしれないので、何かを指さす彼女の隣に身を寄せて、古沢さんと一緒に窓から顔を出す。
ところが、窓の外を探してみても彼女が何を言っているのかわからなかった。
あれ、というほどのものは見当たらない。
どういうことだろうと思って古沢さんの方を向くと、さっきよりも彼女が近くにいて、さらに踏み込まれる。
「ごめん、嘘」
背中に腕を回されて、真正面から抱きつかれた。
「ちょ、ちょっと、古沢さん……」
どうすることもできぬまま胸元に顔を押し当てられ、そのままじっと数秒。
顔を横向きにした古沢さんは耳を胸に当てて、つぶやいた。
「乙終君、ドキドキしてる」
「そりゃ、まあ、いきなりそうされたらね……」
全身が熱くなる。胸の鼓動が激しくなるのを抑えることができない。
呼吸さえ止まってしまって動けずにいると、古沢さんのほうから離れてくれた。
「ちゃんと私でもドキドキしてくれるんだ。ありがとう。色々と思うところはあるんだけど、今の私はそれが知れたら十分かな」
「えっと、その……」
うまく顔を見ることができない。まだ熱が残っている気がする。
「ね、今日は一緒に帰らない?」
「いいけど……」
「じゃあ、これあげる」
また近づいてきた古沢さんの右手が顔にまで伸びてきて、しゃべろうと開いた口に何かを押し込まれる。
甘い味と香りがする。キャラメルだ。
「私の味。今キスをしたら、それをもうちょっと甘くしたくらい」
ふふっと笑った古沢さん。
何も言えず、窓を閉めて先に音楽室を出た彼女を追う俺だった。




