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16 いつか書きたい恋の物語

 きれいな虹が出たとか出ないとかで空を見上げながら歩いていた榎本は、ずさーっと転んだ。

 ずっしゃあ、だ。

 その日は降ったり止んだりの雨で、下校途中の道路には大きな水溜りがあって、それを見落としていた榎本。

 だから彼女が転んだのは天然だ。あいにく計算ではない。


「あ、うう……」


 泥水に汚れてしまった榎本はさすがに快感ばかりという状況ではないらしい。

 それもそのはず、生暖かい水溜りに顔から突っ込んでいったのだ。制服が見事に濡れてしまって気持ち悪かろう。

 下校途中といっても、実際に彼女が転んだのは俺の家のすぐ目の前だ。そのまま玄関に入っていれば転ばずにすんだものを、家の中へ入る直前に雨が上がって日が差してきたので、きっと虹が出るに違いないとテンションが上がり、わざわざ道路まで駆け出して行ったのだ。


「大丈夫?」


 確認してみると顔まで泥に汚れている。ぐっしょり濡れたからには下着も透けて見えそうだ。幸か不幸か、目撃者は俺一人。どうせなら他にも誰かに転ぶところを見ていてほしかったのかもしれない。

 欲求不満な彼女的には、こんなときにこそ注目を集めたかっただろう。


「大丈夫……だけど、ただでは起き上がりたくないのね」


「なぜ四つんばいの状態で威張れるのだ」


 笑っちゃかわいそうだが俺は苦笑して、榎本に向けて右手を差し延べる。

 その手をとった彼女は渋々立ち上がった。もったいなさそうにしている姿にますます苦笑してしまう。


「とりあえずシャワーでも浴びていきなよ。服は姉さんが貸してくれると思うし」


「ありがとう。でもどうせなら無様な姿の私を写真に撮ってほしい気分ね。ここでこのまま暗澹あんたんたる気持ちで待ってるから、乙終君は急いで家に上がってカメラもってきてよ」


「……本気で言ってる?」


「乙終君の前だもの」


 にっこり笑ってウインクを飛ばしてくる榎本。どうやら本気らしい。ならば迅速に彼女の要求に応えてあげるのが相談役としての義務であり、信頼関係を培ってきた友人としての優しさであろう。

 俺は「待ってて、すぐ戻る」と言い残して家に駆け上がった。そして机にしまいこんでいたカメラを探す。今日は学校で何かの記念に実践文芸サークルの集合写真を撮ろうという話になっていたので、それを覚えていた榎本は早速カメラを自身の欲求を満たすために活用しようという魂胆らしい。

 彼女いわく「しまった(!)の瞬間記録写真」だ。

 転んでもただでは起きないというか、わざわざ余計な損失を払ってからじゃないと起き上がらないのはどうかと思うが、それでこそ榎本だと納得するしかない。

 もうどうしようもないなと呆れつつ、しかし俺は一方で、こういう明るい彼女にずっと救われてきたのかもしれない。

 思えば冬の時代にも似た中学生のとき、友達もおらず一人きりで苦悩のただ中にあった俺を救ってくれたのは、他でもない榎本だった。当時はまさか天真爛漫な彼女の正体が欲求不満のマゾ系女子とは思わなかったが、そうだったとしても、今さら彼女に対する好印象がひっくり返ってしまうわけではない。人には言えないが、むしろ、より親密になれたような気がするのだから不思議である。

 いつも気にかけてくれていた榎本のおかげで、当時の俺が少しずつ前向きになれたことは疑いようのない事実だ。あのとき、もしも榎本がいなければ、きっと今の俺は馬鹿よりひどいものだったことだろう。

 希望も何もなかった暗黒時代を克服して、まがいなりにも高校デビューへの道を踏み出そうと期待することが出来たのも、すべては榎本の優しさゆえである。

 あれは確か、そろそろ中学を卒業するという時、高校生活に不安のあった俺は恥をしのんで榎本に相談したのだった。自らのトラウマや恐怖をありのままに告白して、彼女に助けを求めたのだ。

 その時の彼女といえば弱気になっている俺を笑うでもなく、真面目に心配するような顔をして、力になりたいと言ってくれたのだ。

 胸を張って、自信満々に、私に任せてと微笑んでくれた。

 調子に乗っていたわけではあるまい。それは俺を励ますためだったのだろう。

 それから高校の入学式までの長い春休み期間、俺と榎本は二人でたくさんの練習をした。主にそれは俺の会話の相手になってくれるというもので、つまり俺に自信を持たせようとしてくれたのだ。

 一緒に勉強もしたし、気分転換に遊びに出かけたりもした。

 とはいっても当時の榎本は自分の本性を隠して優等生ぶっていたので、わかりやすいくらいに俺との間には一線を引いていて、あくまでも恋愛につながる話などしなかったし、遠慮からか俺の家にくるようなことはなかった。だから姉さんと知り合ったのも高校生になってからだったのだ。

 そんな風に常識人としての仮面を被っていた榎本も、ヘンテコな欲求不満がばれてしまった今では、あのころよりずっと魅力的な素の笑顔を見せてくれるようになった。

 優等生ぶって俺に遠慮することも、ほとんどなくなってきたと言っていい。


「折角だから最高のアングルでベストショットを撮ってほしいのね。水溜りへと転んで顔から突っ込んでしまった私が、この恥辱と絶望に打ちひしがれているかのように」


「どう撮ったって笑顔だから説得力ないよ」


「失念してた。うん、悔しそうな表情を意識してみる」


 カメラを構えた俺はあれこれと構図や距離をはかりかねながら、一人ぽつねんと水溜りの中に両手と膝をつく榎本の写真を数枚ほど撮影した。

 でもやっぱり笑顔が隠しきれていない。


「悔しがることはないと思う。調子に乗って失敗しちゃう榎本さんが一番かわいいよ」


 心の中で思うにとどめておくつもりが、うっかり口を滑らせてしまう。


「……もう、バカ」


 褒めたつもりなのに拗ねたのかなんなのか、それを聞いた榎本はそっぽを向いて口を尖らせてしまった。そういう仕草までが、いちいち可愛らしい。

 だから俺は堪えきれなくなって、こうなったら思っていることを彼女に言ってしまえと、積極的に口をどんどん滑らせる。


「俺はさ、バカならバカなりに変わろうと思うんだ」


「……どういうこと?」


 こちらに顔を向けた榎本は期待半分、不安半分といった様子だ。


「ひとまず俺、これから卒業までに新しい恋愛小説を書き上げるよ。適当にやるんじゃない、真剣に取り組んだ本気のものを書きたいんだ。そして、だから、それが完成したら榎本さんには最初に読んでほしい」


「えーっと、私が最初に読んでもいいの?」


 いじらしくもじもじと、けれど嬉しそうに彼女は問う。俺は照れて苦笑した。

 調子に乗るだろうから榎本には言ってやらないが、むしろそのために書くつもりなのだ。俺の初めての恋愛小説を唯一褒めてくれた榎本のために書こうと決心したのだ。


「なにしろ俺の恋愛小説は痛々しいって評判だったんだぜ。クラスの誰も受け付けないほどに強烈だったんだ。いやだと言ったって読ませてあげるよ。……やっぱり相談役としては、最高の愛情で榎本さんをいじめたいからね」


「最高の……え、今なんて言ったの?」


 さぁと肩をすくめた俺は半ば彼女を無視して、部分的に晴れ上がった空を振り仰いだ。


「あ、ほら、向こうに虹が出てる!」


「虹?」


 顔を上げた榎本の視線の先には、空を飾って七色に光り輝くアーチがある。湿り気をはらんだ大気の芸術作品だ。

 二人で虹を眺めていると、バスタオルを抱えた姉さんが飛び出してきた。榎本が水溜りで転んだと聞いて、心配して持ってきてくれたのだろう。

 一目散に駆け寄って、濡れたままの榎本にバスタオルを渡した姉さん。

 その姉さんの手に、一瞬だけ迷ったが、意を決した俺はカメラを渡して、ついでだからと俺と榎本の二人を撮ってくれるように頼んだ。


「……あ、こういう写真のほうが私は嬉しいのかも」


「榎本さん、これは普通に笑顔でいいからね」


「えー、普通って逆に難しい。照れるくらいは許して」


 鮮やかな濃淡を描く大きな虹をバックに、ぴったり肩を並べる二人のツーショット写真。

 思えば、こうして榎本と二人きりで写真に映るのは初めてのことだ。隠しきれない緊張と恥ずかしさが胸に溢れる。俺も自然な笑顔ができているだろうか?


 ――なぁ赤松よ、この前は新しいアルバムを買っておけとの助言をありがとう。


 早速だが、高校生活で初めての“アルバムに隠すべき写真”ができたぜ。

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