15 一番の気持ち
それからまた数日後、いつものように俺の家にて実践文芸サークルの会合が開かれた。顧問を引き受けてくれている姉さんは四人の来客をもてなしたあと、今日は一人で勉強するからと自室に引きこもってしまったが、それ以外のメンバーは全員ばっちりサークル活動に参加中である。
たかが雑談に律儀なものだ。
「恥とその克服! それこそ文学のテーマだと思わないっ?」
勢い余ってソファから立ち上がって聴衆に問いかけたのは、他でもない榎本である。
何かを主張するときはいつだって元気だ。少しでも多くの理解や共感を得ようと張り切っているのだろう。
「恥とその克服?」
赤松が顔をにやつかせる。
「具体的には?」
オーイエス、待ってましたと言わんばかりに胸を張る榎本。
堂々たる仁王立ちだ。
「ずばり、うっかり転んで恥をかきたいの。それって小さな挫折。ね? それを誰かに見られて、恥をかいて、乗り越えて、少しだけ人間的に成長するの」
そしてこれが何よりも大事なことだと彼女は付け加える。
「わざとじゃ自分でも冷めちゃうものね。うっかりじゃなきゃ。そうでしょ?」
そうでしょ? ということは同意を求めているつもりらしい。
俺を含めて他の三人もはっきりとは頷かないが、彼女は気にしない。
「あの“しまった!”って感覚が必要不可欠だもん。笑われてる……って感覚が快感なの。恥ずかしくて自分の顔がカーっと熱くなるのが、とっても刺激的で気持ちいいのね」
「榎本さん的にはね」
すかさず俺が補足すると、くすくすっと峰岸さんが笑う。そうそうその感じ、などと喜んでいるのは笑われている榎本である。ほらほらもっと笑って頂戴と、榎本がおどけた調子で峰岸さんに目配せすると、くすくす、うふふと彼女はますます楽しそうに笑い始める。
ところで榎本はわかりやすく調子に乗っているのだが、これにはノリに乗っている彼女なりの理由がある。それもこれも全部、ここにいる全員が榎本にマゾ傾向があることと、いじられたがりの欲求不満状態であるということに気が付いていて、もはや積極的に隠す必要もなくなったからだ。
榎本はいじられたがりで欲求不満な女の子。
ここでは不文律の常識となっている。
「なんだか加奈はどんな厳しい苦境に当たっても楽しく乗り越えちゃいそうね。私には無理よ、それ」
親しみを込めて皮肉らしいものを言ったのは美馬だ。彼女はここ最近テンションが低い。テンションが低いと言っても、もともとクールだからわかりにくいが。
もし本当に落ち込んでいるのなら間違いなく俺のせいであるので、迂闊な発言は何も出来ない。
ちなみに美馬からの「好きなのに!」発言は数日後に彼女の方から撤回されたので、俺と赤松は何も聞かなかったことになっている。美馬いわく、あれは榎本との関係で悩んでいた俺の背中を押すためについた嘘だったということで、本人がそう力説するので俺は黙るしかない。ギリギリBの件と同じである。
「そうだね。どんな苦境でも乗り越えていける気がするから大丈夫。一部の例外を除いては、ね」
我関せずといった態度で俺が黙っていると、そう答えた榎本はなにやら意味深な目つきで俺に向かって流し目を送ってくる。
まるで俺が彼女にとっての一部の例外そのものみたいな。
「その一部の例外ってやつだけには同感ね。一緒に戦いましょ」
そう言って榎本の手を引いて自分の隣に座らせると、ほらほらあいつと言いながら彼女と一緒になって俺をにらんでくる美馬。
どちらにも迷惑をかけた実感がある俺なので、ここは甘んじて受けるしかない。
「私も一緒に戦わせてください! 榎本さんから男を駆逐するこの戦いに!」
しなくてもいいのに、何故か峰岸さんまで加勢する。しかも勝手に敵を男に決め込んでいるようだ。並んで座っていた榎本と美馬の間に割って入り、狭いスペースに無理矢理腰を下ろす彼女。両脇に花を抱いた峰岸さんは、この世の春とばかりに幸せそうだ。
この子もいつかボロを出すだろうな、絶対。
「と、とにかく本題に戻らせてもらうとね」
うっとり惚気顔の峰岸さんに腕をつかまれた榎本は困惑しつつも、当初の主張を取り下げはしない。
「うっかり転んでしまう……というのはつまり、己の失敗と浅はかさを悔しがって反省するときにこそ、克己心は強く打ち出されるってことを言いたいのね」
「よく考えたな」
とは赤松。どうやら感心しているらしい。
「昨夜にそこの乙終君がね!」
ばらさないでほしい。俺はアドバイザーとして榎本の相談に答えただけなのに、なんだか俺まで欲求不満娘の仲間みたいで恥ずかしい。
ところが榎本はためらいなどどこ吹く風。
「ずさーって豪快にいきたいな。できれば顔から。でも痛いから怪我はしたくないのね。どうしたらいい?」
で、やはりこういうとき真っ先に頼るのは俺らしい。
相談役になってしまったので仕方ないが、アドバイスを求めているらしい榎本が期待の眼差しで見つめてくる。
「怪我をしたくないなら転んでもいい安全な場所で転ぶしかないね。ベッドの上とか、砂浜とか、雪原とか……。この中でいえば、ベッドの上でなら俺も手伝ってあげられるけど」
「だけど目立つ場所じゃないと恥はかけないもの。そうだ、重力が六分の一の月面とかは?」
「うっかり転ぶだけのために月まで行けるならね」
まずお金が足りないな。絶対にスポンサーはつかないだろうし。
羞恥心を刺激して気持ちよくなりたいという榎本のマゾ的な檜舞台をいかにして作るべきか資金面のやりくりを考えていると、いい案が思いついたらしく、微妙にテンションの高い赤松が嬉しそうに手を叩く。
「だったらワイヤーアクションはどうだろう? みんなで榎本にワイヤーをくくりつけてやってさ、うまく引っ張って怪我をしない程度に転ばせてやるんだ」
「あらまぁ、その案でいくと私は全身を縄で縛られちゃうの? それって素敵!」
お姫様に憧れる女の子みたいに目を輝かせているが、それで本当にいいのか榎本よ。呆れて苦笑しつつではあるが、峰岸さんだけでなく美馬も心配している。この子は自分の貞操をちゃんと守れるのかしら。いつかとんでもない無茶をして、壊れてしまいそうなくらい危なっかしい。
不安なので、今後は俺の目が届く範囲だけで快感を求めてほしいものだ。
小動物の世話係ではないが、彼女の相談役としての使命感がふつふつとわいてきた。彼女を幸せにしたい。
「いやそれはやめておこう。体にも心にも危険性がない計画を立てるべきだね」
「半分賛成で半分反対ね。つまり自分でも決めかねてる。好奇心は猫をも殺すっていうけれど、臆病さは成長を止めるものだし。刺激はいつだってギリギリのところにあるのね」
「ギリギリを攻める必要はある?」
「……あると言ったら、駄目?」
またこれだ。この甘えてお願いしてくる感じ。
どうしてもって、ねだってくる榎本。
俺は理性的な対応を考えに考えて、考え抜いたくせに結局は折れてしまう。
「駄目と言ったって榎本さんは聞かないからね。そんなら仕方がないさ。こうなったら俺も腹をくくってギリギリの快感を得られるように尽力するよ」
「やったぁ! さっすが乙終君! 伊達じゃないよね! ダーティーだ!」
浮かれた榎本は隣の峰岸さんを巻き込んではしゃぎ始める。どさくさにまぎれて峰岸さんは榎本に抱きついていた。かしましガールな彼女たちとは温度差があるらしく、昔からクールを気取っている美馬と赤松は遠巻きに見守るのみだ。
俺はサークルの部長として一喝する。
「ただし、榎本さん! 俺がいないところでは無茶をしないこと!」
「エッチ!」
榎本が身をよじって警戒する。
「ずっと一緒にいるつもりなのね!」
さては榎本よ、お前はずっと己の快楽のために無茶をし続けるつもりか。動機と目的は残念だが、その探究心だけは頼もしい。あえて例えるなら榎本は馬力のあるエンジンだが、肝心のハンドルさばきだけが残念だ。誰も予想し得ない地平の果てに突っ切っていってしまいそうである。
奈落ドライブへの道連れは最悪なので「お断りだ」と言おうとしたが、ここで俺より先に峰岸さんが忠告する。
「乙終君のことを信じていないわけじゃないですけど、男子がずっと一緒じゃ駄目ですよ。だから一緒にいるのは交代制にして、半分は私が相手してあげます!」
「峰岸さんが? 私の相手を?」
「もちろん私は夜の担当です! 頼まれれば泊り込んじゃいますよ!」
あちゃー、と彼女の言葉を聞いた俺は頭を抱えた。あまりに意気込んでいるものだから、何も知らない赤松と榎本はあっけに取られている。
飾ることを忘れつつある百合趣味の峰岸さんを前に、美馬だけは冷静で、
「マリカ、がっつきすぎると引かれるわよ」
と、すべてをわかったような顔でアドバイスするのだった。
「あらやだ、私ったら。うふふ……」
今さら取り繕ってももう遅い。なにが頼れるクラス委員長か。けれど榎本は彼女の言葉を冗談として受け止めたらしく、俺も泊まりたいとか言っている赤松もノリがいいので受け流した。
相談役になってしまった榎本の欲求不満のこととか、飾らない同盟を結んでいる峰岸さんのこととか、ただの幼なじみに過ぎないと思おうとしていた美馬との関係のこととか、今後もずるずると引きずってしまいそうな問題の数々を深刻に考えていた俺が馬鹿みたいだ。こうして顔をつき合わせて遊んでみれば、みんなそれぞれの悩みなんて忘れたみたいに馬鹿をやって騒いでいる。
これはきっと損得勘定を抜きにした友情の産物だ。
とにかくひたすらに楽しい時間で、それは全員が集まっていられるからこそのものだろう。
「もうなんだかクタクタだ。この続きはまた今度にじっくり話し合うことにして、今日のところは解散しようじゃないか」
言いながら俺は思う。
これからもこんな馬鹿をやって、たくさんの思い出を作っていきたいと。
サークルの会合が終わって女子三人を送り出してから、俺は最後に家を出ようとした赤松の肩を叩いた。
「なぁ赤松、お前はちょっと残れよ。二人で話したいことがある。今から俺の部屋に来てくれないか?」
「なんだよ、真面目な顔をして。お誘いか? ……何をするつもりだ?」
「だから話があるだけだ。警戒する必要はないぞ。罠も用意してない」
しぶる赤松を二階の自室に案内する。
とはいえ途中から好奇心のほうが勝ったのか、すたすたと軽快に歩き出した。
「さて……」
こうして自分で部屋まで呼んだからには、渋っていても仕方がない。
単刀直入に切り出すことにした。
「まずは報告がある。榎本とのことだ。もちろん俺のことでもある。お前には教えられる範囲で教えておくのがフェアだと思って」
そう前置きしてから、俺は榎本との間にあったことをかいつまんで報告した。
これからも彼女は俺と一緒に実践文芸サークルの一員であり続けてくれること。そして、そうなるに至ったいくつかのやり取り。
彼女が欲求不満であることと、その解消のための相談役に俺が就任したことは念のために黙っておいたが、これはすでに勘付かれていることだ。じかには触れない不文律。
しばらく俺の話をじっと聞いていて、もっとも赤松が興味を示したのは、噴水前での話だった。
「そこまで彼女に言われておいて、お前は何も感じないのか? それってほとんど告白じゃないか。今まで通りに平気でいられるお前が不思議でならないぞ。いや、ちょっと怖いくらいだ」
「平気じゃないさ。彼女の言葉の意味は分かっているから、これでもちゃんと動揺しているんだ。ありのまま正直に言えば、彼女のことが好きだと答えて二人だけの世界に浸りたいとさえ思うこともある」
そこまで言っておいて、俺は静かに首を横に振る。
「だけど今はそのときじゃない。彼女がどうだとか、そういうことじゃないんだ。自分でも結論を探している途中だからな。恋人になりたいのか、友達のままでいたいのか、まずは自分の中で答えを見つけないと不義理だ。それに、なにも恋愛だけが青春じゃないはずだろ?」
「同じ男として同意するのは寂しいが、むかつくくらいに正しい一つの意見だな。否定しがたい正論だ。でもお前は卑怯だよ。相手には言わせるだけ言わせておいて、自分ははぐらかす。それだから美馬は……泣いたんだぜ。お前がはっきりとしないから。そうやって可能性を残してしまうから」
可能性。
ここで赤松が言っているのは、おそらく美馬と俺が付き合う可能性についてだ。
それを俺は否定することができない。
肯定することも否定することもせず、ゆらゆらと心地よい距離感に身をゆだねているだけ。そうしていると気分がいいから。我ながら最低だな。
「確かに俺は卑怯かもしれない。けれど、なぁ赤松、こうやって恋愛の問題を先送りにする選択肢も、俺には間違いだとは思えないよ。みんなとは友達のまま仲間として好き合って、一緒に楽しい思い出を作りたいんだ。誰も失いたくないし、何も壊したくないから」
「いつか後悔するかもしれないぜ。そんな半端な気持ちじゃ」
「わかってる。わかっていても……難しいことだよ。誰か一人を他の誰よりも好きになって、それを絶対に変わらない永遠の愛だと認めてしまうのは。他の可能性を打ち消してしまうのは」
「……他の可能性?」
これに対して明確に答えるべきかどうか俺は少しばかり迷って、迷っている自分の頬を叩いて鼓舞する。
親友にまで隠していては前進できないと。逃げ出してばかりでは駄目だと。
なんでもないことのように俺は切り出した。
「こうして部屋まで連れてきたのには理由があってな。実はお前に見てほしいものがあるんだ」
「ほほう、俺に見てほしいものって何だ? もしかして体に関するコンプレックスでもあるのか? 変なところにホクロがあるとか」
これからいったい何を見せられるのかと、びびッているわけでもあるまいに赤松は警戒しているようだ。逆の立場なら俺も警戒していたかもしれないので、文句は言えない。
「そういうんじゃない。もっと恥ずかしいものだ。あるいはお前を怒らせるかも」
「ふーん。まぁ、とにかく見せてみろよ。何はともあれ、実際に見てみないことには反応のしようもない」
「だな。ただし、絶対に他の誰にも言うんじゃないぞ。お前のことを親友であると信頼して、初めて他人に見せるものだから」
「わかってるって」
ひとまず赤松が首肯したことを確認して、俺は本棚の裏側に挟んで隠しておいたものを取り出す。
とても薄い一冊の本。小説ではなくアルバムである。秘蔵のアルバムだ。
「そんなところに隠していたアルバムねぇ。どんな写真が並んでいるやら」
「どれも大切な写真だよ。俺にとってはね。こうして他のアルバムから選り分けて、誰の目にも付かないよう隠しておきたいくらいには」
そして俺は赤松に見せ付けるようにして表紙をめくる。
続けて一枚目のページをめくる。反応を待たず、次々と最後までめくっていく。
アルバムだもの、当然どのページにも写真が貼り付けてある。
ずらりと並ぶ大量の写真。撮られたのは俺が小学生だったころのものだ。
俺と美馬とのツーショット写真。あるいは美馬だけが映っていて、それを彼女が俺にくれた写真。夏祭りがあった日に撮った浴衣姿のものや、いろんな種類の私服でポーズを決めているもの、水着を着ている海やプールでの写真もある。
「これは……?」
アルバムを受け取った赤松の声は震えている。よく見ると指先もだ。
それほど赤松にとっては衝撃を受ける秘密のアルバムだったのだろう。
「……実を言うと俺もお前と同じでさ、昔は美馬のことが好きだったんだよ。いわゆる初恋の相手というわけで。こっそりとこんなことをやって、悶々と暮らしていたわけだ」
小学生のころの話だ。当時、いつも一緒にいた幼なじみの俺たち。赤松の都合が悪ければ美馬と二人きりで遊ぶことも多く、そんな中で、いつの間にか俺は美馬のことを好きな相手として意識するようになっていた。
それが、初恋。
初めての恋だと信じているもの。
「だ、だったら!」
何かを言いかけようとして赤松の動きが止まる。糾弾するつもりだったのかもしれない。その逆だったのかも。
だけど赤松は自分でも何を言うべきか決めかねているらしい。
まぁ最後まで聞いてくれ。俺は赤松をなだめた。まだ話は終わっていない。
「美馬とは別の中学校に行くことになって、小学校を卒業するとき、俺は彼女に言われたよ。告白まがいのことを。だけど当時の俺は美馬のことが好きだったくせに素直にはなれなくて、はぐらかしてしまったんだ。ありがとうとも、ごめんとも言わず、たださよならだけを伝えて逃げた」
「どうして逃げた?」
「恥ずかしかったし怖かったから。それに、個人的に新しい生活に不安があって、その不安に美馬を巻き込みたくなかったから。……全部自分の都合だな」
「そうだったのか……。マジでか……。うそだろ……」
ぶつぶつと恨み言らしいものを呟きながら考え込んでしまう赤松。美馬のことが好きだからか、昔のこととはいえ落ち込みつつもある。
とりあえず今は話を先に進めてしまおう。
「赤松、中学校の文化祭で俺が恋愛小説を書いたって話は聞いたよな?」
「ああ聞いたぜ。いつか読ませろよ」
「断じていやだね。ところでその小説のヒロイン、美馬と姉さんがモデルだったんだぜ。俺にとって女性の理想像だった二人をモデルにしたんだ。そうやって憧れとか、依存とか、ずっと隠していた想いを小説の形でぶちまけたのさ。そりゃあもう痛い中学生だったからな。すごく気持ち悪い文章だったろうよ」
「へっ。ますます読んでみたいね」
「やめとけ。ろくでもない小説だ。実際、当時はものすごく馬鹿にされた。自分の意志で書いたものだから、俺は批判だろうが受け入れるしかなかった。
……けれど、作中のヒロインが気色悪いと言われたときには恐怖で鳥肌が立ったね。まるでモデルにした美馬や姉さんが否定されたような気がして。俺が好きになってしまったがゆえに、大切なものを傷つけてしまったのではないかって」
「……そいつらの真意は知らないが、お前も考えすぎじゃね?」
「今なら俺もそう思う。でもあのころは孤立無援で俺も幼稚だった。学校に居場所がなくなるにつれ、いつしか俺が書いた恋愛小説のみならず、俺の恋愛感情までが気持ち悪いものだと馬鹿にされて、それを俺も受け入れ始めていた。要するにさ、俺は誰も好きになっちゃいけないって自分に言い聞かせたんだ。中学二年生だったからな。今にして思えば、俺って傷つきやすかったんだと思うよ」
「……そのとき美馬のことは?」
「好きでいることが申し訳なくなった。罪悪感だな。だから考えないようにした。恋愛のことは何も考えないようにって。だから、たぶん、好きでなくなったわけじゃない」
「だったら今も本当は美馬のことが好きなのか?」
少しだけ頷いて、少しだけ首を横に振る。
今でも変わらず好きだけど、一番好きだとは言いかねて。
「……榎本と、出会ったんだ。中学三年になったとき、同じクラスで、たまたま席が近くて。俺の恋愛小説を読んでくれていて、しかも、それを好きだと言ってくれたんだ。一人ぼっちだった俺に、わざわざ声を掛けてくれて、一緒にいるようになってくれて、たった一人の友達になってくれた。同じ高校に行くとわかったときには、手をとって喜んでくれて。最初のころは誰も信じられなくて無愛想だった俺なのに、嫌うどころか優しくしてくれて。そっけなく冷たく当たっていたこともあるのに、いつも笑って俺の心配ばかりしてくれた。榎本は、だから優しいんだ。優しくて、だから俺は、たぶん彼女のことが……」
うんうんと頷きながら、話の邪魔をせずに赤松はじっと俺の目を見ている。
答えを待っているのだ。俺の本音を知りたがっている。
「大好きなんだよ、俺は。榎本のことが」
頬が熱い。胸がドキドキする。初めて明確に口にしてしまったことだ。
「ようやく言ったな。だけど見てればわかるよ、それは」
そういえば俺は感情が顔に出やすいらしかったな。だとすれば美馬や峰岸さんにもバレバレだったのかもしれない。知らぬは当人ばかりってことか。
「でもさ、この四月、久しぶりに美馬と再会して、やっぱりあいつのことも好きなんだって思った。どちらの方が好きかなんて、すぐには決められなかったぜ。馬鹿だよな。情けないよな。だけど今は、自分でも一番だと確信できる答えを出すことができないんだ」
「ちっとも?」
「うん、まぁ、そうだ。わからないんだよ。本当に。自分の気持ちが一つに定まらない。揺れて、ぼやけて、悩んでいるんだ。美馬のことも、榎本のことも、あるいは、峰岸さんのことまで好きになってしまいそうで……」
だから俺は、自分の中にある“好き”という感情を肯定することができない。
だから俺は彼女たちの”好き”という気持ちを素直に受け取る資格がない。
どうしたらいいのかもわからない。
「まったく思春期だからな。色ボケしがちな俺たちは若くて経験も少ないからな。誰が好きなのかって悩むのも当然だろ。心移りしそうになるのも無理ないさ」
そこまで言って、肩をすくめた赤松は笑顔で両手を広げる。
「だってみんないい奴なんだぜ。この世の女子は、みんな魅力的で素敵な人ばかりさ。だから誰かを好きになるのは簡単で、一度好きになった人を嫌いになるのは難しいことだろう。知り合った女性すべてにランクを付けるのは無粋だ。順位を付けるなんてもってのほかだ。そりゃ悩むしかないだろうよ、たった一人っていう運命の人を見つけたいんなら」
運命の人、か。赤松もなかなかロマンチストなことを言う。
けれど運命を待っているだけじゃ駄目なのだろう。俺たちはもう高校生なのだ。そろそろ自分の足で踏み出して行かなければならない。自分だけの未来を手に入れるために。
「それでも結論はいつかちゃんと出すよ。自分が誰を好きなのか、はっきりさせる。でも、これは大切なことだから、無理に急いで答えを出そうとはしないつもりだ。それは相手にも不義理だと思う。好きならば好きだと、絶対の自信を持って答えたいからな。これから三年かかってもいい。たとえ手遅れになったとしても。中途半端な気持ちだけは、自分でも許せないんだ」
中途半端な気持ち。そう、たぶん今の俺は、すべてにおいて中途半端なのだ。
だから一つ一つに決断を下していかなければならないのだろう。
しかし、だからといって性急ではいけない。急いては事を仕損じる。
なにしろ高校生活は始まったばかりだ。
一歩ずつでも、ちゃんと成長していければいい。
「当たり前だけど、お前もお前なりに考えてるんだな」
「わかってもらえて安心だ。もうあんまりバカバカ言うなよ?」
「だけど、バァーカ!」
「いきなり言いやがったよ!」
しばらくバカバカ連呼していた赤松だったが、馬鹿げたことをするのにも疲れてきたのか、急に口を閉じる。冷静になったらしい。
そして俺の秘蔵アルバムを指差した。
「そのアルバム。新しいのもいっぱい買っておけよ」
「……は?」
「これから増えるであろう、たくさんの思い出のためにさ。だって絶対に楽しくなるぜ。……ふん、さてさて、今後は誰の写真を隠すことになるんだろうな?」
「少なくともお前の写真じゃないってことだけは保証してやる」
「こっちから願い下げだぜ、バカッ!」
「ちょっと残念がってるじゃねぇか! 安心しろ、大事な親友との写真は隠さずに堂々と飾ってやるからな! ええい、帰れ帰れ!」
最後は尻を蹴飛ばすような勢いで追い払ってしまったが、まあ、これからのために新しいアルバムを買っておくべきだという意見には賛成だ。
きっと、いい写真が撮れるに違いない。
誰とでも、飛び切りの笑顔で。
その日の晩、峰岸さんから俺のスマホに大量のメッセージがあった。
やたらに長いので、ところどころ抜粋してみるとこうだ。
「美馬ちゃんね、私のこと心配してくれたの」
「クールなところ小山先輩に似てない?」
「隣に座っていた私の膝の上に手を置いてきたし」
「ずっと脚も触れ合ってた」
「私への笑顔に愛を感じたね」
「美馬ちゃんのことも好きになってきちゃったかも」
「というか大好き!」
「LOVE&キッス」
まさしく立て板に水だったが、長文を読まされた俺の反応はたった一言に集約された。
「おいおい」
榎本だけじゃなく美馬にもか。彼女も恋多き人間なのな。
共感しておいた。