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14 これからもずっとそばに

 何事にも優先すべき問題が一つある。

 例えば今の俺の場合なら、「いつ、どこで、どうやって相手に伝えるべきか」が最優先の課題である。一つじゃないな。でも全体としては一個の問題だ。

 しかしながら、どうだろう?

 それを考えすぎて悩むあまり、結果的にほとんど自発的な行動を取ることができなかった甲斐性なしの俺だ。ここは当たって砕けるのを覚悟する局面であり、向こう見ずな積極性を歓迎するべきだろう。

 変わり映えのしない午前中の授業には気をもまされたが、それも四時間の辛抱。ようやく待ちに待った昼休みが到来した。

 えっちらおっちら教科書などを机にしまっていると、あちらでは彼女がすでに扉に手をかけていて、そそくさと教室を出て行こうとする。授業を終えて職員室に帰ろうとする先生よりも早い。これが放課後で帰宅部ならエースだ。

 このままでは見失うと慌てた俺は立ち上がり、つんのめって声を張り上げた。


「榎本さん!」


 誰に呼ばれたのかわからなかったのだろう。扉の前で足を止めた彼女はきょとんとした顔で振り返る。

 想像以上に声が大きく響いてしまったせいで教室にいる他の人間の視線まで集めてしまった気がしてならないが、そんなものは跳ね返してでも、今の俺が見詰める先は榎本だけだ。

 彼女は自分を呼び止めたのが俺だということに気が付くと顔をうつむけた。ほのかに顔が赤らんでいる。耳などは真っ赤だ。

 授業終わりの教室で俺に大声で名前を呼ばれたためか、一時的であれ注目を浴びてしまって恥ずかしがっているのかもしれない。

 構われたがりのマゾっ娘は内心ぞくぞくと喜ぶ……とかだったら嬉しいと思えてしまうのは、大概俺も彼女に毒されている気がしてならない。

 俺はカバンから弁当を取り出して、もじもじと立ち尽くす榎本のもとへ駆け寄った。


「どこか二人で一緒に食べよう」


 まるで安っぽいナンパみたいだな。しかし気持ちは真面目で本気で真剣だ。


「……二人で?」


「もちろん二人きりで」


 やや斜めに見上げた榎本は前髪の隙間から上目遣いに俺を見る。俺の顔色を見て榎本を誘った意図を汲み取ろうというのか。

 となれば、もしかして断られてしまう可能性もある?

 やにわに俺は緊張した。え、あ、うー、などと目を泳がせ始めた榎本も、自分の小さい楕円形の弁当箱を胸に抱きしめている。

 緊張しているというか、もはや警戒されている。

 しかし、いつまでも扉の前で向き合ったままでいると邪魔になる。クラスメイトに邪険にされては今後の学校生活が窮屈だ。じゃれあってばかりもいられない。


「とにかく俺は行くよ。一緒に食べてもいいって思うならついてきて」


 いくら時間に余裕のある昼休みとはいえ、無駄な時間は無駄である。どうせなら最初から最後まで有意義に使いたい。恋人同士ならば無言で見つめあう時間も幸福な思い出として胸に刻むことができるのだろうが、それは邪魔にならない二人だけの世界でやるべきであり、公共の場では控えるべきものだ。

 世間のバカップルに不平を漏らしつつ教室を出た俺は長い廊下を歩く。

 さて彼女はどうするのだろうかと期待半分に歩調を緩めてみると、どんな表情をしているのやら、黙ったままではあるものの、榎本はとっとこ足音を立ててついてきた。足音にも感情があるとすれば、少なくとも好意的。

 なんだか嬉しかった。胸が高鳴るくらいには。







 そういえば目的地が決まっていなかった。弁当を食べるならどこでもよさそうなものだが、できれば静かで落ち着いた場所がいい。だったら屋上にでも行ってみるかな、今日は天気もいいことだし――と考え付いた瞬間、馬鹿と煙は高いところが好きという言葉を思い出して、それは嫌だなと途中まで上っていた階段を下りることにした。

 くるりとターン。文字通りの踊り場である。

 何を勘違いしたのか、榎本は俺に対抗するようにリズムよくタップを踏んだ。そんなんじゃないよ。

 とっとっとっと階段を、一段飛ばしで下の下まで一階に。

 しばし思考して、ひとまず靴を履いて外に出る。さらに思案して、俺はようやく落ち着く場所を見つけ出した。積極的に見つけたというよりは、消極的に妥協したともいえよう。

 体育館の裏である。世が世なら、果たし状で指定する決闘の場にもなるほど目立たない場所であり、当然ながら人気はない。

 念のために周囲を見回したって、目に付くのは虫くらいだ。

 座る場所は適当な段差があったからそこにした。


「乙終君と二人きりで弁当なんて初めてだね。中学生のころは給食だったから」


「それに、こんな場所に来ることもなかった。かくれんぼのとき以外はね」


「……あ、私をずっと隠しちゃうつもりだ! こんなところにエッチ!」


「そんなわけないじゃないか。目を輝かせないでよ。ひとまず弁当でも食べよう」


 そう言って包みを開いたが、気が変わった。


「待て」


 しつけた犬に向かって言うみたいに指示を出してみたら、榎本は本当に待った。手に箸をつかんだまま、小さく口を開けたまま、ちょこんと首をかしげて待った。

 今もまだ俺は彼女の相談役だからな。いじられたがりな欲求不満の解消を久しぶりに手伝ってあげたい。

 折角こうして二人きりになれたのだ。人目を気にせずやれることを。

 しかしまさか、箸を使わず犬みたいに口だけを使って弁当を食えなんて、年頃の女の子に向かって言えるわけがない。ただし俺に言われれば喜んで実行するであろう榎本の姿を容易に想像できてしまうのは、なにも俺の想像力が豊かだからというだけではあるまい。

 ここは何か、ちょうどいい具合の快感を与えてあげたい。何をすれば彼女は喜んでくれるだろうか。何でも喜んでくれそうなのが一周回って難しい。

 じっと待っている榎本は我慢ならないと言いたげに頬を膨らませる。

 にじり寄ってきそうな勢いだ。

 ええいままよと、俺は慌てて指示を出す。


「まずは目を閉じて。それから手は後ろで組んで」


「こ、こう?」


「うん。今度は弁当と箸を俺に渡して。……ありがとう。じゃあ、次は少しあごをあげて」


「こんな感じ?」


「そうそう、そんな感じ」


 角度は完璧だ。ひそかに練習していたんじゃないかってぐらいに理想的。


「これから榎本さんには俺のペースで弁当を食べさせてあげるから、おとなしく俺に従ってね。もちろん途中で目を開けちゃ駄目だよ。それじゃ、はい、あーん」


「あ、あーん」


 自分の手を使うことができず、目も閉じている。そんな状況で恐る恐る口を開けた榎本に、俺は彼女から受け取った箸でつかんだ卵焼きを食べさせた。

 もちろんそれは食べやすいようにと小さく切った一口サイズ。

 もぐもぐと咀嚼して、ごくりと飲み込む榎本。

 次はなんだろう、お米かな。こぼれないように少しずつ。じれったいくらいに。

 から揚げ、ウインナー、ミニトマト……。

 はい、はい、はいと、弁当のおかずを一口ずつ頬張らせる。


「もっと……、もっといっぱいちょうだい……」


「こぼれちゃわない?」


 なされるがままの状態となっている彼女のことを心配して言ってみると、一瞬だけ頬を膨らませた榎本は不服だと言わんばかりの表情だ。

 おどけているのか本気なのか、ちょっとわからないテンションで自論を述べる。


「あのね乙終君、こういうシチュエーションなら無理矢理に詰め込まれちゃうのがいいのね。非日常感がたっぷりの刺激を楽しめるのが最高なの。飼い主とペットとか、ご主人様と奴隷みたいな、かなり強めの主従関係を楽しめる演劇的なプレイだし。折角だから、なされるがままを味わいたいの。弁当だけにね。そして今みたいに心配してくれるのが嬉しい」


 きつく目を閉じて後ろ手に組んでいるのに、どこから湧いてくるのか自信たっぷりに胸をそらす。常日頃から妄想にも余念がないのか、こういうことには一家言あるらしい。


「……だから、もっと強引に押し込んでくれたっていいのに。遠慮しないでほしいのに。こうなったからには私、なにがなんでも必死になって受け入れちゃうよ」


「手ぬるい?」


「そのぬるさが優しさなんだろうなぁとは思うけれど。求めちゃいがちな欲求不満の私から言わせてもらえば、もっと激しく」


「……だったら逆にもっと優しくしてあげるよ」


「あん、いじわるぅ!」


 とか言いつつ嬉しそうだ。

 不満げなのはあくまでポーズ。そのほうが興奮するから。榎本の誘い受け。


「はい、これで終わりだよ」


 本音を言えばもうちょっと榎本と遊んでいたかったが、もう食べさせるものがなくなった。小さな弁当箱は食べ終わるのも早い。

 もっとゆっくりやればよかった。

 しかし、ちゃんと食べたはずなのに榎本はまだ求める顔をする。

 幸せそうにトロンと半分くらい目を閉じたまま、自分の唇をぺろりと舌でなめて、ねだってくるのだ。


「だめ。体が火照ってきちゃったみたい。……私、このまま乙終君のも食べたい」


「……え?」


「ちょうだい」


「仕方ないなぁ……」


 まっすぐな瞳で微笑みかけられると、もうこちらからは意地悪な意地悪ができない。いつの間にか主導権を握られて、彼女が望むままを叶えてあげたくなる。

 それが榎本の言うマゾ娘なりのダメージコントロールなのかどうかは別として、やっぱり可愛いなぁと俺は思った。

 それから何度となく胸をどきどきさせながら榎本に食べさせてあげていると、いつの間にか俺の弁当もほとんど空になっていた。これでは俺の食べる分がなくなってしまった気がしてならないが、喜んでくれたみたいなのでよしとしよう。


「おいしかった。食欲と性欲が同時に……じゃなくって、食欲とマゾ欲がほどよく満たされて、普通に食べるより二倍おいしいよ。ありがとう乙終君」


 どうやら彼女にとって、マゾ的な欲求が満たされるのは性欲を満たすのと同義らしい。だとすると、俺たち年頃の男子がエロ本を見たがるのと同等のレベルでいじられたいということか。だったらその欲求が尽きる日はなさそうだが大丈夫か。

 榎本だけが特別なのかもしれないが、意外と女子も難儀なものだな。


「あとは寝ちゃえば三大欲求も制覇だね」


 ふざけて言ってみると、榎本はにっこり頷いた。


「うん。午後の授業は居眠りで決まり!」


 しかし、こんな簡単に餌付けされてしまうのは女性として危ない気もする。

 普通に榎本の将来が心配である。ちゃんとした大人になれるのだろうか。もしもの場合は峰岸さんがもらってくれそうだけど。

 弁当を食べ上げてしまうと、二人そろってやることがなくなる。


「……もう教室に戻る?」


 まだ戻りたくないのか、聞いてくる榎本は不安げに見える。

 そしてそれは俺も同じだ。


「いや、実は榎本さんに話があって。それで弁当に誘ったんだ。聞いてくれる?」


「聞きたいか聞きたくないかでいえば、乙終君に自白剤を使ってでも聞き出したいけれど、そこは嫌がる私に無理矢理にでも言って聞かせて。……じゃ、今から逃げ出す振りをするから、追いかけて私の手首をつかんで引っ張り寄せてね」


 と言って、本当に立ち上がると演技とは思えない素早さで走って逃げ始めた。

 脱兎のごとく駿馬のごとく。カモシカのようにしなやかな健脚で。

 いやそれはもう本気だろう。

 食後に走ると体に悪いはずなのに、こういうときの榎本は容赦がない。一度そうと決めてしまえば迷いもない。

 こうなったらこっちも全力だ。逃がしてたまるか。


「しっかし速いなぁ! 俺が遅いっていうのもあるけど!」


 中学時代は文芸部、これまで運動系の部活とは縁がなかった俺のことだ。どれだけ本気を出そうとも走るのは遅い。

 不意を打たれてスタートダッシュに乗り遅れたためか、全力で追いかけているつもりが見る見るうちに距離を離されてしまう。次第に榎本の姿も見失いがちになって、どこに行ったのか残り香さえわからなくなる。

 途中からはもう勘と運を頼りに走った。

 いくつものショートカットや抜け道や先回りを駆使して、やっとのことで榎本に追いついたころには、もう足がくたくただった。朗報としては向こうも疲れ始めていたため、ここが頑張りどころだと見定めた俺は最後の全力を出した。

 ゴール地点となった場所は、いかにもとって付けたような感のある小さな噴水の前だった。ほとんど水枯れを起こしそうなほどの弱々しい水の流れしかなく、肝心の水は泥で茶色に濁っている寂れたモニュメントだが、これでも一応は校舎の一角をおしゃれに彩っている。

 嘘か真か、はたまた虚実入り混じった伝説か、入学式からこっち、この噴水前で告白した生徒は十人以上にのぼるという。残念ながら成功率はすがるほど高くないらしいが。

 そんな噴水前広場(といっても狭い場所)でなんとか榎本に追いついた俺は、ほとんど倒れそうなくらい前のめりになって手を伸ばす。かろうじて届いた。ぎりぎりで指先が触れる。残る気力を振り絞ってさらなる一歩を踏み出し、ようやくその細い手首を握り締めた。

 それでも振り切って逃げようとする榎本。

 あがき、もがき、なおも走り出そうとする。

 こちらは息も絶え絶え、すでに体力はない。

 今ここで叫べるとすれば、たった一言だけだった。


「必要だから!」


 今度こそ確実に届いた。その証拠に榎本は逃げ出そうとする動きを止めた。

 ぐっと力を込めて引き寄せる。後ろから彼女の肩に手をかける。

 このままやわらかく抱きしめたくなる衝動を抑えて、ゆっくりと息を整えた俺はまだ振り返らない榎本に語りかける。


「榎本さんのことが必要だって気付いたんだ」


 実践文芸サークルのメンバーとして?

 いや、違う。もっと近くにいてほしい。

 つまり彼女が必要なのは、俺の毎日に、だ。


「だから逃げないでくれ。どこにも行かないでくれ。隣にいてほしいんだ」


 きっぱりと言い切ってしまってから、俺は言ってしまったことの恥ずかしさに顔どころか全身を熱くした。

 心臓がドキドキと激しく脈打つ。手が震える。死んでしまいそうだ。

 しばらく待っていると、言葉より先に榎本の肩が震え始める。


「私のほうがずっと必要だもん。乙終君のこと、やっぱり必要だったもん」


 声を絞り出しつつ、全身の震えを押さえつけるように深呼吸をした榎本は、それからこちらに目を向けた。

 堂々と、臆病に、怖がりなくせに自信家で、それらすべてのアンビバレンスな感情を抱え込んで。


「恋しくて、寂しくて、死んじゃうかと思った。欲求不満の比じゃないくらい悶絶しちゃって、死にそうだった。ここ数日、一人でいるとき、正直たまらなかった」


「……俺は」


「まだ言わないで」


 お願いされて、俺は口をつむぐしかなかった。


「高校生になって、夢を見すぎていたのかもしれない。同じくらいに不安も。現状維持でも幸せで、楽しくて、満足できるのにね。……私ね、今なら恋の駆け引きなんかよりも、ずっと価値のある関係を見つけ出せそうな気がするの。好きな人とはね、かけがえのない“仲間”でいられれば……」


 だから、と言って榎本は続ける。

 声を詰まらせそうになるくらい一生懸命になって。


「ずっと一緒にいてもいいかな? 好きだからとか、恋人だからとかじゃなくっても、ただ、とにかくずっと乙終君の隣にいてもいいかな? 今はただ、それだけでいいから……ね?」


 それは榎本の優しさであり強さだ。

 だって、そう言われてしまえば、俺はもう榎本から明確な答えを迫られることもない。

 自分の気持ちさえ素直に吐き出せない俺の弱さや卑怯ささえも、笑顔を浮かべて彼女は包み込んでくれようとしているのだ。

 それを誰よりも、下手をすると俺よりも知っているから。

 だから、これにだけはちゃんと答えなければならない。

 誠意をもって答えてあげなければ。


「うん、もちろん。一緒に高校生活を満喫しよう」


 それから俺は言った。


「榎本さん、ありがとう」


 こちらこそ――と言って、あどけなく破顔した榎本はイタズラっぽくウインク。


「覚悟しててね、乙終君。これからの私ってば、滅茶苦茶に相談しちゃうから!」


「望むところさ」


 何を望んで、何を望まれるのだろう。

 しかしそれだって、距離を置いていてはわからない。だからこれは進展なのだ。少なくとも前に向かっている。どれほど回りくどくたって。

 こうしてこの日から榎本は、実践文芸サークルの一員として活動を再開した。

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