13 美馬の本心
美馬と二人きりで会える場所。警戒せずに会ってくれる場所。
どこかに最適な場所はないだろうかと考えたものの、なかなか俺は思いつかなかった。話をするなら誰にも邪魔されたくないし、できることなら第三者に目撃されたくなかったため、ふさわしい場所が見つけられなかったのである。
いや、一つだけあった。
他でもない美馬の家である。押しかけるのだ。
何を隠そう、彼女は一人っ子なのである。
「あらま、ひょっとしてストーカー?」
「いや違うからね、だったらもっとこそこそやるよ! そそくさとスマホを取り出して警察に連絡しようとするのは冗談でもやめて!」
善は急げと放課後に家を訪ねてみれば、ものすごく迷惑そうな顔をされた。普通にショックだ。美馬とは幼なじみであるだけでなく、何でも言い合えるような親友だと思っていたのに。
アポなし、手土産なしだからといって、そんな冷たくしなくても。
「話があるから一人できてくれって、ついさっき赤松から伝言を受けたんだけど」
「あ、そう、それで」
と言ったきり、なにやら似合わぬ上品な思案顔を作る美馬。
赤松から伝言を受けたということは、赤松が美馬に告白したという件も俺がすでに承知しているのだと把握したのかもしれない。
「オッケー、オッチー。だったら入って」
招き入れるように扉を開け放ちつつ、挑発的な微笑を浮かべている。どこか赤松の姿に重なって見える。
美馬の部屋に入るのは小学生以来だ。しかも当時でさえ入室はたった数回くらいしか許されなかった。だからほとんど覚えていない。なので実質的には初めて入るのに近い感覚だ。敷居をまたぐときに軽く一礼をしてしまったのは、いささか卑屈になりすぎたかもしれぬ。
室内に満たされた甘く爽やかな空気に身体が勝手に反応して、全身がカチカチになるくらい緊張する。気心が知れた仲ではあるが、よりにもよって一対一なのだ。しかも相手のホームで俺のアウェー。そりゃ緊張も高まる。
もはやどこに座っていいのかもわからない。
このまま立っていればいいのか。どちら向きで?
「まずは落ち着きなさいよ。そわそわしちゃって、なんかみっともないわね」
ポイッと投げ渡されるみたいにクッションを差し出された。明るい水色で落ち着いた感じのデザインだ。
やわらかすぎず程よい硬さのそれを受け取って、とりあえず尻に敷いた。
「なんつーか、あんまり本がないな。漫画ばっかじゃん」
「うるさい」
「うわ、しかもベッドの上に着替え置いたまんまだぞ。エッチ!」
「うっさい!」
簡単に片付けるからあっち向いてろ……と、赤ら顔の美馬が騒いで三十秒。
ようやく平静に向かい合って座ることが出来た。
「いっそ俺が掃除してやろうか、この部屋?」
「……魅力的な提案ね、私が女子としてのプライドを捨てられるなら」
「ふーん、女子としてのプライドね。プライドとは別かもしれないけど、俺の記憶が確かなら、小学生のころは男子と一緒の部屋でも平気に着替えていたよな」
「バカね、もう子供じゃないの。ほら、心も体も育まれたのよ?」
と言って、これ見よがしに胸を強調する美馬。グラビアアイドルみたいなポーズをとって肉体的な成長をアピールしてくる。どうやら見てもいいらしい。
ふむ。
「ギリギリBだっけ? 俺は男だからバストサイズの基準なんてよくわからないんだが、本当にそうなのか?」
ただの幼馴染というか、ほとんど悪友と呼んでも差し支えのない遠慮のない関係なので、この手の話題にもずけずけと入っていけるのが俺たちだ。ジャブ程度なら軽度の下ネタも言い合える間柄なのである。
やりすぎると美馬は怒るが、それは当たり前だ。
今は時代が時代だし、二人きりじゃないときはセクハラ発言は絶対にしないようにしておこう。相手が受け入れてくれるからと言って、周りも一緒に理解してくれるとは限らず、モラルや節度がないと怒られてしまう。
「あのねえ、正確なバストサイズは別としても、服の上からでも大きさならわかるでしょうよ。ちゃんと育ってきてるでしょ? 膨らんでるの、わかる?」
とか言いながら自分の胸を触る美馬。全く俺の目を気にしていない。
モラルや節度がないと怒られろ。
いくら気心の知れた幼馴染とはいえ、高校生にもなると、さすがに恥ずかしさが出てくる感じもある。
興味は惹かれるものの俺はそれを直視せず、ちらりと見て答える。
「えーっと、そうかな? 服の上からだとサイズなんてよくわからないし、ごまかしもきくからなぁ……」
「ああ、もう! あんたが女だったら直々に触らせてやりたいものね。そしてBの貫禄にひれ伏させてやりたいわ」
「Bに貫禄ってあるのか? 失礼ながら相撲でいえば幕下力士……」
「ふっふっふ、これはもう夏が楽しみね。ビキニで勝負に出るしかないわ」
ビキニで勝負に出るって、まさかこいつは榎本や峰岸さんとスタイルで戦うつもりなのか。正直なところ美馬のビキニ姿は見てみたいので反応に困る。
無理をしないでも美馬には魅力がたくさんあると思うのだが、なぜそうまでして胸の大きさに意地を張るのだろう。女性はともかく男だって、戦う相手と条件は自分が有利になるよう選ぶものだ。
スタイルの良い高身長なイケメンが相手だったら、おそらく俺は絶対に外見では張り合わない。中身でも普通に負けそうだから悲しいけど。
「安心しろよ、美馬。男にとって大事なのはサイズじゃない。大きい方が男たちの注目は集めるのかもしれないけど、やっぱり誰の胸であるかが重要だよ」
第一印象の大部分を占める顔はさておき、胸から始まる恋はないと俺は思う。
大きい小さいの違いで一喜一憂するのは恋愛未満の劣情だ。そんな男を相手にする必要はない。むしろ蹴飛ばしてやれ。もちろん俺を蹴飛ばしてくれてもいい。
「幸い、お前には、さぁ……」
「何よ?」
「好きだと言ってくれる相手がいるんだろ?」
もちろん赤松のことだ。
なんとなく名前を出すのには抵抗があったが、いよいよ本日の核心に迫る。
あの赤松が告白して、それに対して美馬がどう答えたのか……。
「それって誰のこと?」
わかっているだろうに、あえて俺の口から言わせたいらしい。
「あ、赤松……」
反応が怖いので、片目をつぶって様子をうかがう。怒り出したりしないよな。
待っていると数秒の間がある。手に汗にじんだ。
「ええ、言ってくれたわ。あいつ、私のことが好きだって」
「……で、お前は?」
「何?」
「お前はどう答えた?」
俺からの疑問はそれだけだ。やる気のない宿題の解答を教えてもらっているくらいのテンションと、さりげなさを装って問いかけた。
足を横に崩して座っている美馬との距離は目測で一メートル未満。開いた窓から夕闇に沈む街の環境音が入ってくる程度に静かな部屋では小声でもよく通り、その息遣いと、下手をすれば心臓の鼓動音さえ筒抜けである。
どちらともなくゴクリと息を呑む音が響いた。気まずさに耐えかねて、不器用に視線が泳ぐ。どこにも逃げられないというのに。
「ちょっと外に歩きに出ない?」
「え?」
「バカね、外の空気を吸いながら続きを話しましょうってこと」
「う、うん」
せっせかと追い立てられるように背中を突っつかれ、彼女が言うまま俺は部屋を出て行くしかなくなる。
「ほら、オッチーは先に行ってて。私は着替えてから追いかける」
いったい何に着替えるつもりだ?
変身ヒーローでもあるまいしと不思議に思ったのだが、たぶん俺が学校の制服のままで来たから、今はラフな部屋着姿でいる美馬も制服に着替えてバランスを合わせるつもりだろう。あるいは単純に気分の問題かもしれない。
六月に入った夕暮れ時は、まだ梅雨になる前のためか涼しいといえば涼しい。
外に出てみると空には灰色の雲が流れ込んできており、雨は降らないまでも夕日さえ淡く弱々しく感じられる。
美馬の家があるのは閑静な住宅街とあって、すれ違う人影はまばらだ。同年代のしかも同じ高校の生徒に限れば、その姿を見つけるのにも苦労する。
だから屋外であろうが、第三者の目や耳を意識する必要はない。たとえ街灯に照らされた明るい歩道でも、今は隣を歩く美馬との二人だけの時間だ。
「オッチーは覚えてる? 小学生のころはよく二人で歩いたよね。こうして恋人みたいに」
「赤松は俺たちと違って歩くのが嫌いだったからな。ちょっとでも遠出するときは俺とお前の二人きりってことが多かったのは覚えてる。でも恋人みたいというよりは……」
「なによ、血のつながった兄妹みたいだったとでも言いたいの?」
「いや、親分と子分みたいな感じだっただろ。もちろんお前が親分な」
「……え、本気でそう思ってる?」
「少なくとも当時は少しだけ。俺じゃつりあわないだろうなって思ってた」
向こうから来た一台の車が通り過ぎるのを待って、ひんやりとした夜風が気持ちを静めてから、遠慮がちな仕草で美馬はこちらに顔を向けた。
「じゃあ、今はどう?」
俺と美馬が恋人みたいに見えるかどうか。
思えるかどうか。
「久しぶりに二人で歩いてみて、オッチーはどう感じる?」
こちらを試すように笑った顔は、端正さを崩さずクールなままに愛嬌があった。身にまとっている女子の制服が、薄暗くなっていく風景の中でも鮮やかに存在感を放っていた。
女の子だな。しかも、綺麗な女の子だ。
主観的な感想は好意的なものに落ち着く。俺は美馬に異性を感じていた。すると驚くほどに動揺と緊張が広がって、なんだか美馬の目を見ていられなくなる。
夜の闇より先の見えない心の迷宮に深く入り込んでしまう前にと、すかさず俺は逃げの一手を打った。
「そもそも恋人ってものがさ、俺にはどういうものなのかわからないんだ」
「誰かを好きになるって気持ちは?」
「わからない。……と、思う。今は自信がない」
また無粋に走って来るのは一台の車だ。窮屈な道で威圧的なまでにエンジン音を響かせつつ、一瞬目がくらむほどの激しいライトがすぐ脇を照らして通り過ぎる。
車道側にいた俺は、車を避けようと無意識に美馬へと身を寄せていた。ところが美馬の向こう側にはガードレールもなく、すぐ脇に段差があって、そこまで深くないとはいえ下は用水路になっていた。
そのことに足を踏み外しそうになってから気付くと、うっかり落ちてしまわないようにと思ってか、彼女は俺の袖をためらいがちにつかんだ。
夏服の半袖はつかみにくそうで、実際、美馬はすぐに手を離した。
その手をなんとなくつかんでしまったのは、たぶん、妙な童心を思い出してしまったからだろう。今よりずっと小さかった子供のころはよく、こんな風にちょっとでも危険な場所を歩くときは手を握ったものだから。
「私にはわかるよ。痛いくらい切実に、好きでたまらない気持ちが」
あまったほうの手で自分の胸を押さえながら、ふと優しい目をして美馬は言う。
「誰かさんのおかげでね」
それが誰なのかを、たぶん、今はまだ問わないほうがいい。
はっきりと俺の方から何かを言えないのなら、今は黙っているべきだ。
ささやかに握っていた手をどちらともなく離したのは、五分くらい進んだ先に待ち受けていた信号のない交差点でのこと。横断歩道の前で立ち止まった美馬は首を小さくかしげる。
「オッチーはさ、赤松からの告白を受けた私が、どう答えていてほしい?」
様々な想像をめぐらせた俺は、いったい何を願ったのだろう?
ためらいの結果として、やはり踏み込めない俺はここでも明言を避けた。
「……美馬自身が、幸せになれる答えを選んでいてほしい」
寂しげに「ふふっ」と笑った美馬は、見るからに肩を落として。
「だからあなたは……」
続ける言葉を選んで、「バカなのよ」と言った。
今までで一番、そう思えた。
しかし、それにしたって偶然の巡り合わせというものは恐ろしい。
「あっ」
「おお」
これは何かといえば、出会いがしらに出てしまった一言ずつの挨拶だ。
「あら赤松じゃない」
動揺する男二人を尻目にクールな美馬だけは平常心。まるで落ち着きのない小型犬を軽くあしらう手馴れた飼い主だ。でもしっかり者の美馬になら、鎖につながれたペットとして飼われても安心できる。ちゃんと世話してくれそうだからな。
それはともかくとして、二人で街を散策しながら話しこんでいた俺と美馬は赤松と遭遇してしまったのである。ただそれだけのことなのだが、それはそれ、大いに不意打ちを食らってしまった。
美馬に告白したという赤松。それを受け入れたのか拒否したのかは不明だが、とにかく彼にとって意中の相手である美馬と二人きりでいる俺。しかも先ほどは手を握ってもいたのだ。
なるほど気まずい。得体の知れない申し訳なさと、妙な焦りが胸を占める。
赤松も赤松でこちらの様子をうかがっているらしく、めずらしく苦虫を噛み潰したような気難しい表情をしている。似合わない。しかしきっと俺も似たような顔をしてしまっているのだろう。
そもそもどうしてこんな時間に外を出歩いているのだ。子供のころから意味もなく歩くのは嫌いだったんじゃないのか。まさかそんな気分だったのか。
うじうじしている男二人を無視して美馬が赤松に言った。
「ついでだから、あんたも一緒にきなさいな」
なんのついでだ。そしてどこに行く。
家を出るときには言わなかったが、ひょっとして目的地でもあるのか。
美馬はクールを気取っているからか、あえて多くを語らない。
「俺も一緒にって、邪魔じゃないのか? お前ら二人で何かやってたんじゃ……」
首をすくめた赤松はチラチラと俺たち二人に目配せする。慎重にこちらの顔色を確かめているようだ。
やや上目遣いになっているのは気色悪いからやめろ。
美馬は冷たく言った。
「まぁ、邪魔よ?」
「ひどい! 目が本気だぞ! だったら本当に邪魔じゃんか! がっくし!」
わざとらしく膝を折って地面に突っ伏した赤松。
近くに人の気配がなくてよかったな。夜道に土下座する不審な男が出没、なんて事案が周辺住民にメールにて周知徹底されるところだった。
「ふざけるのはよして。ただでさえ薄暗いのだから、あんたの姿を見失っちゃうわよ。さよなら」
「ごめん待ってくれ!」
赤松は去ろうとした美馬に向かって手を伸ばして、その足首をつかんだ。つかんだはいいが、体勢的には地面にひれ伏したままだ。そこからなら彼女のパンツが見えるんじゃないかと思ったが、これはあとでこっそり聞いてみよう。
小学生のころは白かったっけ。今も白いといいな。
「ちょ、手を離しなさいよ! 変態!」
「変態じゃない! お前のことを好きなだけだ!」
「なおさら変態! そして怖い!」
赤松も美馬もどちらもふざけているだけだから友人として見ていて微笑ましい光景だが、一歩どころか半歩でも間違えば、赤松は追いすがるストーカーみたいだ。第三者が通りがかれば通報されてもおかしくない。そうなったら笑い事じゃすまなくなるが。
「おい二人とも、そろそろ……」
すっかり日が落ちて目立たなくなっているとはいえ、こんな街中で馬鹿をやられていると友人として恥ずかしい。近くにいながら無関係を装うのも限界だ。
用事がないなら早く帰って晩飯を食べたいこともある。
「そうね。つい遊んでしまったわ……」
ふっと笑う美馬。
しかし俺には赤松を蹴る美馬の顔は本気だったように見えたが。
「でも楽しかった」
とは、へへっと笑っている赤松の言葉。
最後のほうは蹴られて喜んでいたように見えたが、こいつもマゾか?
ちょっぴり距離を取りながら二人に声をかける。
「ほらほら、暴れたせいで服が乱れてるぞ。二人ともちゃんとしてくれ」
「なんだか暑くなってきちゃった。アホの赤松と騒いだせいかしらね?」
うっすら汗をかいている美馬は自分の手をうちわにして顔を扇いでいる。制服の胸元をつかんでパタパタやって風を送ったりもしているのは、近くで見ると意外に刺激的。
いつにもまして色っぽく見えてきたので、暴れてもいないのに俺もちょっと顔が熱くなる。
「だろうな、あんだけ暴れれば暑くもなるだろう。無理に我慢しなくても、今は夜だから目立たないし上着を一枚くらい脱いだっていいんじゃないかな」
「脱いだら下着よ! バカ!」
バカ呼ばわりされるのは何度目だろう。でも最近はバカって言われるのが快感になってきたかもしれぬ。
「そうだぞ、バカ。お前なんか嫌われろ!」
赤松だけには言われたくないがな。アホウと言い返してやったぜ。
「はいはい、子供の喧嘩なんてしてないで。ほら、早く行くわよ」
「おう。……って、だから美馬、行くってどこに行くんだ?」
無駄足を踏みたくなくて尋ねると、美馬は直接には質問に答えてくれなかった。
「久しぶりに三人で時間をつぶしましょう。孤独な暇つぶしは寂しくて無駄なものが多いけど、誰かとつぶした時間はきっと思い出になるから」
「ん、そうだな」
ま、行き先はどこでもよかろう。
俺と赤松は遅れて二人、薄暗い夜道をずんずん進む美馬に続いた。どこに行くんだろうと、たまに互いに顔を見合わせながら。
黙々と歩くこと十分程度。彼女が目指していた場所に到着したようだ。
そこは山がちな日本ならばどこにでもあるような坂道をそれなりに上った先にある場所で、振り返れば街を一望できる展望台みたいになっている出っ張り部分の、休憩所をかねた小さな空き地だった。
あるのは転落防止用の柵と薄汚れたベンチくらいで、たぶん散歩に疲れたおじさんくらいしか立ち寄らない寂しい場所だ。
先頭を行く美馬は雨ざらしの小汚いベンチには座らず、そのまま下が崖になっている端まで歩いていくと、腰ぐらいの高さで続いている柵に手をかけて、えいっと身を乗り出した。すぐ下に広がる街でもなく、すぐ上に広がる夜空でもなく、どこか遠くを見るようにして。
そんな美馬の左隣には俺、反対側には赤松が同じようにして並んだ。
同じでないのは、きっと、俺が美馬の横顔を盗み見ていたことだけだろう。
じっと見ていると、そのうち、いつもより幼く響いて聞こえる子どものころの声で、美馬が深刻ぶらない切なさをにじませて言った。
「星、出てないね」
「星を見るには早かったかもしれない。夕日の残照が薄ぼんやりと空を明るくしているせいかも」
何も考えずに俺が言うと、それを小馬鹿にして赤松が笑った。
「たぶん今夜は星なんて見えないぜ。これからずっと朝まで待ったとしてもな」
「どうしてだよ?」
水を差された感じがして、少し不服に問い返す。しかし赤松は動じない。
「どうしてって、まず空が晴れなきゃ駄目だろ。どうやったって何も見えないさ」
そういえば、夕暮れが深まっていくごとに空は薄墨を塗りたくるように曇っていったっけ。今頃は薄い膜みたいな雲が伸び広がって、星のきらめきを覆い隠していることだろう。
けれど星のない空が静かな夜も、それはそれでオツなものだ。
しばし静かに宵闇の街に耳を澄ましていよう。
ほどよく穏やかさを堪能したところで、美馬が顔を俺に向けて話しかけてきた。
「昔、ここには今みたいに三人で来たことがあるよ。ちゃんと覚えてる?」
「ここに来るまでは忘れていたけど、思い出したよ。あれも夜だった気がするな。たしか……」
あの日のことを思い出そうとして、俺が目を細めて記憶の引き出しを探っていると、美馬の向こうから赤松が言う。
「流星群を見に来たんだったな。美馬が何か願いたいことがあるからって」
「……結局、叶わなかったけれどね」
「まだ間に合うんじゃないのか?」
励ますつもりで言ってみると、美馬は一瞬ピクリと体を震わせて固まる。その向こうでは、訳知り顔の赤松が肩をすくめて首を横に振った。
顔や視線だけでなく、美馬がこちらに体を向けた。
俺も応じて、二人で向かい合う。
「たとえば、今、私があなたのことを好きだと言ったら、それを喜んで受け入れてくれる? 他の誰にも目移りせず、私だけを見てくれるようになる?」
「それは……ちょっと、どうだろう……?」
答えを避けて言葉を濁す。波風を立てないためにも、おどけた調子で。
この場には、美馬に告白したばかりだという赤松もいるのだ。仮定の話であったとしても、俺のほうから好きだとか嫌いだとか言ってしまうのは憚られた。
そのまま答えあぐねていると、美馬の黒髪やスカートをたなびかせるほどの強い風が吹いた。たった数秒、雨を予感させるような香りをはらんだ冷たい風が。
「そっか。オッチー、またはぐらかすんだ。やっぱりまだ私には遠いんだね」
「遠いって? おいおい、待ってくれ。お前ほど近い女子はいないだろ。なにしろ俺たちは幼馴染なんだぜ?」
「……そこが限界?」
瞬間、一筋の美しい軌跡を描いて星が流れた。それは重力に引かれて夕闇の底にまで落ちると、燃え尽きるみたいにはじけ飛ぶ。
願いよりも、祈りよりも、その流れ落ちて消えた一滴を見た俺は、後悔や懺悔を思い浮かべた。
美馬が言う。
「だって、近いといったって、たぶん私の心はあなたに一度たりとも届いてないじゃない。二人きりになっても、昔から、はぐらかしてばっかり。あのときだって、想いを伝えようとした私を無理矢理にでも友達の一人だと定義したがって……!」
「待て、落ち着いてくれ、別に俺は……」
「好きなのに!」
突然の告白に俺は息が止まった。
それが嘘や冗談ではない本当の気持ちだと理解できたから、本音を返せない俺は何も言えなくなる。
「あなたのことが好きなのに、あなたはいつも本心を見せてはくれない!」
何も言えずに口をぱくぱくさせていると、やっぱりこれは彼女の強さや優しさだろうか、すぐに普段の冷静さを取り戻した美馬は首を振った。
「……ごめんなさい。柄にもなく熱くなっちゃって」
「お、俺は……」
なんとか声を絞り出そうと努力したが、それは美馬に止められた。
「いいの、今は何も言わないで。本当に私のことはもういいの。だってオッチーに答えをはぐらかされるのって、これが初めてじゃないからさ。そういう奴だと知ってるし、私も慣れてる。でも加奈は苦しんでると思うの。友達だからわかる。
ねぇ、オッチー、お願い。どんな結果であれ私は応援する。だから悩んでいる加奈にちゃんと答えをあげて」
星明りのない薄暗闇の中でもはっきりとわかる。
そう語る美馬の目は潤んでいた。
「そうじゃなきゃ、もうオッチーのこと見ていられない。好きでいるのが嫌いになっちゃう。ちゃんとしてくれないと……私も悲しいよ」
そこまで聞いてうろたえる俺に「じゃあ帰るね」と言い残して、一度も振り返らずに美馬は去った。
呼び止めることも出来ず、追いかけることも出来ない。
ひたすら自分が惨めに思えてくる。本物の馬鹿に思えてくる。
そしてこういうときに限って赤松は茶化すでもなく黙り込んでいるのだ。
「俺には何が必要かな?」
「素直になることだ」
「欲望にか?」
「大事だと思う気持ちにさ」
「……そんなもの、たくさんありすぎて一つには決めきれないよ」
だって、そうだろう?
ここは何か一つだけ持ち込むことを許された無人島じゃない。どうして他のものを手放さなくちゃならないんだ。別れるなんて悲しいじゃないか。
いささか同情の入ったため息。赤松のものだ。
「あいつのことだが、あまり悪く思わないでくれ。美馬はお前の背を押したがっている。お節介かもしれないが、お前のことが心配で無視していられないんだよ」
「……わかってる。いつだってあいつは優しかったよ。その優しさに甘えてきたのかもしれないな、俺は」
「お前だけじゃないさ」
なるほど、だったらお互い様だな。情けない男どもだよ。
お互いの無力さを認め合うがごとく目線が交差して、それから赤松は顔をそむけた。
「俺だって決着を付けてほしいんだ。お前は友達だし、あいつのことは好きだからな」
「でもさ、赤松。何に決着を付ければいい? 俺はどうすればいいんだよ?」
すべてが身に余るような気がした。
何もかもが自分の手には負えないような不安があった。
けれど、一方で俺は冷静に考える。
たぶん、まだ絶対に取り返しのつかないほどの致命的なミスはない。小さなミスや過ちを少しずつ重ねて、それが絡まりあって複雑に心を悩ませているだけだ。
一つずつ解いていくことさえできれば、きっと解決できる問題はたくさんある。
またみんなで集まることができる。
「まずはサークルに顔を出さなくなってしまった榎本の問題だな。どう考えているにせよ、お前は彼女にちゃんと答えてあげるべきだろう。たぶん他のことは、その答えを待ってからだと思う」
「榎本さんにはちゃんと答えないといけないと俺も思うよ。だけど今は……」
まだ自分の中にさえ答えが見つかっていない。
そう弱音を吐こうとしたら、赤松が邪魔をした。
「今だからこそ伝えられることもあるさ。考えてもみろよ。彼女だって、どこかの誰かに奪われてしまう可能性はあるんだぜ。……美馬は俺になびいてくれなかったけどな」
無理をした感じで力なく笑った赤松は、励ますつもりなのか俺の肩を叩いた。そしてグッバイだとかグッナイだとかグッドラックだとか、やけに格好付けた挨拶を残して走り去った。
夜の坂道を駆け下りていくのは危険じゃないかと俺は心配して遠ざかる背を見送ったが、走り出さずにはいられない衝動が彼を襲ったのだろう。
……さて、ならば次に駆け出すべきは俺の番なのかもしれない。
せめてスタートラインに立つために。