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 それから数日間の放課後というもの、事件らしい事件もなく実践文芸サークルの集まりを教室の片隅で楽しんでいた俺たちだったが、のんびりと構えてもいられない一つの懸念が発生していた。


「今日もまた来ないのか」


 誰とも知れず大いなるため息が放たれて、それは伝染したかのように広がって、落胆とともに重なった。気持ちが沈んでいるのだ。全員が全員、実に浮かない顔を浮かべている。口数が少ないまま顔を合わせている状況は空気が重くて、一時的に室内の重力が強まったんじゃないかとさえ疑ってしまう。

 こういうときの沈黙は、大抵は空気の読めないムードメーカーが破ってくれるのだが……あいにく今日はその顔がない。

 それが致命的なのだ。悔しいくらいに。


「……榎本は?」


 赤松が俺を責めたように問う。あるいは俺がそう感じただけかもしれない。


「榎本さんがいないと寂しいですね」


 ぼんやり頬杖を付いて、どこか遠くを見るように嘆息したのは峰岸さんだ。

 彼女は榎本に恋をしているそうなので、いなくて寂しいというのは大げさな表現ではなく本音に違いない。ひょっとすると誰よりも心配しているのだろう。


「オッチーはサークルの部長でしょ? 何か知らないの? 私も最近ちょっと避けられているみたいだったし、なかなかキャッチできなくて」


 美馬は意外と他人との距離を大事にするタイプだ。相手が望んでいない場合は、強引に自分の側へ引き寄せたり、無理に相手の領域へと踏み込んだりはしない。

 だから榎本に避けられていると感じたら、それを受け入れてしまうのだ。

 心配にはなりながら、追いかけることはできない。

 昔から妙なところで不器用な奴である。


「知らない。たぶん、俺は彼女のことを何も知らないんだ」


「はっきりしないのね? それとも、はっきりできないの?」


 はっきりしない答えのせいで少し苛立たせてしまったらしく、にわかに顔つきを鋭くした美馬ががっついてくる。とって食われそうな迫力さえある。

 他人との距離感はどうした。やたらに顔が近いぞ。

 たまらなくなって俺は顔をそむける。本当は立ち上がって教室から逃げ出したいところだが、そんなことをしたら自分にやましいものがあると思われかねない。

 それに、幼なじみである美馬からはどうせ逃げ切ることなどできないのだ。

 策士は策に溺れ、嘘は嘘と見抜かれる。

 思い出すだに、子供のころから俺はずっと弱かった。


「ふーん。やましいことあるんだ」


「うぐ……」


 黙っていたのに、なぜバレたのだ。びくりと肩を震わせて俺は驚いた。でも不思議じゃないな、気持ちが顔に出やすいらしい俺のことだから。美馬が自分から追及の手を緩めてくれない限り、いつまでも隠し続けるのは難しい。

 にっこり笑って、こちらに近づいてきて、優しくも強い力で美馬は俺の襟首をつかんだ。息がかかって、がっちり顔の向きが正面で固定されて、だから逃げ道がなくなる。


「私がはっきりさせてあげるしかないみたいね。だってオッチーはさ、はっきりしないと駄目だから。はっきりしないで誰かを傷つけるのは、もう……。ね、今から彼女を呼びに行ける?」


 今まで見たことのない真剣な顔がある。どうやら美馬は緊張しているみたいだ。

 はっきりしないで誰かを傷つける。

 美馬の口からそう言われると、俺も無下にはできない。


「呼べるかどうかはわからない。けど、探しには行けるよ」


「じゃ、行って。加奈のこと、オッチーに頼んだから」


 頼まれたことに対して俺が何かを答える前に、美馬はそれで重要なことはすべて言い終えたとでもいうような顔をした。

 そして俺の手を引いて椅子から立ち上がらせると、有無を言わせず背を押して。


「今から一人で、ちゃんと探しに行ってあげて」


 優しい穏やかな声色で、そんな一言を投げかけるのだった。







 ここ最近というもの、放課後になるや否や、どこへと知れず一人で教室を去ってしまう榎本。用事があるというわけではなく、みんなを避けているつもりらしい。

 だがしかし、俺は身を隠した彼女が今も学校の中にとどまっているに違いないと予想している。

 半分は期待だが、もう半分は確信だ。

 なにしろ榎本はマゾ系女子の欲求不満体質。そして何かを簡単に見捨てられはしない性格で、簡単には幻滅することもない、そんな優しいところもある。少なくとも俺と榎本は中学生のころから一年以上の付き合いがあって、その一年を棒に振ってしまうようなタイプではない。

 つまり、友達である俺のことを本当のところでは避けていないはず、なのだ。

 どんなに悲しくても、苦しくても、根本的に榎本は寂しがり屋なため、誰にも何も言わずに一人で消えたりはしないのだ。心の奥底では常に誰かを求めていて、追いすがってほしいと願いつつ、誘っているのだから。

 でも、じゃあ彼女がどこにいるのかということになると、それはさすがにわからない。場当たり式に学校中を探し回るしかないだろう。

 それぞれの教室、いくつもの特別教室。長い廊下と薄暗い階段を隅々まで見渡しながら、放課後の学校をほとんど駆け足で歩き回る。

 ここにもいない、どこにもいない。

 女子トイレにこもられていたら男子の俺にはどうしようもないな、なんて弱気になり始めていると、ようやくその姿を発見した。

 人影のまばらになった寂しい図書室。

 本を日焼けから守るための分厚い緑色の遮光カーテンは全開になっており、内側にある白いレースのカーテンだけがそよ風に煽られて、その隙間から茜色の夕日が差し込んで窓際のテーブルを照らしている。

 背丈よりも高い書棚の迷路じみた壁に隠されるように、図書室でも一番奥まった位置にある横長の机。騒がしくなりがちな廊下に面する出入り口からは離れ、仕事中の図書委員や司書さんが常駐するカウンターからは見えない絶好の隠れ家だ。

 この時間、この場所で、静かなる無数の本と底知れぬ夕闇に囲まれて、どこか憂鬱に浸っているような榎本は浅く椅子に腰掛けていた。

 それはたぶん、いつでもどこかへ逃げ出せるように。

 すぐに声を掛けようと思ったが、判断をためらう。

 榎本は本を読んでいるのだ。それも熱心に。あるいは呆然と。

 一体こんなところで何を読んでいるかと思って遠くから確認すると、驚くことに俺が中学校の文化祭で発表した恋愛小説のようだった。

 表紙のデザインまですべてが手製の、ホチキスで留めた薄い小冊子。部費ゼロで作った安物の印刷物だけに、もうボロボロになっていて古めかしい。

 なんだか赤ん坊のころに撮られた裸の写真を見られているようで、死にたくなるほど恥ずかしくなった俺は軽々しく声を掛けられなくなり、さっと移動して本棚の影に隠れて息を殺し、その場から動くことが出来なくなった。

 情けないけれど、そっと様子見をするだけ。

 けれど、嬉しかった。

 今も彼女が俺の何かを好きでいてくれるのだと知れて、本当に嬉しかった。

 彼女に気付かれないまま、ここを立ち去りたいと思うほど。


「バカバカ、乙終君のバカ」


 すごく、小声なのだ。


「私もバカだけど、もっとバカ!」


 耳を澄まさなければ聞こえないほどに、とても小さな抗議なのだ。読み終えた小冊子を閉じて、それを胸に抱きしめて、何かを精一杯に訴えかけようとしているのだ。

 いたたまれなくなった俺は、またしても逃げることを忘れていた。

 音も立てずに深呼吸を繰り返す。

 それから俺は目の前の本棚から適当な本を手にとって、ゆっくりと榎本のもとに近づいて、言葉なく隣に座った。

 驚いたらしい榎本の顔も見ず、照れ臭さを隠した俺はつぶやいた。


「よかったら帰りは一緒にどう?」


 考える時間が数秒は必要だったらしい。

 片目をつぶった榎本はこちらに無防備な頬を突き出して、イタズラに微笑む。


「優しくつねってもう一度言って」


 何故つねる必要があるのか。しかし彼女の相談役であるからには仕方がない。

 言われたとおりに彼女の頬をつまんで俺は言った。


「榎本さん、今日は一緒に帰ろうぜ」


「ふぁい」


 つままれて答えればそうなるよな。







 その帰り道、俺と榎本はあまり喋らなかった。

 本当は家までの方向が途中から違うのだけど、喋らない代わりに榎本は俺の家に寄っていくと言い張るので、余計な距離を歩かせてしまい申し訳なく思いながらも長く一緒にいられるのだと思って、こちらからはやめさせなかった。

 会話らしい会話もないまま、長い道のりを二人で歩いて家の前にたどり着く。

 上がっていくつもりはないのか、榎本はここで別れるような雰囲気を醸し出している。


「ごめんね。急に避けるみたいになっちゃって。ちょっと恥ずかしくて、サークルに顔を出せなくなってた」


「恥ずかしい?」


「うん。乙終君とのこととかで、なんだか私は恥ずかしくなった」


 それはどういうことだろう。俺とのことで、悲しく思ったり怒ったりすることはあっても、何か恥ずかしい思いをしたのだろうか?

 もちろん、まったく見当がつけられないわけではない。

 ただ、この場で具体的に明らかにするのも彼女にとって恥の上塗りになりかねないので、しばし考えた俺はこう問いかけた。


「……恥ずかしいのは、いや?」


 予想外の質問だったらしく、うーんと唸った榎本は少し困惑した。


「恥をかくのも、一種の羞恥プレイってことで気持ちいいのね。おちょくられるとゾクゾクするものだし、よく言えば快感。……だけど、やっぱり、それって前提として、相手から愛されているんだってことを実感できないと苦しいの。いじられるのも好きだけど、いじってほしいっていう欲求だけじゃなくて、私をいじってくれている人のことを考えちゃうから嬉しくなるのね。乱暴に扱われるのはいや。ぞんざいに扱われるのもいや。

 だから私は……あのね? ちょっかいを出されて嬉しいのは、私のことを好きでいてくれる人からだけなの」


 恥ずかしい本音。けれど本気の告白だ。

 その証拠か榎本は、ぽりぽりと照れたように頬をかく。


「もちろん例外はあった。たとえば私がね、一方的に好きだなぁって思っている人からなら、たとえ向こうからの愛がなくたって、何をされようが、何を言われようが、それは嬉しいことだと思っていたの。関わりあえるから。……でも、逆だったんだって最近気がついた。好きな人にこそ、当たり前に好かれていたいのね」


「……好きな人にこそ、ね。じゃあ、俺は? 榎本さんの隣にいていいの?」


 こんなこと聞くつもりなんてなかったのに、気が付けば俺は口走っていた。

 それをはっきりとさせることだけは、いかなる結果であれ、ずっと避けるつもりでいたのに……。

 薄く笑った榎本は優しく小首を傾げて、そっと右手を伸ばすと、ぷにっと俺の頬をつついた。いつもの仕返しだと言わんばかりに、とっても愉快に楽しげに。


「一つだけ、わがまま。必要だって言ってくれなきゃ、私は絶対に戻らない」


「もちろん必要……」


「本気じゃなきゃ駄目だってば」


 それは絶対に譲れない条件であるらしく、今度は俺の眉間をつついた榎本は重ねて言う。


「本気で言ってくれるまで、絶対。でもね、必要じゃなかったら放っておいてくれていい。必要だと思われていないなら、私、乙終君といるだけつらいもの」


 それじゃあねと手を振って、榎本は俺に背を向けた。涙をにおわせる弱々しい声だったのは、きっと、俺の聞き違いではないのだろう。

 ……本気で必要だと、俺は榎本に言えるだろうか?

 そばにいてくれなくちゃ困ると、それを認めることが出来るだろうか?

 少なくとも今は、それを自分から言葉にするには踏ん切りがつかず、不安と恐怖と、うまく説明できない臆病さだけがあった。

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