01 欲求不満な榎本さん
新しい高校生活が始まって、四月も半ばを過ぎたころである。
「はあ、今よりずっとみんなに愛されるにはどうしたらいいんだろう……。クラスのみんなに可愛がられるというのかな、もっといじってもらいたいな……」
それは寂しげな夕明かりに学校全体が包まれた静かなる放課後。やわらかく一日の終わりを告げるロマンチックな日没の輝きに心奪われて、ふと幻想的なもの思いにふけってしまうような黄昏時のことだ。
そういえば今日は宿題があったっけと校門前で思い出したのがついさっき。入学早々やる気のない生徒だと思われるわけにはいかないと、机の中に置き忘れていたプリントを取りに戻ってきた俺ではあったが、誰もいないと思っていた教室の扉に手をかけて、しばし開くのをためらった。
内側からの気配は一人。
そう、これは独り言である。
「本音を言えばいつだって滅茶苦茶に構ってほしいのだけど、悪目立ちしない程度の加減が必要なのよね。がっついちゃ駄目。駄目なものは駄目。理想としては誰からも愛される女子高生になりたいから、甘えるのもスマートにいきたい。いじってほしいからって、こんなに構ってほしたがりな本心がばれちゃったら大変なのね。それが原因で軽蔑されるようになったら困りものだもん」
一人だからこその独り言。それは遠慮のない独白だ。
たった一枚の扉を挟んで彼女の言葉を盗み聞けば盗み聞くほど、徐々に開けづらくなっていく。
「立ち位置の問題なのかな……ううん、これって立ち回りの問題と言うべきかも。あくまでも私の自主性と、人間関係における器用さが試されているのね。ただ呆然と待っているだけじゃ、誰かに興味以上の関心を向けられる喜びと快感は訪れないもの。それはわかってる。わかりすぎてこの道のプロね。
じらされる気持ちよさもあるにはあるけれど……やっぱり自分から欲しがっちゃう。もっといじられたいのね、私って」
まあ、おそらく誰も彼もが一つくらいは他人に言えない悩みを抱えているに違いない多感な思春期のことだ。こういうことで真剣に苦悩する人間が一人くらい存在したって不思議ではないだろう。
……ただし、それを吐息混じりに悩むのが少女だというのは驚きだ。
いじられたがりの女子。いかなる苦悩があるやら底知れない。
あいにく俺は乙終心枝という名のしがない男子生徒に過ぎないので、彼女、その名も榎本加奈の悩み相談には乗ってやれないだろう。縁少なからぬ親しい間柄のクラスメイトではあるが、迂闊に男子が踏み込めない恋愛話などと同じく、彼女には気の置けない女子同士で赤裸々に語り合ってほしいところだ。
ここは気の利いた紳士らしく、彼女を傷つけないように、何も聞かなかった振りをして早急に立ち去らねばなるまいて。
一人廊下で腕を組み、そんなことを真剣な顔で大真面目に考えていたら、思いがけず目の前の扉が内側から開かれた。
どうやら身を隠すのが間に合わなかったらしい。
そしてそれから数分後。
俺と榎本とは、他に誰もいない教室の中で向き合うこととなった。
「ひどい、ひどい、ひどいったら本当にひどい! まさか秘密中の秘密を乙終君に聞かれてしまうなんて信じられない! ああ、もう、私の心のデリケートな部分がぐしゃぐしゃだよ!」
「誰に聞かれたって駄目なことを、誰もいないからってペラペラ喋りすぎたのだと思うよ」
「そういう繊細な時期だもの、私。いけないと思ってはいても、なにかと嘆息せずにはいられない年頃なのね……」
「うーん、まぁ、俺と榎本さんとは中学からの友達で知らない仲でもないし、このことは誰にも言わないで黙っておくからさ。だからとにかく落ち込まずに明日からも元気で、ね?」
「あのね、乙終君。中学生のころから友達にさえ隠し続けてきたことを、これから大人になろうという青春真っ盛りの高校生になった途端に知られてしまったからこそ、私はショックを受けているの。中学生ならギャグや冗談ですむけれど、高校生なら冗談でも痛いもの」
「確かに」
「やっぱり……」
うっかり頷いてしまったら榎本さんがため息を漏らした。
「……それに、乙終君だけには知られたくなかった。ねぇ、乙終君、どんなに今の私が羞恥心にまみれているか、ちょっと想像してみてくれる?」
そう言われたので実際に想像してみることにする。
「たとえば俺が放課後の教室で『もっと女子にちやほやされたいなぁ』とか一人でつぶやいていたのを榎本さんに聞かれていたとすると……うん。きっと人並み程度に羞恥心があれば、それはもう激しい後悔が襲っているだろうね」
「うん、すごく恥ずかしい。いっそ震えちゃいそうなくらい身もだえしている……って言ったら引いちゃう?」
どうだろうかと少し迷って、ひとまず俺は「引かない」と答えた。
すると俺が適当なことを言ったとは思わないのか、ふむふむと榎本は素直に納得する。肩まで伸びるストレートの黒髪がふわふわと揺れている。
「確かに私たちは知らぬ仲ではないのだし、もっと知る仲になっても大丈夫な気がしてきたよ。友人から親友へのステップアップみたいにね。むしろこの際だから、徹底的に私の情熱を知り尽くしてほしいくらい。私に熟知した専門家を一人くらいは雇いたい気分なの。ところで乙終君、今から私に付き合ってくれるだけの時間ってある?」
「時間か……」
どちらかといえば俺は普段から無駄に暇を持て余すタイプで、幸か不幸か榎本に付き合うだけの時間はたっぷりあった。そして女子からのお誘いを無下に断るほど淡白でも薄情でもない。むしろチャンスがある限り、可愛い女子とは積極的にでも二人きりになりたいくらいだ。
ちょっと迷った素振りを見せて、少し見栄を張った俺は「まぁ、あるよ」と答えた。いつも暇をしている退屈な人間とは思われたくない。
「それはよかった。だったらひとまず聞いてほしいな。あのね、たった今考えついた素敵な提案なのだけど、乙終君には私の“相談役”になってほしいの」
「え、なにそれ……。相談役と言ったって、なったところで俺が何をするのさ?」
「私がみんなに愛されて、いじり倒されるようになるための相談役ね。そのために助言とかするの。つまり乙終君には、私のたまりにたまった欲求不満を晴らすための相手になってほしいのね! すごく!」
ここまで自分の破廉恥な欲求を馬鹿正直に語ってしまっては、もはやどうにも引き返せないであろうことを悟ってしまったのか、まるで開き直ったかのように活き活きと目を輝かせる榎本。
水を得た魚というか、いかにも本領発揮といった感じである。
さては、これが彼女の本性か。つまるところ実は変態少女だったのか、彼女は。
……だとすると、今まで俺が見てきた“常識的な女子としての榎本”の姿とは、いじられたがりな本心を隠していた彼女にとってみれば、不本意な演技だったとでもいうのだろうか。
ひどい。なんだか裏切られた気分だ。女性の化粧は顔よりも心のほうが厚い!
しかしなるほど。
それが事実ならば、発散されない欲求不満もたまりにたまりそうだ。
内容はともかく、同情できないこともない。欲望や本音を隠して生きることの辛さは、よほどの馬鹿でもない限り、おおよそ誰にでも共感しやすいものである。
ここは一つ、彼女の人知れぬ苦悩に寄り添ってあげることにしよう。
「俺で榎本さんの役に立てるというのなら、まぁ……」
そんな感じで曖昧に答えると、榎本は不服そうに口をすぼめた。
「まぁ……じゃなくて。そんな適当で曖昧な返事じゃ困るのね。今ここで私の相談役になってくれるのかどうか、はっきりと答えてほしいの。すごく恥ずかしい一大決心をしているのだから、うやむやにしないで」
そう言って熱っぽい瞳で覗き込まれてしまったので、ごまかそうとした俺は意識を改めた。なにはともあれ彼女の願いだ。それなりの誠意をもって答えよう。
「……わかった。了解だ。その相談役とやら、俺が引き受けたよ」
といっても、相談役とは具体的に何をやらされるのだろう。相談というからには意見を求められるのかもしれないが、彼女の話を聞くだけでいいのか?
すると、どうだろう。
目を閉じてから数秒ほど続いた思案の時間を終えて、そわそわと榎本は不思議な行動に出た。
その辺にあった机の上にぺたりと両手をつくと、くるりと回転するように俺へと背中を向けて、もじもじと恥じらいながら、お尻を右へ左へと扇情的に揺らし始めたのだ。左右へ腰を振りながら腰を曲げていく榎本は、手をついた机の方へと頭を下げて前傾姿勢となり、彼女の小ぶりなお尻が言葉を失って唖然と立ち尽くす俺に向かって突き出される。
きわどい仕草だ。
制服のスカートがギリギリで覆ってはいるものの……。
「こんなこと頼めるのは世界でも乙終君だけ」
誰の席かもわからない机に両手をついて、こちらにお尻を向けたまま。
かすれそうな声で、けれど甘えた感じの榎本は身もだえして言った。
「いい音が鳴るくらいのスナップで、私のお尻を上手に叩いてほしいの……!」
ひょっとするともしかして、うすうすそうではないかと疑ってはいたものの、どうやらここにきて一つの確信を得られたようだ。
この榎本、俗に言うマゾヒストである。
「えっと……」
さすがに言葉を失って目を泳がせるしかない俺。
だが、ここで次なる動きを見せたのは彼女だ。一般的には特殊性癖扱いされることも多いマゾ属性だからなのか、偏見や間違いを俺から指摘されまいと、けん制するように口を開く。
その反論はすべての疑問質問を予測済みであるかのようで、この道のプロ顔負けな対応速度だ。
「あっ、でも単純に痛いのはイヤだから注意して。やっぱり気持ちよさには力加減が大事なのね。振り下ろす腕の勢いと手首のスナップで小気味いい音を立ててはほしいけど、間違っても叩いたときの手形でお尻が赤くならないようにお願い。思うに私って肌が敏感みたいで、体全体が刺激に弱いもの」
あっけにとられた俺が依然として身動きできずに戸惑っていると、それを隙と見て榎本は攻勢に出る。
「今後のためにも最初に言っておくけれど、残念ながら私は肉体的な苦痛って好きではないの。あくまでも精神的になぶられたいのね。これを口で説明するのは難しいなぁ。こちらで期待しつつも、それを裏切ってくる屈辱的な快感っていうか……こう、“してやられた!”って感覚が大好きなのよ」
そう語る榎本はなんだか得意げだ。自信満々といってもいい。
よどみなく自身のスタンスについて言葉を重ねていくが、ひょっとして彼女は、これまでたった一人で自分の性癖について悶々と考え抜いてきたのだろうか?
ならば方向性はともかく努力家である。時代が時代なら一流の哲学者だ。
世間さえその気なら、芸術や芸能の道で花開くこともできるだろう。
いっそ彼女は欲求のまま報われてほしいものだが、現状、それは俺の手に委ねられたらしい。
「しかしね、榎本さん。こうして面と向かって頼まれたからといって、いくらなんでも男子が女子の体を乱暴に扱うというのは……」
と、ここで榎本は律儀にも体勢を整えて、歴戦の騎士がそうするように真正面から俺と向き合った。聞き分けのない子供に対して、あくまでも優しく言い聞かせをするみたいだ。
「あのね、乱暴されるのは私もイヤよ。だから相手を上手に誘ってダメージコントロールするの。私だって無理矢理に力で支配されたいわけじゃないし、もちろん誰にでもってわけじゃないのね」
「誰にでもってわけじゃないのは理解できるよ。何をするにも相手って大切だと思うから。だけど、じゃあ俺にそういうことされてもいいの?」
「うん、いいの。だって私にとって乙終君はクラスの中で一番親しみを感じている男子だもの。……伝わってないかな?」
伝わっているかどうかに関して俺は意図的に明言を避けて、あいまいに首を傾けた。
小学生のころからの幼なじみであり、およそ三年ぶりの再会とともに同じクラスとなった笹川美馬の存在を除けば、現時点の俺にとっても榎本こそが一番親しみを感じている女子なのだ。ちゃんと話すようになってからは一年ちょっとだが、すでに好意らしい好意は(恋でなくとも)ある。
しかし、ここで彼女の言う“親しみ”をあっさり受け入れてしまえば、その結果がどこに向かい、どう発展するにせよ、もう二度と今までの関係には後戻りできない気がしてならない。
なにしろ人間関係は繊細で複雑なものだ。
新しい高校生活に期待を寄せる俺としては、慎重な足取りこそが不可欠だった。
「……そうね。乙終君になら、私のことを言えるかもしれない」
気まずい沈黙を打ち払って話題を転換するように、先ほどと同じく誰のものかわからない机に今度は手をつくのではなく乗りあがって、ちょこんと腰掛けた榎本。軽くスカートを調えて、こちらに目配せをする。
なんとなくそうするように促され、俺も対面にあった机に腰掛けさせてもらう。
目が合ったのは一瞬。すぐさま彼女は遠い目をして、自身の過去を回想して聞かせてくれた。ずいぶん劇的な語りを聞かせて頂いたが、やけに長かったので勝手に要約してしまおう。大体こんな風な話だ。
物心がつく前に両親が離婚して、二人きりの母子家庭で育った榎本は、放任主義を貫いた母親に対して一抹どころではない寂しさを抱いていた。しかしそれは仕事と育児の忙しさゆえであって、わがままを言って甘えることで母に必要以上の迷惑をかけてはならぬと、幼少時代はおとなしく、ずっと目立たぬように生活していたという。
ところが彼女が小学二年生になったころだ。とある失敗をして、職員室に呼び出されて先生に怒られてしまったらしい。普通ならショックを受けてますます落ち込みそうなものだが、当時の榎本は違った。
ちゃんと自分のためを思って怒られたこと、それが快感になったのだ。
それからの彼女は心機一転して自分のキャラを変えたようで、じゃじゃ馬でお転婆な少女を演じたらしい。
それもこれも、すべては一つの理由がため。そうすることで、みんなに構ってもらえたからだ。たまりきった寂しさと屈折した愛情表現が、それを彼女に強要したらしい。
けれど数年が経ち中学生になったときには、快感を求めてならない彼女にも羞恥心が生まれた。さすがに教師に怒られるようなことを自分からするわけにもいかなくなり、同年代の友達に構ってもらえるような馬鹿をするのもためらわれた。
いじられたいのに、いじられない。恥ずかしがりの乙女になったということか。
そして現在の榎本につながり、この欲求不満である。くすぶっているのだな。
「乙終君、ごめんね。さすがにお尻を叩いてほしいだなんて、その場の勢いに任せて私も生き急いでしまったみたい。思わず言っちゃって今すごく後悔してる。でもね、だったらこうしてほしいってことが、実は一つあるの」
彼女は腰掛けていた机から音も立てずに飛び降りて、そっと一歩を踏み寄せて、俺のそばに来た。
ためらいがちな動作でゆっくりと腰をかがめて教室の床に膝立ちすると、人懐っこい猫みたいに頭をこちらに傾けて、彼女を見下ろすように机に座ったままでいる俺を上目遣いに覗き込む。
ふわり漂ってくる髪の香りは、甘えたように鼻腔をくすぐるシャンプーか何かのいい香りで、きっと至近距離に迫った彼女の健康的な肉体からも、女性らしい刺激のフェロモンが俺を包み込むように放たれていることだろう。
想像すると魅惑的かつ禁忌的で、ほとばしる緊張が俺の身を引き締めた。
「なぶられるのも、いじられるのも、いたずらされるのも大好きなのだけど、もちろん私だって、普通に普通のことが好きだったりするのね」
やわらかい声のする方向へ顔を下げると、すぐそこに榎本のあどけない顔があって、その小さな唇、あるいは大きな瞳が、出会った瞬間に俺の視線を捕らえて離さない。化粧っ気のない彼女の顔は自然の装いを見せていて、そのままでも可愛いと断言できてしまうものであり、だから意味もなく息を止めた俺は、次に彼女が何を言い出すのかと、不思議な期待と不安で身構えずにはいられなかった。
だから――と榎本は言った。身じろぎせずに期待をこめて。
「……だから、なでて。私の頭をなでてくれないかな、乙終君……」
淡いオレンジ色に滲んでいた夕暮れ空は、すでに薄いブルーと濁った黒の世界が支配的になりつつあった。たとえば今このタイミングで教室の電気を消し去ってしまえば、うっすらとさえ星明りの届かないこの奥まった場所では、明確な言葉なしに感情を伝えようと努力する榎本の表情が見えなくなるだろう。
自分が何を好きで何を求めているのかさえ結論を知らぬ馬鹿な俺にとって、それは、果たして幸か不幸か。
目をそらせぬまま胸の鼓動が激しさを増す一方で、それを一度でも自覚してしまえば、胸を締め付ける痛みも増した。
「榎本さんの欲求不満を解消するための相談役に就任してしまったからには、それくらいならね……」
おっかなびっくり榎本の頭に右手を乗せて、折角のきれいな黒髪だから、それを一本だって痛めつけない程度の力加減を意識して、甘えたがりの子猫の頭をさするように優しくなでてみた。
最初はほんの数秒だけと思って、しかし結局は長く続けていたらしい。とても静かな時間はやがて、いつしか俺の指先が微熱を帯びたことで終了するに及んだ。
心の温度が伝わってきたのなら、たぶん、彼女は喜んでくれたのだと思う。
「ありがとう。……そして、これからはもっとよろしく」
俺と榎本の不思議な共犯関係にも似た連帯感は、この日、このとき始まった。