楼君がここに来た理由
「やあおはよう、よく寝られたかな?」
扉を開けてにこやかに尋ねると、灰色のスウェットに身を包んだ楼君が不機嫌そうに出てきた。時間は午前9時、皆学校や仕事に出払った時間帯だ。
「とりあえず食事にしようか。お母さんがあと焼くだけのトーストを用意して行ってくれたんだ。そうそう、学校には連絡入れといたから気にしないでくれたまえ」
楼君の手を引きながら悪戯っぽく笑って階段を下りる。リビングの椅子に座らせて僕はキッチンに向かう。冷蔵庫にはふんわりとラップがかけられたツナマヨののった食パンが2枚入っていた。
「…楼君っていっつも朝トースト2枚食べてるの?」
振り返って尋ねると、ため息をつきながらぺたぺたと歩いてきた。そして冷蔵庫の中を見ると、もうひとつため息ついた。
「いや、これどう考えても紫苑さんの分でしょ。皿も別だし」
俺が焼くから、とキッチンから追い出されたので1番キッチンに近い尚ちゃんの席に座った。楼君は手際よくラップを剥がし、ツナマヨの上にカレー粉を振りかけてオーブンに突っ込んだ。カチカチと時間設定をして自席に戻ってくる。
「カレー粉かけた方が好きなんだ?」
席が反対側で遠いので、心葉の席に移動する。聞かれた楼君はキョトンとした顔を見せた。
「いや?俺はどっちでもいいけど…紫苑さんはそっちの方が好きでしょ?」
えっ、どうしてわかったの?と首を傾げた。嫌いな食べ物も好きな食べ物も同じ顔して食べてたつもりだったが、そこまでわかりやすかっただろうか。
「大樹さんが言ってたよ。紫苑さんは本当に好きなモン食う時に貧乏揺すりするクセがおさまるんだって。あの人本当に人の事よく見てるよね」
楼君の頭がゆらゆらと机に近づいていく。ゴンと音がして楼君の動きは止まった。
「心配してくれてたのに、キレるべきじゃなかったなって後悔してる。詳しくは聞いてないけど心葉さんも昨日大変だったらしいし…それなら俺は自分でなんとかするべきだった」
楼君が昨日家に帰ってきた時、大樹君が丁度出かけようと玄関にいた所だったらしい。昨晩心葉が部屋に来て教えてくれた。いつも楼君が帰ってくるのが1番早いので、予想外の出来事に異常を隠しきれなかったのだろう。心配性の大樹君が散々聞かれたくないことを問い詰める姿が目に浮かぶようだ。
「まあそこは大樹君も配慮が足りなかったし、紫苑さんもはやとんもそうだよ。…ごめんね」
オーブンが焼きあがった合図を鳴らしたと同時にスマホがメッセージを受信した通知音を鳴らした。楼君が台所に歩いていき、自分はスマホを見る。…ギガキャスさんからだ。
「紫苑さん…誰から?」
トーストの乗った皿を目の前に置きながら楼君がおずおずと聞いてきた。この家の中の誰かだと思っているのだろう。
「いや、ちょっとした知り合いから。さ、冷めないうちに食べちゃおう」
促された楼君はそのままトーストをかじり始める。その間も僕はスマホを構い続ける。メッセージアプリには準備段階が終了した旨とこれからの行動が書かれていた。
「…俺、やっぱり家に帰るべきかなぁ」
楼君がトーストから口を離し、涙と共にポロリと零した。そのまま顔を下に向け、鼻をすすっている。
「どしたん?ホームシックになっちゃった?」
スマホを伏せておどけるように笑うと楼君は目元をぐしぐし擦ってこっちを見た。普段は無表情の顔が思い切り歪んでいる。
「だって、こんな事になるって思わなかった。ちょっと友達の家にお泊まりしてる感覚だったけど、周りからみたらそうじゃなかったし。だったら俺は家に帰りたい。でも今家に帰ったら逃げたみたいで嫌だ」
上目遣いでこちらの様子を伺う楼君の目を真っ直ぐ見つめた。口角は意識して上げているが、目が笑えている自信はない。息をひとつ吐いて目を閉じる。笑えてないとしたら閉じていた方がキツくならないだろう。
「お家に帰って、どうするの?また家出するの?」
無音。布の擦れる音すらしない静けさを不可解に感じ、目を開けた。静かに涙を零す少年がいる、人間はこれ程までに綺麗に泣けるのか。
「俺はっ、まだ親を許せないからっ、きっとそうするんだろうなぁ」
しゃくりあげながら言葉を紡ぐ楼君をジッと見つめる。次の言葉を待つ間の沈黙が辛い。仕方なくノートの内容を思い出した。
「親の過干渉がウザくて喧嘩して、家出したんだよね。まあ反抗期にはありがちな事だけど。それで今はこの家にいる。だとしたら紫苑さんにはね、君を守る義務があるんだよ。家出を繰り返す君を今帰す訳にはいかない」
背中をポンポンと軽く叩きながらちょっと真剣な顔をしてみせる。大人になりたい多感な時期の子供にはこういうのがよく効くようで、向こうもヤダヤダを言わなくなる。楼君がグッと口元に力を入れた、ここからが畳み掛ける時だ。
「今回はちゃんと守ることが出来なくて、本当にごめんね。ちゃんと責任はとる。心配しないでね。だから楼君は明日から元気に学校に行けるさ」
笑顔の圧力で楼君を頷かせたところで、立ち上がった。スマホをポケットに突っ込んで食パンだけを持ち上げる。
「悪いんだけどお皿洗いお願いしていい?紫苑さんはちょっとやる事があるから」
廊下に続くドアの前でフッと振り返ると、楼君は不思議そうにこちらを見た。軽く首を傾げている。
「楼君、エアソフトガンもといモデルガンのエイムには自信はあるかい?」
何故それを聞かれるかわからないと言うような顔をしながらこちらを見ている。答えが返ってきそうにないのでふふっと笑って誤魔化した。
「いやぁ、好きだって言ってたから気になっちゃってさ。今度紫苑さんにも見せてよ」
周りにそう言うのを話せる人がいなかったのだろう、久々にあの少年の満面の笑みを見た気がして安堵した。




