心葉がここに来た理由
「落ち着いた?」
薄い黄色のハンカチを握りしめて心葉は頷いた。ポンポンと頭を撫でる。
「いっぱい泣くと水分不足になっちゃうからね。今はやとんにお茶持って来てもらってるから。頭は痛くない?」
心葉はコクコクと首を降る。口を一文字に結んで、眉間にシワがよっている。笑っている方が可愛いのにな。
「そんで、今日は何があったか教えてもらえるかな?」
極力責めてないように聴こえる言葉と声色を選んだ。眉間とハンカチのシワがわずかに深くなった。
「…校門に待ち伏せてた。先生がお母さんと話してた。私を見つけた瞬間、こっちに向かおうとしてきた。先生が引き止めてくれてたから、ここまで逃げれた」
教科書が詰まったカバン、少し遠い中学校。走って逃げてくるのはとても疲れただろう。
「頑張ったね」
頭を撫でると、大きなタレ目から1粒、また1粒と涙が零れた。手を伸ばして抱きしめる。同時にドアが開く音がした。
「持ってきた…空気が百合百合しいな」
はやとんが小さなトレーにお茶とお菓子を乗せてきた。それを見て少し笑う。
「タイミング最悪だよはやとんー。お茶ありがとうね」
お茶のコップを心葉に渡す。ポテチの袋を開いて手の届く範囲に置いた。ふとトレーにコップが二つのってる事に気づく。
「…今から心葉と話すんだけど…はやとん居座る気まんまんだね」
少し笑うと心葉も吹き出すように笑った。少し空気が和んだ。
「別に大丈夫だよ、だって皆に言わなきゃダメでしょ?」
心葉は俯き気味に口を開いた。はやとんも口を開く。
「今頃大樹さんが話してくれてるはずだけど…家の場所も知られた。刃物なんか持ってこられてるから、ここに住んでる人皆危ない目に合わせるハメになる。だから警戒してもらうために話す必要はある…だから、聞いていいか?」
コップをはやとんに渡した。受け取ったのを確認して、沈黙を破る。
「サラっと説明しておこう。心葉の母親は宗教にハマってるんだ。その宗教を知り合いに勧めるのは美徳らしくて、心葉の友達に片っ端から勧めていったらしい。心葉も最初は友達が幸せになるなら、と喜んでやっていたんだけど、そのうち虐められるようになったんだってさ」
心葉がまた涙目になる。一文字の口の前にポテチを持っていった。大人しく口に入れて咀嚼するのを眺める。
「っていうことは、なんだ」
はやとんが頭を掻いた。考え事をしている時の癖だ。
「そこでよろしくないと思った心葉さんは母親に反抗したわけか。でもそれだけであんなことするか?」
考え込むはやとんの頭を軽く叩いた。
「幸せってのはね、依存性が高いものなんだよ。心葉のお母様は我が子が反抗したことで自分が仏から見放されるのを恐れた。心葉はきっと仏に対する悪口も言ってしまったんだ」
心葉が項垂れるように頷いた。震えた声が聞こえる。
「その日から学校行かせてもらえなくて…お母さんが朝起きてから夜寝るまで、ずうっと正座でお経を読まされた。お父さんもたすけてくれなくて…居場所がなくなっちゃったみたいだった」
大粒の涙が落ちる。パーカーの袖を掴まれた。腫れた目が僕を見据える。
「どうしよう、怖い。ここの皆にも嫌われちゃったらどうしよう。それこそ私、居場所なくなっちゃう。やだよ、紫苑。やだ、私まだここにいたい。お願い、嫌わないで。ずっとここにいさせて。紫苑がいなきゃ生きていけない。だって初めて私に居場所をくれた。宗教の勧誘もしたのに、さっき死んじゃいそうだったのに、まだ私に優しくしてくれてる。紫苑、嫌わないでぇ…」
吐くように叫んだ心葉を抱きしめ、頭を撫でた。ああ、本当に依存性が高い。
「大丈夫だよ、心葉さん」
はやとんが僕の反対側から僕ごと心葉を抱きしめた。心葉、苦しくはないだろうか。
「紫苑さんはこの程度で心葉さんのことを嫌わないよ。だってめっちゃ大好きじゃん、心葉さんのこと。皆もそうだよ。俺だって、心葉さんのことは嫌えない」
後は任せた、という感じで目配せをされた。心葉からも視線がおくられる。
「…心葉がいるからこそのこの家だよね。心葉がムードメーカーなんだからさ、いなくなられたら困っちゃうよ。まだまだこの家の雰囲気を明るくしてもらわないと」
心葉は笑顔を作ろうとした。が、頬が引きつっただけで終わってしまう。
「…紫苑さんの前だけでは泣いてよ。弱みも怒りも、ぜーんぶぶつけてきてよ。だからさ、他の人の前では明るくしててほしいな。紫苑さんは心葉を頼りにしてるんだ」
全て、全て希望的観測にすぎないが、例えその場しのぎの甘ったるい言葉でも力になれれば、な。




