襲来
遠くから言い争う声が聞こえる。内容も、何を言っているのかも、全く以て理解ができない。頭が働かない。ただただ煩い。眠りの淵にいる意識を引きずり出そうと考えることを始めた。この声は、二人分だ。落ち着いた声の方ははやとん。怒鳴っている声は…
「…学校は?心葉」
寝返りをうって枕に顔をうずめた。感触も匂いもいつものと違う。そういえばはやとんの部屋だっけ。
「紫苑起きたの!?聞いてよ!お母さんが学校まで来たんだ!」
お母さんが、心葉の学校に?なぜ?疑問を口にしようとして、飛び起きた。違う。これは。
「心葉の、お母様?」
寝起きは声が出ない。それでも通じたようだ。ブンブンと頷いている。
「…はやとん、そういう時はあれ程起こしてと…。心葉、スマホ画面を大樹君に電話する直前までやっといてね。コンタクト入れてくるから玄関行ってて」
廊下を走った。階段を駆け下りて少しホコリを被った戸棚の中からコンタクトを出す。手を洗うべきだが、正直そんな時間はない。寝不足だろうか、ゴミが入ったのだろうか、右目が痛い。でもコンタクトを入れ直している暇もない。目は開く、大丈夫。
玄関ではうずくまって酷く震える心葉と、その背中をさする厳しい顔付きのはやとん、そしてドアの向こうに日本人女性の平均的な体型の人影があった。人影はなんとかドアを開けようと扉を叩いたり蹴ったりと騒がしい。
「はやとん、心葉を僕の部屋に。心葉は落ち着いてね。僕が話つけるから。大丈夫だよ」
小声で伝えて心葉のおでこに自分の額を押し当てた。少し落ち着いた所で2階に上がってもらう。ドアの音がした所で、玄関の鍵を開けた。すぐにドアが開かれる。
「これはこれは、心葉さんのお母様ですね。お久しぶりです。そんなに焦ってどういたしました?」
やつれた頬に青白い顔。目の下のクマも酷い。
「心葉を返せ!不届き者が!バチが当たる!」
骨と皮しかないような手が両肩をつかむ。その勢いで後ろに倒れた。フローリングに打ち付けた背骨が痛い。
「まだ宗教にハマってるんですね。それで心葉さんが命の危機に面したのも知らずに」
視界が一瞬真っ白になる。頬の骨辺りを思い切り殴られた。口の中が鉄の味だ。
「あの子はバチが当たっただけよ!ちゃんとお経を読まないから!」
また右手を振りかぶった。その隙に目を指で軽く叩く。目が眩んだ隙に体を起こしてマウントをとる。
「貴方が宗教にハマるのは別にいいんですけど、他人に迷惑をかけるのは辞めてもらえますか?迷惑です」
言い返そうとする口に、猿轡の代わりとしてカバンの紐を噛ませた。随分大きなトートバッグだ。
「折伏って言うんですっけ?仏法を説いて悪人をなんたらかんたら…今の状況だとどうしても貴方が折伏される側ですよね」
両目で見据える。もちろん笑顔は忘れない。
「け、警察を呼ぶわよ!!」
猿轡代わりの物をはずしてやると、そう叫んだ。アホくさい。
「そちらに勝ち目ありますか?私が貴方を取り押さえているのは正当防衛ですし、心葉さんを保護しているのもお父様の許可を得ているので」
「それに、包丁なんざ持って来てるしな」
少し前まではよく聞いていたような、どす黒い声が聞こえた。振り向くとゴリラが立っていた。トートバッグの中をあさっている。
「…お早いお帰りだね、大樹君」
「ただいま紫苑さん。…女の子なんだから、簡単に顔殴らせんなよ」
お弁当を入れた保冷バッグの中から保冷剤を出してハンカチに包んで渡してくれた。頬が思い出したように熱を放ち始めたので、大人しくそれで冷やす。眺めてた大樹君が口を開いた。
「…で?どうすんの?」
すっかり怯えてしまった顔を眺める。金魚のように口をパクパクさせて、死にそうなくらい愉快な顔だ。
「んー、そうだな。せっかくだから大樹君に話付けて貰おうかな。僕は心葉と話すことがあるし」
そう言いながら立ち上がる。這って逃げようとした背中を踏みつけた。
「オススメのスポットに連れてってあげなよ。静かで、人がほとんど近寄らない、さ」
無言で女性を担いで行く大樹君を見送り、玄関の鍵を閉めて2階に上がる。いつも通りの静けさ。
「二人共、入るよ」
自分の部屋にノックをするとは変な感覚だ。返事を待たずにドアを開けると二人が驚いた顔をした。なんだか笑ってしまう。
「紫苑…!ごめんね…」
心葉が飛び付いてきた。少し後ろによろけたが、きちんと受け止められた。
「…大丈夫なの?」
はやとんが苦笑いで聞いてきた。大丈夫なんじゃない?と答える。
「とりあえず心葉が落ち着いたら少しお話しようか」
嗚咽を漏らす背中を撫でた。




