第五話:またね
1.
翌日。
結局犬飼は決め兼ね、最終的な判断はポチに任せることにした。
ポチはやはりまだ波紋への苦手意識が消えず、犬飼も同席してもらうことにした。
キリキリと張り詰めた空気が漂い、各々が違った緊張を抱えていた。
沈黙を破ったのは波紋だった。
ポケットに入れていた何かを取り出すと、ポチに差し出す。
「これ、ポチくんの。返し忘れてたよ」
渡されたのは空港の時にポチが失くした革紐だった。
「あ、うん・・・」
お礼も言わず受け取ると、其処に記されている文字を指でなぞる。
“親愛なる彼へ”
誰の事だろう。
何故波紋はこの文字を知っていたのだろう。
ポチにはわからない事だらけだったけれど、その謎も今から全て分かるはずだと、期待を胸に紐を首に巻く。
「それで、ぼくに話って?」
「もしかしたら気付いてるかもしれないけど、僕はキミを知ってる」
「・・・・うん」
「そして、キミの言う『彼女』が誰なのかも僕は分かった」
「え・・・?」
落ち着いて聴いてほしい。と、波紋は真剣に呟く。
ポチはゆっくりと首を縦に振った。
「キミはやっぱり、音無 水面だ」
何を言っているのだろう。
人違いだ。と、口を挟もうとした時に、「でも」と。
「でも、僕の知る水面ちゃんじゃない」
「・・・どういうこと?」
「その前に、水面ちゃんの話をしよう。昨日とは違う。彼女の生い立ちの話」
ふっ、と柔らかく波紋が言うと、ポチは少し納得がいかなかったけれど小さく頷いた。
「水面ちゃんは、家族が居ないんだ。彼女が7歳の時両親は事故で他界した。
親戚が居なかったから、9歳まで孤児院で過ごして、4年生に進級するとき、とある男に養子として引き取られた。
環境が急激に変化したのもあって、彼女は閉籠りがちになって、学校では虐めに合うようになった。
何処にも居場所が無かった水面ちゃんは、何処に居場所を作ったと思う?」
「突然言われてもそんな・・・」
口籠るポチを気にせず、波紋は言葉を被せる。
「心の中だよ」
「心?」
「もっと正確に言うなら、自分の頭の中。想像の世界に居場所を作った」
言いながら波紋は右手を自分の胸に当てた。
「そんなの、変だよ」
「変でも、水面ちゃんは実際に自分の逃げ道を自分の中に作った。だからキミが此処にいるんだよ」
「なにそれ・・・・。波紋が何を言ってるのか全然分かんないよ・・・!」
俯き拳を強く握るポチから視線を外し、部屋の隅で壁に背を預けている犬飼を見やる。
一呼吸おいて、波紋は言った。
「キミは水面ちゃんが作り出した、理想の『王子様』なんだよ、ポチくん」
2.
「はは」
「・・・」
「なに?もしかして、音無 水面は多重人格で、ぼくがそのもう一つの人格だとでも言いたいの・・・?」
「少し違うけど、そう言った方が今は分かり易いかもね」
「おかしいよ! だって、そんな・・・。ぼくは音無 水面なんて知らないし、そんなことあるなんて信じられない!!」
勢いで立ち上がり、バンッ、とテーブルに強く手を置いた。
波紋は動じずに座ったままポチをじっと見据える。
「キミは、探している『彼女』の姿かたちも声も名前も憶えて無いと言ったよね」
「そうだけど・・・今それは」
「キミは憶えていないんじゃなくて、知らないんだよ。水面ちゃんによって作られた存在だから、
実際に自分で水面ちゃんの姿を目にすることはないし、声も聴かない、名前だって必要ない。
キミと水面ちゃんは、意識でのやり取りだけだったんだから」
「なんだよそれ、じゃあ、ぼくが探してた『彼女』は、音無 水面だったってこと?
ぼくが憶えて無いと思ってることは全部、記憶が無いんじゃなくて、最初からなかったって事なの?」
「薄々は気付いてたんでしょう? キミの言葉や態度は、それを必死に、無かった事にしようとしてる風に見えるよ」
否定の言葉を紡ごうにも、ポチの心は今までひた隠しにしていた無意識の存在を認知し、声を上げることが出来ずその場に崩れた。
泣き声を上げることも、怒声を上げることも出来ず、ただ茫然と自分の首を抑え、
暫くぶつぶつとよくわからないことを呟く。
「ああ、ははは、そうかもしれない・・・。そう言われれば、波紋の言う水面とぼくの知ってる彼女は似過ぎている。
そうだ、そうだよ。彼女の事だけ忘れずに記憶喪失だなんておかしいじゃないか。なんだ、ぼくは、そうだったんだ」
波紋は放心状態に近いポチに駆け寄り、そっと囁く。
「僕は水面ちゃんからキミの存在を聞いたことがある。水面ちゃんを助けてくれる理想のヒーロー像。それがキミだ。
そして、電話で僕は言ったよね。僕とポチくんは似てるって。つまりこういうことなんだよ」
「彼女の心に波紋を作ったのは、きみなんだね・・・」
「そう。そして、水面ちゃんを追い詰めたのは他でもない僕らだ」
「え?」
顔を上げると、そこからは確かな後悔が伺えた。
波紋の瞳は悲しみの色に染まり、ポチは息を呑む。
「水面ちゃんは優しいから、僕とポチくんのどちらかひとつを選ぶことができなかったんだよ」
「・・・・・・・でも、じゃあどうしてあの時、彼女はぼくに『ごめんね』なんて・・・」
「キミは理想の存在だから。どんなに彼女の気持ちを理解できても、温もりは与えられない。キミと僕の違いは其処だよ」
「ぼくは彼女の思い通りの存在だけど、触れることは出来ない・・・」
「僕は彼女に触れることは出来るけれど、全部思い通りにはなれない・・・」
力なく波紋が笑うと、何だかおかしくなりポチもつられて笑みを溢してしまった。
「でも彼女はきみを選んだはずでしょう?じゃなきゃぼくにあんな事言わないよ」
「・・・・あの時は確かに僕を選んだのかもしれない。
けど、彼女の傍に居るべき時に、僕は居てあげられなかった。だから水面ちゃんはキミを再び作ったんだよ」
「だから彼女と最後に会った時苦しそうだったんだ・・・」
波紋を信じると決め、自分の理想像と決着を付けたはずなのに、
辛くなったらすぐにまた理想に頼ってしまった。
それは波紋に対しての裏切り行為であると。
罪悪感から追い詰められ、水面は何処かへ消えてしまった。
・・・・あれ?
「彼女は、何処にいるんだろう?」
と、ポチは小首をかしげた。
3.
自分が彼女で在るならば、彼女の意識は何故失われてしまったのか。
失われた彼女は何処へ行ってしまったのか。
其処を疑い出すと、そもそもが一つの人格ではなく、
ただの『理想像』であった自分に何故独立した意識があるのか分からなかった。
「ぼくが彼女なら、何処に彼女がいるの? どうしてぼくが此処に居るの?」
ポチの疑問に、波紋は顔を伏せ、「わからない」と首を横に振った。
「けど、仮説ならある・・・」
「・・・なに?」
「水面ちゃんはなんらかのショックで記憶が錯乱して、キミを自分の本来の人格だと思い込んでいるんじゃないかな」
「・・・・・・っ」
ポチは頭を抱え蹲った。
波紋の仮説は正しいと思えるけれど何か自分の中に違和感を感じる。
もしその仮説の通りなのだとしたら、傍に彼女の意識が存在するはずなのだ。
それなのに、まったく水面の意識はポチの中には存在していない。
まるで自分が完全に身体を奪い取ったような、完璧な感覚。
自分は自分であり、水面ではないことを示唆しているように思えた。
「違う。ぼくは水面じゃない・・・! ぼくは、・・・ぼくは一体なんなんだ!!!」
唐突な気持ち悪さに襲われポチは胸を強く抑えた。
今にも涙を零しそうなポチに驚き、波紋は背に手を回し支えようとした時、
いつの間にかすぐそばに来ていた犬飼が、まるで空港で波紋と出会った際にしたようにポチを引き寄せた。
「馬鹿な事言うな。お前は『ポチ』だ。昔がどうだろうと関係ない。俺の家族だよ」
ポチは呆気にとられて暫く呆けていると、時間差で涙をボロボロとこぼした。
口を動かしていたけれど、嗚咽で混じってうまく聴き取ることが出来ない。
犬飼はポチの頭を軽く撫で、「大丈夫だ」と告げる。
「俺は音無 水面を知らないし、お前が昔どんなだったかも興味ない。俺が知ってるのは今のお前だけだからな。
心配するなよ。水面が居なくても俺が居てやる。誰もポチを愛さなくても、俺がめいいっぱい愛してやるから」
弟が居たらこんな感じなのだろうか? と、犬飼は思った。
相変わらず大事な時はぶっきらぼうに笑う犬飼に抱かれ、ポチは徐々に大人しくなる。
「犬飼くん駄目だよっ・・・!」
か細く呟く波紋の声に反応しようとした時だった。
ポチが犬飼を突き飛ばし二人から逃げるように距離を置く。
「嬉しくない!」
涙を流したままハッキリとポチは叫ぶ。
「気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いっ!!」
「ポチ?! 大丈夫か!!?」
犬飼が近づこうとするとポチは反射的に「来るな!」と叫び、直ぐにハッとしてボロボロと雫を零す。
「ごめん・・・犬・・・、ぼく、は・・・・もう此処には居れない、居たくない」
ふるふるとゆっくり首を左右に振ると、犬飼の返事を待たずにポチは靴を履くこともせずに外へ飛び出して行った。
「ポチっ!!」
すぐさま追いかけようと、その場に佇んだままの波紋が低く告げた。
「やってくれたね・・・犬飼くん」
「なっ・・・」
「キミは言うべきじゃない事を彼に言ったんだよ。僕には彼の気持ちが少しは分かる・・・。
僕だってあんな事言われたら気持ち悪いと思うけど、彼は水面ちゃんの作った理想像だ。僕以上にそのことには敏感なんだよ」
「言うべきじゃないって、俺は何も―――」
「犬飼くん、人形姫の王子に誰よりも似ていたのは誰だと思う?」
「今はそんなこと関係ないだろ・・・?早くあいつを追わないと・・・」
嫌な予感がする。と言おうとすると、波紋は無視して棘のある言葉を放った。
「人形姫の王子は水面ちゃんだよ」
その言葉に犬飼は目を見開いた。
「水面ちゃんからすれば僕らは王子だっただろうけど、本当は逆だったんだ。彼も僕も水面ちゃんの人形。
彼女が一番、僕らを閉じ込め愛したがってた。そして僕らもまた、彼女に愛されたかった。
彼女が居なくなってからようやくこの事実に気付いたよ。・・・本当に縛られていたのは僕らだったんだ」
だから僕もポチくんも彼女を必死に探していた。と、付け足すと、波紋は小さく笑った。
「彼女以外からの愛は要らない。彼女以外からの愛なんて気持ちが悪いだけだ。僕はほんの少しだけそう思う。
でも、ポチくんは彼女が作った理想にして、彼女の心の中に、ずっと閉じ込められていた正真正銘の人形姫だ。
『彼女』以外の人物から『自分が居る』だとか『愛してる』なんて言われたらきっと・・・吐くほど気持ちが悪いだろうね」
犬飼は歯を噛みしめて悪態を吐く。
「だったら尚の事放ってはおけないだろうっ!!!」
「犬飼くんじゃもう無理だよ」
「無理だろうが無茶だろうが俺は手の届く所に居る奴は絶対助けるって決めてんだよ!」
玄関へ急ぎ、車の鍵を取り出す。
「それに、俺にとってはあいつはもう、唯一の家族なんだよ」
「・・・・」
波紋は目をまん丸にして犬飼を見つめる。
そんな波紋と顔を合わせず、「お前はどうする」と犬飼は問うた。
「・・・此処に居させてもらうよ。無いだろうけど、ポチくんが戻ってくるかもしれないから」
「わかった」
「探すなら海だよ」
「・・・・・・ああ」
4.
チク、タク、チク、タク。
静かな部屋の中、単調な時計の音だけが響いていた。
いつまで探しているのか、車ならとっくにポチの足取りに追いついて、見つけていてもおかしくないだろうに。
天気は急変し、外は雨が降り始めていた。
「ポチくん、傘持ってないから、寒いだろうな」
幾ら南の方と言えど、冬の夜、雨の中は冷えるだろう。
暖房をつけて、いつどんな風に帰ってきても大丈夫なようにしておこう。
本当は、何もしていないでいるのが酷く落ち着かなかった。
だから有りあわせの食材で夕食の支度を済ませたり、部屋の掃除やたまった食器を洗ったり、可能なことは全てやっていた。
時間が経つほどに、嫌な予感がどんどん大きくなってゆく。
待つというのは、こんなにも辛い物だっただろうか?
「そういえば、あの時僕は、水面ちゃんに『待ってて』って言ったんだっけ」
悪いことをしたなあと、今更思う。
水面を探してるうちは、怖くて水面の事を思い出さなかったけれど、思い出せば出すほど、後悔ばかりが浮かんできた。
嗚呼、なんだかまるで。
もう二度と彼女には会えないみたいじゃないか。
感傷に浸っていると、犬飼宅の電話が鳴いた。
人の家の電話を勝手に受けて良いのか分からず、暫く放置していると、留守録に切り替わり、相手の声が聞こえてくる。
『犬飼だ、これ聞いたらすぐ俺に電話しろ』
波紋はビクリとして直ぐに電話に駆け寄り、リダイヤルボタンを押した。
短いコール音の後に『波紋か?』と突然聴こえる。
「うん。わざわざ電話なんてどうしたの?」
波紋は喋りながら電話の横のメモ帳に犬飼の携帯番号を一応控えておいた。
『すまない。今病院に居る』
「!! ・・・もしかして、ポチくんに何か?」
犬飼は間を置き、低く呟く。
『ポチは、もういない。・・・・手遅れだった』
「え・・・?」
いきなりの事に動揺し、波紋は受話器を落しかけたが空中でキャッチすると直ぐに何があったのか問い質そうとした。
しかし、向こう側で医師に呼ばれたらしく『帰ったら話す』と短く告げられ、電話を切られてしまった。
それからはあっという間に時間が流れ、夜遅い時間に単身で犬飼は帰宅した。
大分気持ちの落ち着き冷静になりつつあった波紋はトーンを落として尋ねる。
すると犬飼は、一見すると普段と変わらない調子で、けれどどこか悲しげに応えた。
「ポチは死んだ」