第二話:ごめんね
1.
翌日。
朝7時にポチは叩き起こされた。
「出かけるからさっさと顔洗って着替えろ」
眠い目を擦りながら、ポチは寝室を後にし、洗面所へ向かった。
「犬~・・・、ぼく、シャワー浴びたい」
「お前朝派か・・・・。タオル用意しとくから入ってろ、着替えはこれな」
着替えを受け取り、ポチはのそのそと風呂場へ向かった。
その後ろ姿を見ながら、朝に弱いんだなぁと犬飼は思った。
綺麗なバスタオルを持って行き、風呂場の扉越しに犬飼は声を掛けた。
「タオル着替えの横に置いとくからな」
「わかった」
先程の様な寝ぼけた声ではなく、今度はしっかりとした返事だった。
シャワーで目が覚めたのだろう。
犬飼はその場を後にし、リビングで軽い朝食の支度を始めた。
丁度、トーストが焼けた時だった。
風呂場の扉が開く音が聞こえたので、犬飼はテーブルに食器を並べ始めた。
ぺたぺたと裸足の足音が聞こえ、リビングのドアが開くと、タオルを腰に巻いた状態のポチが其処にはいた。
犬飼は困惑で動きを止め、手に持っていたバターナイフをそのまま地面に落とした。
「ぼくの服は何処?もう乾いてるよね?」
「あ、・・・ええと」
視線を外すことも出来ず、頬を染めるなんて初心なことも出来ない犬飼はただ固まったままぎこちない声を出した。
いくら意識は男だと言えども、体は女の子なのだから、その辺の常識はわきまえてほしいものだと、冷静に考えてしまった。
そんな犬飼に疑問を抱き、ポチは眉を顰め「どうしたの?」と言う。
「なあ、ポチ。とりあえず、そのままじゃ風邪ひくから、一旦さっき渡した服に着替えろ」
「え、でもぼくの服」
「いいからいいから。話はそれからする」
「・・・・わかったよ。このままじゃ寒いし、ちょっと待ってて」
「おう」
駆け足でリビングを後にしたポチを見て、犬飼は深く溜息を吐いた。
「自覚・・・あったらしてないかぁ・・・・あいつは馬鹿なのか・・・?」
落したナイフを拾いながら、小さくつぶやいた。
ナイフを洗い直し、今度はテーブルの上のバターの脇に置いた。
ほどなくし、ポチがぶかぶかな服を着て戻ってきた。
「でかい」と、文句を言うポチに、「我慢しろ」と犬飼は適当にあしらう。
「んで?どうしてぼくの服が無いの?」
「起こしたときに言ったと思うが今日は出かけるからな、身元が分かる服は着ない方が良いだろ」
朝食をとりながら、犬飼とポチは会話を始めた。
「なんでぼくも出かけるの?何処に?」
「町の方。それなりにでかいデパートがあるから、お前の衣服類を調達する」
「い、いいよ。ぼく、大きくても犬のお下がりで我慢するから」
「お前が良くても俺がよくない。下着類どうするんだよ」
犬飼の言葉に、ポチは小さく困惑の声を漏らした。
そこで、やっと自分の姿が女であることを思い出したようで、急に顔を真っ赤にして、テーブルを「バンッ!」と叩いた。
それは恥ずかしさで真っ赤になっているというよりも、純粋な怒りで顔を真っ赤にしているという感じだった。
「どうしてさっき言ってくれなかったの!?」
「いやいやいや、言ってたら今と同じように怒るだろ?」
「もしかして、この体が目当てなの!?変なことする心算なんでしょ!」
ポチからの罵倒が始まったが、対して犬飼は冷静だった。
「お前の様な甘ちょろなガキに発情しないから安心しろー」
「う、うぐぐぐ・・・・」
此処で余計怒るのも変な誤解を招きそうだと思ったポチは、完全に納得はいかなかったが渋々と引き下がった。
「さっきの話の続きな。いくら心が男でも体が女なんだから、常識的なたしなみを持った服装をすべきだと俺は思うわけ。
あと、服買うにしたって、お前の寸法なんぞ知らんから一緒に行って試着しなくちゃならん」
「・・・・まあ、賛成ではある」
ポチはバターとイチゴジャムを塗ったトーストを頬張り、返答した。
「ポチも自分で好きな服選びたいだろ。・・・と、食材も買いこまないといけないな」
「なんか、ごめん」
犬飼が食べかけのトーストを皿に置き、買い物メモを書こうとした時、ポチは小さくつぶやいた。
「気にするな」
犬飼はポチの頭をポンポンと撫でた。
2.
2時間半のドライブを経て、犬飼とポチは町のデパートに来ていた。
デパートの周辺地域のみ集中的に開拓され、都会の様になっていた。
ここらで流行のものや様々な服を扱っているのはこのデパートだけなので、自然と若人は此処に集まっていた。
7階にも及ぶこのデパートは、若い人たちで活気あふれていて、ポチは一瞬たじろいだ。
犬飼を盾にするようにピッタリとくっつき、ポチは物珍しそうにキョロキョロと辺りを見回している。
勿論、犬飼は「邪魔だなあ」と思いつつも、さっさと用事を済ませるべく衣類コーナーのある階へ足を動かしていた。
「なんか、人がいっぱいで変な感じ・・・」
「お前は結構慣れてるもんだと思ったけどな。服の感じとか装備アイテムからして、都会っ子ぽかったから」
「す、少なくとも、ぼくは1対1の対談しかしたことないと思う。こんな、人の群れ視るのは初めて・・・多分」
「群れって・・・」
エスカレーターに乗りながら犬飼はポチの妙な言葉に呆れた声を出した。
「犬は、人混みとか平気なの?」
「まあ、普通だな。押し競饅頭っつーくらい多かったらそりゃ流石に嫌だけど」
「そっか」
ポチは帽子を深く被り直し、少し安堵した。
衣類コーナーを訪れた犬飼は、ポチに適当に選んだ婦人服を買い渡した。
疑問符を浮かべるポチに対して犬飼は「それを着て下着買ってこい」といくらかお金を渡し待ち合わせをすることにした。
犬飼は待ち合わせをしているベンチに座り、ぼぅっと中空を見上げていると、耳に痛い女性の声が聴こえてきた。
「あらあら!犬飼先生じゃありませんか?此処で会うなんて珍しい!」
その声に「げっ」と、犬飼は心の中で呟いた。
ぎこちない笑顔を浮かべ、女性の方を向く。
「どうも、中山さん。ほんと、奇遇ですね」
「あたくし、今日は此処の喫茶店で女子会をするお約束をしていましたの!犬飼先生もどうです?」
如何にもお金持ちの夫人という風貌の、中山という女性は犬飼の腕に手を回した。
犬飼は香水くさいなあと、どうでもいい感想を脳裏に浮かべながら、直ぐにその手をほどいた。
「すみません、私の方も此処で待ち合わせを」
「まあ、もしかして、お仕事の打ち合わせですか!?」
「いやぁ、そういうわけではないんですけども」
「でしたら、是非ご挨拶だけでも!」
どうしてこの人は全く引き下がらないんだろうと、犬飼は苦悶した。
心の中で頭を抱えていると、背後からハスキーな声が聞こえてきた。
「犬飼おじさんっ」
振り返ると、自分が今朝渡した服に着替えなおしたポチが其処に居た。
先程買った婦人服は、ポチが手にしている袋の中にお粗末に詰め込まれていた。
にっこりと今まで見せた事の無いような可愛さを全面的に押し出したかのような愛想笑みを浮かべ、犬飼の手を取った。
「犬飼先生、この子は?」
「あ、この子は、ええと、遠縁の子で、今私の家で預かってるんですよ」
「はじめまして」
「まあまあまあ!そうなんですの!可愛らしい子ですこと!」
「ありがとうございます」
にこにこと邪気のない笑みを浮かべ、ポチは爽やかな声を出した。
なんだか、何処かのホストみたいだなあと犬飼は思ったが、口には出さなかった。
暫く犬飼はのけ者にされ、ポチと中山夫人の会話を黙ってみていたが、
ポチが言葉巧みに話を切り上げたので、小さく別れの挨拶をして中山夫人を見送った。
「はぁー、疲れた」
開口一番にポチは溜息を吐いた。
「お前凄いな」
感心の声を漏らし、犬飼は心の中でさっきのポチに「秘技、ホストスマイル」などと密かに技名をつけた。
そんなことを知る由もないポチは普段通り可愛げの無い顔で「別に」と返した。
「ところで、先生って?」
「昨日も言ったけど、俺、作家してるから。それで、センセ」
「ほほう」
「っつか、俺はおじさんじゃない」
「しょうがないよ。それとも、あんないかにも面倒くさそうなおばさんの前で犬って呼んでも良かったの?」
「うっ・・・・まあ、今回だけだからな・・・・次からは『お兄さん』な、分かったか?」
「憶えてたらそうする」
ポチは再び帽子を深く被りなおした。
帰りの道中、犬飼は車のガソリンが減っていることに気付き、少し遠回りをしてガソリンスタンドへ寄った。
ポチは昨日から大切そうに持っていた紐を首に巻き、チョーカーの様にしていた。
それに対して犬飼は「首がしまったら危ないからやめろ」と言ったが、ポチは断固として紐を解こうとしなかった。
なんでも、ポチにとってとても大切なものらしく、常に意識できる場所に付けたいそうだ。
ポチはヘッドフォンを首から下げ、音楽プレーヤーを弄んでいた。
そんなポチを横目で見て、犬飼はふと思った。
「その中って、どんな曲入ってるんだ?」
「色々。ロック、ポップス、クラシック、テクノ、バラード、民族調、造語歌、洋楽、邦楽、ミュージカル・・・ドラマも入ってる」
「何曲くらい?」
「1586曲」
「せっ!!?」
さらりと教えられた曲数に犬飼は驚いた。
そんなにあって聴ききれるわけがないだろうと、心の中でツッコミをいれる。
ポチは犬飼を無視し、「まだ沢山容量余ってるけどね」と言った。
「一体どんだけ入れれば気が済むんだよ・・・」
「まあ、気分に合わせて聴く曲を変えるから良いんだよ」
「なるほどなぁ」
犬飼は運転をしながら車の音楽プレーヤーを弄った。
音量をゼロにして、プレーヤーの差込口を露出させた。
「俺にも聴かせろ。なんかおすすめの奴」
「・・・・じゃあ、いまのぼくの気分でお勧めな奴」
それだけ言うと、ポチは差込口にプレーヤーを挿入し、ピアノ弾き語りのプレイリストを再生させた。
ボーカリストはウィスパーボイスで歌い、ピアノの音は優しく響いていた。
何処か切なさの含まれた音楽に耳を傾け、犬飼は無言で車を走らせつづけた。
3.
ポチと犬飼が帰路に立っている時、八代学園では行方不明の少女の話題で学生達がざわめいていた。
生徒達が口々に、行方不明の少女―――音無 水面の良からぬ噂をしている中、唯一人、呆然と事態を呑み込めていない少年が居た。
「水面ちゃんが・・・行方不明?」
音無 水面という少女は、もともと人付き合いがあまり上手い方ではなかったので、友人は少なかった。
水面は勉強が出来る方ではなかったし、運動も人並み以下で、水面自身も自分にはなにも出来ないだろうと思う程で、様々な経緯もあり、普通クラスでは何かと問題児として扱われたり、周囲から疎まれることはよくあることだった。
いつの間にか特別編成クラスへと移され、一度は根を落ち着かせるもすぐさま学園中の注目を集めることになってしまった。
中学時代の彼女は、一目見れば落ち着いているようにも見えたが、内心は窶れ、荒れ果てていた。
独りでいることの多かった水面は次第に独り言をつぶやくようになり、そのせいで余計気味悪がられるようになっていった。
そんな、音無 水面にとっての最悪の中学時代に、水面はとある少年と出会う。
その少年は、親が有名人で、お金持ちで、本人もかなり頭がよくスポーツ万能。何でもできる、
正に完璧な、水面とは対照的な少年だった。
そんな完璧少年と問題児である水面との間にどんな関係があったかなんて、誰も知ることではなかっただろう。
二人は密かに恋人同士になり幼いながらも将来を誓っていたのだった。
八代学園特別編成クラスへ移されてから起きた、学園中を騒がす事件は、正にそれだった。
誰にも知られていない水面と少年の関係があっけなく暴かれ、その矛先はすべて水面にぶつけられた。
親が有名人で、誰からも好かれる人気者の少年に矛先を向けるものが居ないのは至極当然。
それからの水面は、まるで中学時代に戻ったかのように、心が荒んでいた。
少年はそんな水面を心配し、気にかけていた。
少年だけではない。数少ない友人等も、その水面の異常なふさぎ込みをとても心配していた。
人の噂も七十五日。
事件は落ち着き、水面も徐々に回復していった。
何も問題はなかった。
友人や少年は、心から「よかった」と安堵した。
けれど、違った。
音無 水面の心は、回復などしていなかったのだ。
行方不明という現状を突き付けられ、少年はやっとそれを理解した。
「水面ちゃんを、探さなきゃ・・・・!」
居てもたってもいられず、少年は駆け出した。
4.
家に着くと、犬飼は寝室から自分の物と客用の布団一式を持ち、隣の部屋へ入った。
ポチがその部屋について尋ねると犬飼は「仕事場」と短く答えた。
「ポチは今日買った服とかお前の荷物寝室に運んどけ、食材はリビングな」
「う、うん」
言われたとおりポチは玄関に置きっぱなしになっている荷物を運んだ。
その間犬飼は寝室と仕事部屋を何度も行き来していた。
「なにか、ぼくが手伝えることある?」
「じゃあお茶入れてリビングで待ってろ。すぐ終わるから」
「何茶?」
「今日買ったなんとかって奴」
「なんとかって・・・・」
「ポットは食器棚の中。IH用やかんは食器棚の下の引き出し」
「はーい」
買い物袋から紅茶の缶を取り出し、教わった場所からポットとやかんを出した。
やかんに水を入れ、IHヒーターに乗せ、温め始める。
その間にポットに茶葉を入れ、カップを用意しようとした。
「犬ー、カップはー?」
大声で尋ねると、ほどなくして犬飼から返答がくる。
「俺のは食器置きにある黒のマグカップだ。お前は棚から好きなの使えー」
「うーん」
暫くしてお湯が沸けたので、丁寧にお茶を淹れた。
何処で覚えたのかは分からなかったけれど、蒸らし時間を頭の中で数える。
カップに注ぐと、紅茶の香りが鼻をくすぐった。
ポチは黒猫のシルエットが描かれた白いマグカップを選んだ様だった。
リビングの椅子に座り、紅茶を一口含んむ。
すると、リビングのドアが開き犬飼がやってきたので、「淹れたよ」と伝えた。
「さんきゅー」
犬飼は向かい側の椅子に座り、カップを手に取った。
「何してたの?」
「何って、見てて分かんねえの?」
「残念なことに」
「はぁー・・・・寝室を片したんだよ」
「どうして?」
全く分からないという風なポチに犬飼は面倒くさそうに頭を掻いた。
「なんつーか、あれだよ。あれ、お前の部屋」
「・・・もしかして、ぼくのために部屋を開けてくれたの?」
「そうだよ。お前はさっきから一体何を見てたんだ?」
「うっ・・・。別に、ぼくは部屋なんかなくてもいいのに」
「気にすんな。どうせ寝室あんまり使ってないからな」
犬飼は紅茶を一口飲み、「美味い」と言った。
あんまりにも犬飼が平然としているので、ポチはその好意に素直に甘えることにした。
そんなポチを見て、犬飼は満足げに頷いた。
「そこでだ。お前、家事は出来るか?」
「?・・・掃除と洗濯なら・・・料理はレシピ見ながらなら出来ると思う」
「わかった。じゃあポチ、お前は掃除と洗濯担当な」
「は?ええと、それって」
「まあ、此処に住むっていうなら、最低限家事は分担するべきだろ」
「それが、ぼくの役割ってこと?」
「そういうことだ。最初は教えてやる」
最初こそ驚きはしたものの、それで此処に住まわせてもらえるのなら安いものだと、ポチは活気付いた。
「ぼく、やるよ!」
「いい返事だな、んじゃ、後で教えてやる」
「うん!」
こうして、ポチと犬飼の同居生活は始まったのだった。
5.
少年は外出許可証をぎゅっと握りしめ、佇んでいた。
海沿いを一人深刻な顔で歩く。
水面という少女を探して、たった一人。
人とすれ違う度に、少年は携帯電話に残った水面の写真を見せ、彼女を見かけなかったか尋ねた。
学校の大人たちは今頃必死になって探しているだろうが、少年は彼らよりも先に水面を見つけなければいけなかった。
少年は大人を信じてはいなかった。
自分ならば彼女を見つけられると、信じていた。
たった一つの手がかりは、海。
暫く歩いていると、携帯電話が鳴った。
水面からなのではと期待を込めて携帯電話を取り出すと、そこには“八代学園”と記されていた。
肩を落とし、空を見上げると、空はいつの間にか暗くなって行く。
外出可能時間をとっくに過ぎていることに気付かなかった。
「もしもし・・・」
教員は少年に、早く戻ってくるように言った。
それに適当に答え、少年は電話を切った。
そのまま帰路を急ごうと、歩みを止めた時だった。
浜辺に小さな海の家が建っているのが見えた。
少年は一瞬迷ったが、尋ねるだけだからすぐ済むだろうと、海の家へ向かった。
まだギリギリ営業をしている時間なようだったので、戸を引き少年は中に入った。
「すみません、ちょっとお尋ねしたいことがあるのですが」
「はぁーい、ちょっと待っててくださいね。大地ー」
海の家の女店主は厨房で何やら手が離せないようだった。
「あいよ~」と裏口から声が聞こえ、そこから店主の息子である青年が現れた。
「どうしたっスか?道に迷ったんスか?」
こんな何もない単調な道でどう道に迷うのか少年は不思議に思ったが今は水面を探すことが先だ。
少年は携帯の画像フォルダを開きながら人を探していることを説明した。
「この子なんですが、この辺りで見かけませんでしたか?」
少年は携帯電話を青年に見せる。
青年は眉を顰めてじーっと写真を見詰めた。
「この子の写真って他にあるッスか?」
「え?はい、えと、これです」
別の写真を開き青年に再び見せると、青年は「やっぱり」と呟く。
「見かけたんですか!?何処でですか!?」
「い、いやぁ、その、この子昨日浜辺で倒れてたんスよ!此処で看病してたッスけど」
「ここにいるんですか!?」
少年は逸る気持ちを抑え、それでもものすごい勢いで青年に詰め寄った。
そんな少年を見て、青年は申し訳なさそうに笑んだ。
「それが・・・・」
少年は、水面が此処を出て行ったことを聞き小さく落胆した。
それでも精一杯笑顔を作り、きちんと御礼を言って帰路に立った。
「水面ちゃん、何処へ行っちゃったの?」
星の煌く空を見上げ、ぽつりと言葉を吐いた。
6.
ポチと犬飼が出会ってから、瞬く間に一週間は過ぎた。
犬飼との間に取り決めた役職を、ポチは完璧にこなしていた。
それなりに器用なようで、手際よく掃除と洗濯を済ませた。
そうなると必然的に暇ができる訳で、ポチは堂々と外に出れる身ではないので室内でだらだらと過ごしていた。
書斎に籠り其処にある本を時々読んだり、犬飼からパソコンを借りて世界情勢を覗いたり、
時々犬飼の仕事の手伝いなんかもしていた。
そんなポチの生活を見て、「このままでいいのだろうか」と犬飼は悩んだ。
やるべきことはやっているし、自分から勉強もしている、仕事の手伝いもしてくれてる。
しかし、ずっとここで引き籠っている訳にはいかないだろう。
そこでふと、犬飼はポチと出会った時の言葉を思い出した。
「なあポチ、お前、女の子探してるんじゃなかったか?」
「・・・・うん」
ポチは手に持っていた本を閉じ、小さく頷いた。
「その子に会いに行かなきゃいけないんじゃなかったか?いいのか?」
「・・・探すにしたって、何処にいるか分からないもん。彼女がどんな子だったかも憶えて無いから・・・」
「そっか」
「それよりも!犬は、今日仕事しないの?やけにのんびりしてるけど」
「ああ、そうそう。言い忘れてた」
犬飼はカレンダーのメモを見た。
「今日、2時から仕事関係のお客が来るから」
「えっ?それってぼくやばくない?」
「平気平気。変に隠れてるよりも堂々とお茶出すくらいしてた方が案外ばれねえよ」
「そうかなぁ・・・?」
「前も言ったけど、お前は俺の遠縁の子な」
「作家に憧れてて冬休み中無理行って泊まり込みで仕事見学させてもらってる可愛い男の子でしょ?分かってるよ『犬飼おじさん』」
「『おじさん』じゃなくてせめて『お兄さん』にしろ・・・・」
「あー、そうだったね」
「つか、無理してそんな呼び方しなくていい。いつも通り自然にしてろ」
犬飼はそう言い、ポチの頭を撫でた。
それからというもの、特に変わったこともなく時間は流れた。
2時を少し過ぎた頃に、インターホンの音が響き、ポチは少し身構える。
犬飼はリビングにある親機で何とも気だるげに応接する。
その間にポチはキッチンでお茶の用意をした。
玄関のドアが開く音がして、犬飼は廊下へお客を出迎えに行く。
廊下から何やら話し声が聞こえる中、ポチはドキドキと緊張しながらも人数分のお茶を淹れた。
戸棚の中からお盆を取り出し、丁寧にカップを上に乗せる。
犬飼と客人等はすでにリビングの椅子に腰を掛けているようだったので、ポチは一回深呼吸をしてお茶を運んだ。
「し、失礼します」
「おや?先生、この子は?」
客人の男が尋ねると、ポチはビクリとして顔を伏せた。
犬飼はそんなポチの襟首を掴み引き寄せて「ああ」と相槌をうった。
「暫くの間預かることになった遠縁の子です。ほら、挨拶しろよ」
「うぇ?・・・ええと、初めまして、ポチって言います」
少し緊張しつつも、にっこりと笑顔を作ってポチは挨拶をした。
客人の女性は目をまん丸くして「変わった名前ね」と返した。
「仕事の邪魔になるから、お前部屋に行けよ」
「う、うん。それじゃあ、失礼します!」
お盆をキッチンカウンターに置き、ポチはそそくさと自室へはけた。
それを見送る犬飼に、女性は「いい子ですね」と微笑した。
「お茶を淹れるなんていう小さな気遣いが出来ない子って、最近多いですよ」
「まあ、良識はある方だとは思いますけどね」
「可愛らしい助手さんが居て良いですね」
「茶化さないでください・・・」
「でもま、確かに有能な助手だな」と犬飼は心の中で思った。
お茶酌みだけではない。
仕事で表現に悩んだ時には、ポチが呆気なくそのヒントをくれた。
勿論ポチにはヒントを与えているつもりは無いだろうが、犬飼にとってはその偶然がポチの才能の様に思えた。
「ま、雑談はこの位にして・・・―――――」
7.
『一人きりになると、何かを思い出す。彼女の記憶。ぼくが其処に行くと、彼女は何時だって微笑を携えていた。
ぼくは彼女と居る時幸せだったし、彼女もぼくと居る時は何よりも幸せだったはずだ。
ぼくが「大好き」と言えば、彼女は「私も大好き」と返事をした。少し間を置いてから「きみのこと大嫌いよ」と彼女は笑んだ。
「どうして?」と聞くと、彼女はいつも「きみの全部が嫌いなのだから仕方ないわ」と言った。
知ってた。
ぼくの存在自体が否定されていることは。
知ってた。
彼女がぼくを誰よりも愛していたことは。
だから彼女は、それが許せなかったんだ。
彼女の価値観に、思考に、ぼくはあってはならなかった。
彼女が彼女で在る為には、ぼくは在ってはならなかった。
それでも、知っていた。彼女にはぼくが必要だった。
ぼくは彼女の安定剤。
彼女に望まれることが、ぼくの存在理由なんだ!』
『ぼくが其処に行くと、何時ものように彼女は微笑んでいた。
沢山沢山会話をしたけど、その時だけは彼女は何を言っても悲しそうに微笑むだけだった。
「私、きみが嫌いよ」
「うん。知ってる。・・・・ねえ、何か変だよ。いつものキミらしくない、どうしたの?」
ぼくの問い掛けに、彼女は「あれが何か分かる?」と何かを指差した。
示された先には底の深いお皿が置いてあった。
彼女はそれを持ち上げ、ぼくに中を見せた。
お皿には水がいっぱいに汲まれていて、少し揺れただけで零れてしまいそうだ。
「触ってごらん」と、彼女に言われて、ぼくは水面に触れた。
水の冷たい感触がして、指先が湿った。
けれど、お皿の水は一切波紋を作らなかった。
驚きを隠せないぼくに、今度は彼女が自ら手に持ったお皿を揺らした。
けれど水面はピクリとも動かない。
「どうして?」
「あははっ、これはね、私の心の水面なの」
「心の水面?」
「そう。だから、指先でほんの少し触れただけじゃ、私の心に波紋は広がらない」
「へえ」
彼女はお皿を地面に置き、上を向いた。
「何をしてるの?」と聞くけれど、彼女は答えを返してくれなかった。
しばらくして、彼女が再び口を開く。
「さっきも言ったけどね、この水面は簡単に波紋を作らない。
それは何故かって言うとね、他人に干渉してほしくないって思ってるから。
他人に干渉されれば、この水面は直ぐに波紋を描く。私はそれが嫌で人との関わりを避けていた。
だから、いつの間にか干渉されても心が動かなくなってしまった。
でもいいの。それって私にとってとても素敵なことだから。誰からも干渉されなければ、安心してきみと居られるもの」
彼女の言葉を無言で聞いた。
ぼくは彼女の知り合いにあったことは一度もなかったけれど、どんな奴らなのかは知っていた。
だからこそ、彼女の誰からも干渉されたくないという気持ちが少なからず理解できた。
「だったら、それでいいんじゃない?」
「そうね、そうなの・・・そう、思っていたかったの」
彼女が言葉を濁したときに、ぼくは直感で理解した。
彼女は、ぼくの知る彼女ではない存在に成ってしまった。
「私の水面に、不届きにも波紋を創った人がいる」
悲しそうに彼女は告げた。
すると何処からか小さな石が彼女の水面に投げ入れられた。
みるみるうちに、波紋は広がり、広がるほどに彼女のぼくを見る目は悲しみを増した。
「この小石、何度も何度も取り除くけど、いくら取り除いても、あの人は私に波紋を創る・・・もう、今のままではいられないの」
彼女はちいさく、「ごめんね」と言った。
なーんだ。
もう、ぼくは必要ないじゃないか。』
思い出すたびに、彼女から貰った宝物の“革紐”を握りしめた。