第一話:さよなら
1.
其処は海の家だった。
少年が目を覚ますと、その店の女店主は慌てて駆け寄り、店主の息子であろう青年も、少年の傍へ来た。
「やっと目が覚めたんだね!大丈夫かい?一体何があったんだい?」
心配そうに問いかける店主に、少年はハッキリしない意識で問い返した。
「あの、ええと・・・、ぼくは、一体?」
「きみは浜辺で倒れてたんスよ。たまたま僕が見つけてここまで連れてきたんス」
「浜辺・・・?」
「あんた、何にも覚えてないのかい?困ったねぇ・・・」
少年は少しの間俯いていたが、直ぐに顔を上げて二人に向き合った。
「あの!助けて下さって、アリガトウ、ございました・・・!ぼく、行く場所があるので失礼します!」
深々とお辞儀をして、少年は店主の制止も聞かずに海の家を飛び出した。
空は茜色に染まり、夜の訪れを告げようとしていた。
「行く場所がある」と言って飛び出してしまったけれど、少年には行く当てもなく、一体こうなる以前に何をしていたのか全く分からないけれど、体中を襲う疲労と空腹に、少年は抗いきれずにその場に倒れ込んだ。
虚ろな意識のなか、少年は自分の事について口に出しながら考えていた。
本人は口に出しているつもりは無いのだろうが、霞んだ意識の中、無意識に口に出しているのだろう。
ブツブツと状況の整理をする。
此処は何処なのか。
今は何時なのか。
一体何故こうなっているのか。
「ぼくは、誰だろう」
少年は最後にそう呟き、そこで意識が途切れた。
すぐそこに迫っている男の影に、気付かぬままに。
2.
少年が再び目を覚ますと、今度は海の家とは比べ物にならないフカフカなベッドの上だった。
ぼんやりとした意識のまま、辺りを睨め回す。
誰かの寝室のようだった。
とりあえず、此処にいては状況がつかめないと思った少年は、ベッドから足を降ろし、立ち上がろうとした。
けれどあまりの疲労に力は上手く入らずよろけてしまい、慌ててベッドに片手をついた。
少年はここでこのままうずくまりたい気持ちになったけれど、
このままでいる訳にはいかないと、気持ちを切り替えて片手を壁に付け、壁に沿うようにして何とか歩き出した。
童謡か何かに、空腹で「お腹と背中がくっつく」という表現があったのを思い出し、まさにそんな感じだなあと、
もう片方の手でお腹を押さえた。
部屋を出ると短い廊下があり、隣の部屋から灯りと共に人の気配を感じた。
反対側の廊下をまっすぐ進んだ先には玄関らしき場所が薄らと見え、
少年はどちらへ向かおうか一瞬悩んだけれど、直ぐに不思議な焦燥感にかられて玄関へ急いだ。
少年が履いていたであろう薄汚れたスニーカーの隣には綺麗な革の靴が置いてある。
先程の寝室の際も感じたが、この家の主はとても几帳面なようだった。
靴は綺麗に外向きに揃えるように置かれている。
未だにハッキリしない頭で少年はそんなことを考えていたが、背後から人の足音を感じ、ハッとした。
いそいそとスニーカーを履き、玄関のドアへ手を掛けた。
少年が玄関のドアに手を掛けたのと同時に、廊下の一番奥、灯りがともっている部屋のドアが開く音を聞いた。
そのドアからどんな人物が出てくるのかを確認することなく、少年はドアにかけていた手を押した。
一瞬よろけて前に倒れそうになるが、残り少ない力でグッと体を支えた。
「あ、おい・・・!お前!」
背後から男の声が聞こえたが、少年は振り返らず全力で駆け出した。
急に動いたせいで頭のなかがグラグラしていたが、それでも足を前へ前へ進める。
体を支えるために力を込めたのもあって、腹の虫も聞こえてきた。
少年は力いっぱい走っていた。
少年の意識にとって、それは何からでも逃げられるほどの速度だったのだろうが、
疲労で一度倒れた体では、実際はそんなに速度を出せていない。
男は速足で少年に追いつき、少年の服の襟を掴んだ。
抵抗しようとするが、ぐちゃぐちゃになった頭ではどうすればいいのか考えられず、
暫く落ち着くまで何も言わずにいたけれど、落ち着いてから考えてみると、抵抗するのも馬鹿らしく思えてしまい、渋々と男に倒れ込んだ。
男は少年の体をしっかり抱え、まるで荷物でも運ぶかのように少年を肩に持ち上げた。
少年は男に問うた。
「どれくらい寝てた?」
「5、6分じゃないか?人ん家の前でぶっ倒れてるから、死なれても困るし、ベッド貸してやってたんだよ」
尋ねようと思っていたことを先に言われたので、少年は「そう、ですか」と呟くことしかできなかった。
少年が脱力すると、男の耳元で「ぎゅろろろろ」とお腹が鳴った。
「やっぱ、腹減ってたか。軽く夕飯作ったからまずはそれ食え。話はそれからな」
「あ、その、アリガトウ・・・ございます。でも、そんな、ご迷惑じゃ?」
「迷惑だと思うなら人ん家の前で行倒れるな」
「す、すみません」
3.
再び男の家へ戻る際、ちらりと見えた表札には「犬飼」と描いてあった。
男の見た目からは想像もつかない渋い表札をぼんやり眺めていた。
持ち上げられていた体がやっと下ろされたのは玄関だった。
犬飼というらしい男はさっさと自分だけ廊下の一番奥の部屋へ向かった。
「靴くらい自分で脱ぐように」
とだけ素っ気なく言い残し、奥の部屋のドアを開けた。
少年はスニーカーを脱ぎ、また壁伝いにゆっくりと歩き灯りの灯る部屋へ入った。
部屋に入ると、美味しそうな匂いで溢れていて、再びお腹が小さく鳴った。
辺りを見回すと、テーブルの前に立った犬飼が無言で手招きをしていた。
「ほら、此処座れ」
少年は言われた通り椅子に座り少し身構えた。
そんな少年の事を気にも留めず、犬飼はカウンターに置いてあった料理を少年の目の前に置いた。
「これ、お前の分な」
「いいん、デス、か?」
「そのたどたどしい敬語が妙にイラつくから喋りやすいように喋れよ」
「う、うん」
「あと、細かいこと気にすんな。子供は素直なのが一番だよ」
少年は両手を合わせ「いただきます」と言おうとしたが、ふと用意されたお皿の数に疑問を浮かべた。
「あ、のさ、おっさんは食べないの?」
「おっ!?・・・・あのなぁ、俺はまだお兄さんの年齢だぞ?」
前言を撤回しろと言わんばかりの犬飼の勢いに、疲れ果てている少年は内心「めんどくさいなあ」と思った。
「・・・・・あんたは食べないの?」
見事に言葉を濁した少年に犬飼も勢いを失くし、「まあいいか」と言うかのように小さくため息を吐いた。
「俺は後で食う。普段はこんな早くに晩御飯食べないからそんなに腹も減ってない」
「そう・・・」
少年は少し安心し、今度はちゃんと「いただきます」と声を出した。
それに対して犬飼は「召し上がれ~」と気の抜けたような声で返事をした。
「・・・食いながらで良いから答えてくれよ。お前、なんで家の前で倒れてたんだよ」
「たまたまあそこで倒れただけ。お腹が減ってたし疲れたから倒れたんだよ。そんなことも分からないの?」
「・・・・・・」
気持ち的にはご飯をがつがつと口に流し込みたい少年だったが、美学に反するなあと思い箸でちまちまと口に運んでいた。
美学?
誰の?
ぼくの・・・?
そんな、どうでもいいことを一瞬考えたが、犬飼からの質問によって直ぐにその考えは霧のように消えてしまった。
「じゃあ、お前何処から来た?なんでそんな行倒れるくらい疲れてたんだ?」
「さあ、知らない」
さらり、と少年は言ってのけた。
「知らないってなんだよ」
「知らないものは知らないよ。こうともいえるかもしれない。分からないとか、記憶にないとか・・・・、憶えて無いとか」
食事の手を緩めず少年は他人事のように語った。
「それって・・・、つまり」
「一般的に言う、記憶喪失ってやつだろうね。本当に何にも憶えて無いんだ」
犬飼は額に手を当て、「面倒事に首を突っ込んでしまった」と苦悩していた。
そんな犬飼の様子を見て、今度は少年が問い返した。
「あんたはどうして、ぼくを助けたの?逃げた時に追っかけて来なきゃよかったのに」
少年の疑問に、犬飼はぼぅっと宙を仰ぎ深いため息を吐いた。
「お節介病なんだよ」
「はぁ、お節介病デスカ」
きょとんとした顔でわざとらしく少年は復唱した。
「友人が借金してたらすぐお金を貸してしまうし、迷子の子供を見つけたら一緒に親を探してしまう」
「現代社会で珍し人種だこと」
「仕事関係の人からも良く注意されるものだから、都会ではなくこんな端の端に一軒家を立ててこっそり隠居してるのさ」
「差支えなければそのお仕事とやらの話を」
少年は話を聞くのに飽きたようで適当に受け答えしつつも、殆どの意識は食事に向けていた。
犬飼という男は割と確りした人物らしく、少年が適当に聴いていることに気付いていながらも真面目に答えた。
「自由業だよ。小説家なんだぜ」
「へー」
「反応薄いな」
「そりゃ、興味ないから」
「自分で聞いといてそれはないだろ」
眉をひそめる犬飼を鼻で笑いとばし、少年は空になったお茶碗を持った。
危うく勢いで「おかわり」と言いそうになったが、これ以上迷惑をかけるのはいかがなものだろうと考えると、躊躇してしまった。
少年がお茶碗をテーブルに戻し、箸もおいて手を合わせようとした時、
ひょいっ、と犬飼が少年のお茶碗を持ち去り、炊飯器からほくほくのご飯をよそって再び少年の前へ置いた。
「子供が変に遠慮をしない」
「うわっ・・・ちょっと、おっさん!」
わしゃわしゃと少年の頭を撫で、ひとしきり髪をぼさぼさにさせると、満足したように腕を組んで少年を見下ろした。
少年は乱れた髪の毛を手櫛で整えようとして、ふと違和感を覚えた。
「あれ?髪・・・長い?」
気が付いていなかったけれど、自分のイメージよりも髪が長い気がした。
4.
「何処から来たか、どうして倒れてたかも分からない・・・か・・・」
犬飼は少年の言葉を思い出し、頭の中で整理し直しながら呟いた。
「あ、そうだ。お前、自分の名前も憶えて無いのか?」
「名前?」
少年は合掌し、「ご馳走様」と言うところに質問されたので、目をまん丸くして聞き返した。
「名前・・・」
「やっぱ、そっちも憶えて無いのか?」
俯き考える少年に、犬飼は頭を掻きながら尋ねたが、予想外にも、少年は直ぐに顔を上げ、まっすぐと犬飼を見据えた。
「名前は、無い」
少年の言葉に犬飼は違和感を感じて問い返す。
「憶えて無いんじゃなくて、無いのか?」
「そう」
犬飼は少なからず混乱した。
あんまりにも少年の態度や言葉はまっすぐだったので、嘘を吐いているようには思えなかった。
そんな犬飼の混乱を余所に、先程の質問によって言えなかった「ご馳走様」を少年は今度はきっちりと口に出し、
台所の洗い場へ食器を運んだ。
「そうか、名前無いのか。困ったな」
少年は再び椅子に座り、何やらブツブツ行っている犬飼に視線を向けた。
「あんた大丈夫?」
あんまりにも呆然としすぎている犬飼に、心配になったのか少年は声を掛けた。
すると犬飼はハッとして「大丈夫大丈夫」と軽く答える。
「とりあえず、名前無いと呼ぶのに不便だから、俺が今適当に名前を付けてやる」
「それってあんたの都合でしょ。ぼくは不便しないよ」
「お前は今から・・・・んーと・・・ポチな!昔飼ってた猫にどことなく似てるから」
「勝手に決めるな!それに何その理由!」
「いいだろ~。呼ぶだけなんだから」
「ふざけないでよ!ていうか、ぼくはあんたの名前知らないんだけど!?なんでぼくばっかり聞かれなきゃいけないのさ!」
「おぉ、悪いな。言い忘れてた。俺は犬飼 歩っつーんだ。よろしくな、ポチ」
「ぐ・・・ぐむむむ・・・・!」
ポチと名付けられた少年は怒りでテーブルをバンバン叩くが、次第に手の方が痛くなり強く拳を握るだけになった。
「もうポコでもポチでもなんでもいいよ・・・。鋏持ってきて」
深い深いため息を吐き、ポチは告げた。
犬飼は「鋏」と言われたことにぎょっとして恐る恐る聞き返す。
「な、何に使うんだよ。自殺とか殺傷とかやめてくれよ?」
「違う!!」
鋏を庇うように持つ犬飼に鋭くツッコミを加え、鋏を奪い取る。
「髪、思ったより長くて邪魔だから切る」
「なんだ、よかった」
ホッと胸を撫で下ろし、今度は犬飼がポチの手から鋏を奪った。
「危なっかしいから、俺が切ってやる。洗面所行ってろ・・・って場所分かんねえか。ちょっと待ってろ」
「ありがと・・・」
何か納得がいかないようでポチは少しムッとしていたが、素直にお礼を口にした。
犬飼は、今度は優しくポチの頭を撫で、新聞紙を取りに行った。
犬飼の先導で連れられた洗面所に入り、ポチは驚きを隠せなかった。
何の変哲もない洗面所、何処にでもある作り。
勿論、ポチはそんなありきたりの光景を見て驚いているわけではない。
驚きの原因は、其処にある鏡に映った姿。
もっと正確に言うならば、今の自分の姿を知り、驚きを隠せずにいた。
「誰・・・これ」
「誰って、お前だろ」
「違う、これぼくじゃないよ」
ポチは自らの顔や体をぺたぺたと触る。
最初は驚愕で気付けずにいたが、徐々に自覚しポチは青ざめた。
「ぼく、女の子じゃないか!?」
混乱するポチの言葉に、犬飼が「もしかして自分を男だと思ってたのか?」と問うと、ポチはぶんぶんと首を縦に振った。
「そんなぁ・・・どうして?ぼくは確かに男だしこんな顔一度も視た事なんて・・・あれ?」
「どうした?」
「見た事無い・・・わけじゃない・・・どこかで、この顔・・」
「そりゃ自分の顔なら生活の中で何度も目にするだろ」
「違う!絶対この顔、―――姿はぼくの本当の姿じゃない!・・・でも、確かに見た事あるんだ」
「・・・・」
俯き今にも泣きそうな顔で悩んで居るポチ。
犬飼は頭を掻き、深々と溜息をついてポチを座らせた。
「え?えっ?」
急に座らされたポチは少し挙動が不審になったが、犬飼は気にせず洗面台に新聞紙を敷いた。
「何?」
「髪切るんだろ。どんくらい短くすればいい?」
「あ、ああ。ええと」
この位、とポチは手で自分の髪をつまんで見せた。
それを見て犬飼は少し顔を顰め、そんなに?と聞き返してしまった。
せっかくそれなりに長い髪なのに、切ってしまうのは何だか勿体ない気がしてしまう。
「いいよ、バッサリ切っちゃって」
「えー」
「そんなこと言うなら自分で切るよ。鋏借りるよ」
ポチは鋏を奪い取り、前髪をちょきんっと切り落とす。
適当に切ったので長さがバラバラになってしまっていたがポチは気にせず右に垂らしている長い髪を切ろうとした。
「ストップストーップ!!」
そこで初めて犬飼が制止をし、ポチから鋏を奪還した。
「お前切るの下手!そろえるから大人しくしてろ!」
「い、いいよ!前髪はこのままでいい!これ以上短くしないで!」
「じゃあ他は俺が切りそろえるから」
「・・・・わかったよ」
これ以上自分で切らせたらもっと悲惨になると思った犬飼はポチを何とか説得した。
内心ホッとしながらチョキチョキと長い髪を切り落とす。
「ちょっと長くない?」
「これ以上切ったら今の時期寒いだろうから、こんなもんでいいんだよ。温かくなった頃にまた切ればいい」
ポチはほんの少し悩んだが「そうだね」とその長さで納得し、髪留めに使っていた革紐をポケットにしまった。
5.
犬飼は暗い中、車を走らせていた。
助手席にはポチが不満そうな顔をして座っている。
帽子(犬飼の物)を深く被り、顔を隠して俯くポチに、犬飼は声を掛けた。
「なあ、本当にこの辺で落としたのか?」
「多分・・・、疲れで朦朧としてたからもしかしたらあそこかもしれないけど・・・」
「ああ、さっき話してた海の家か。まずそっち行ってみるか。この辺で海の家はあそこしかないからな」
「・・・・なんでここまでしてくれるの?」
「言ったろ。お節介病。ほっとけないんだよ」
「犬って、苦労したんだね」
憐みの籠った声に「うるさい」と犬飼は返した。
ポチは犬飼の事を「犬」と呼ぶようにしたようで、犬飼も最初はあんまりだと思ったけれど、
よくよく考えると自分がつけた「ポチ」という名前もあんまりだったなあと思い、渋々と受け入れることにした。
暫く会話もなく車を走らせると、海沿いに小さな駐車場が見えた。
其処に車を止め、ポチに車のカギを渡した。
「お前待ってろ。一応車ロックしとけよ。俺が戻るまでドア開けるなよ」
「わかった」
犬飼が車のドアを閉じたので、ポチは直ぐに言われたとおりドアをロックした。
車がロックされたことを外から確認した犬飼は其処から徒歩で海の家へ向かった。
駐車場から砂浜へ降りる階段を使い、そのまま海に沿って歩く。
すると小さな建物が見えてきた。
まだ灯りがついていたので、犬飼は少し駆け足でそこへ向かった。
「すみません、誰かいますか?」
ノックをして声を掛けると、中から「今行きます」と慌ただしい返事がした。
戸が開き、其処に居たのは若い男。
この海の家の女店主の一人息子だった。
「ああ、犬飼さんじゃないッスか。どうしたんです?こんな時間に」
「いや、この辺で音楽プレーヤーとかって見つけませんでしたか?」
「音楽プレーヤーッスね、ちょっと待っててください」
青年は忙しく家の奥へはけて行き、少しすると「お待たせしました~」と帰ってきた。
「これじゃないッスか?一応今日見つけたのってこれだけなんスよ」
「じゃあ多分これだ。ありがとうございます」
「いやいや、お礼なんていいッス!って、これ犬飼さんのじゃないんスか?」
きょとんっ、とした顔で問われ、犬飼は悩んだ。
素直に言っても問題はないだろうが、犬飼は咄嗟に「あ、いや・・・」とぎこちない声を漏らした。
その声に青年は不思議そうに眉を顰めた。
「どうしたんスか?」
「実は、遠縁の子を今預かってて・・・、この辺で遊んでた時に失くしたとかなんとか」
「なぁーんだ、そうならそうとハッキリ言えばいいじゃないッスか!」
「は、ははは、すみません。とんだ悪ガキなもんで・・・」
犬飼は冷や冷やしたが青年は全く気にしていないようだった。
ホッと胸を撫で下ろそうとした時、青年は「あ!」と声を上げた。
「じゃあ、もしかしてあの時浜辺で倒れてた変な髪型の女の子が犬飼さんの親戚の子ッスかね?」
ドキリッ、と犬飼は息を呑んだ。
平静を装いつつ、「女の子、ですか?」と聞き返した。
「あれ?違うッスか?」
「今、家で預かってるのは男の子ですよ」
「そうなんスか?あの子の近くにあったからてっきりあの子のかと・・・」
「・・・じゃあ、まあ、子供待たせてるんで」
あんまり長居するとボロを出してしまう気がしたので、犬飼はそそくさと帰ろうとした。
「あ、待ってください!これも近くに落ちてたんスけど、もしかしてこれも犬飼さんとこのじゃないスかね?」
「はあ、一応あいつに確認してみます」
渡された携帯電話をポケットにしまうと、青年に別れの挨拶をし、すぐさまその場を後にした。
6.
犬飼が海の家へ行っている間、ポチは車の中で暇を持て余していた。
適当にCDを漁り、車の音楽プレーヤーで音楽を聴いていると、車のドアをノックされた。
犬飼にしては随分と戻るのが早いと思いながら窓越しにちらりとノックをした相手を見ると、それは見知らぬ男だった。
「すみません、ちょっとお話を伺いたいのですが」
そんなことを言う男に対し、ポチは無視を決め込んだ。
犬飼にも、自分が戻るまで開けるなと言われているので、大人しく音楽に耳を傾けていた。
男もそんなポチの態度を見て、深々と溜息を吐き、何やら電話を取り出して誰かと連絡を取り始めた。
暫くその状態が続いていたが、反対側のドアが再びノックされ、ポチは先程と同じようにちらりと窓の外を見た。
「おーい、ポチー、戻ったから開けろー」
なんともやる気のない声に、ポチはポケットに入れていた鍵を取り出し、アンロックのボタンを押した。
ガチャッ、と音がして、ドアが開く。
それと同時にポチは車のプレーヤーの音量を下げた。
すると外から犬飼と先程の男の会話が聞こえてきた。
何やら会話を聴いていると、犬飼が誘拐犯に間違われているようにもとらえることができた。
ポチは車から降りて、帽子で顔を隠し、犬飼を庇うように男の前に立った。
「あの、ぼく、そんなに女の子に見える?」
犬飼と男はその言葉に言い合いを止めた。
「さっきから聴いてれば、そっちのおっさんぼくのこと行方不明の女の子だと思ってるんでしょ?
犬も犬だよ、ぼくのこと遠縁の子って言う前に男だってこと訂正してよね、すごく不快」
とてつもない威圧感を醸し出し、ズバズバと思ったことを口に出すポチに気圧され、二人の男は小さく謝った。
「あと、ぼくもそんな女の子見かけてないから」
ポチはそう吐き捨て、車の中に戻った。
呆然とする男を横に、犬飼はハッとして車に乗り込み、窓を開けた。
「見かけたら、学校の方に連絡しますので・・・。それじゃ、失礼します」
そう言い残し、犬飼は車を発進させた。
不機嫌そうに頬を膨らませ、ポチは音楽プレーヤーを弄っていた。
ヘッドフォンを首に下げたまま、プレーヤーに入っている曲を確認しているようだった。
運転をしながらポチを横目で眺め、小さくため息を漏らす。
ポチが怒っているのは、自分の体が女であることに対してだろう。
今でこそ、服は犬飼のものを着て、髪を切っているのもあって中性的に見えているが、
しっかりと観察すればどうしようもなく女の子にしか見えない。
ポチが帽子をかぶっているのはまさにそれが理由だった。
幸い、声はハスキーで男にも聞こえる声だったので、犬飼は安心していた。
もし声まで女の子だったら、ポチは喋らなくなっていたかもしれない。
そこでふと、犬飼はポケットに入れていた携帯電話の存在を思い出した。
車の速度を落とし、運転をしながら携帯電話を取り出し、ポチに渡した。
「何これ?」
「音楽プレーヤーの近くに落ちてたらしい。それもお前のじゃねぇの?」
「開けて、大丈夫かな?」
「まあ、いいんじゃね?お前のかもしれないんだし」
「・・・・」
ポチは深く呼吸をし、携帯電話をひらいた。
そこには4文字の言葉が並んでいた。
感情の感じられない文字、一体その言葉にどんな意味が込められているのか、ポチにはわからなかった。
分からなかったけれど――――。
「さよ・・・なら・・・?」
消え入りそうな声で小さくつぶやいた。
「・・・どうした?」
その声に疑問を感じ、犬飼が声を掛けると、ポチは携帯電話を反対に折り曲げた。
べきりっ、と音が響き、携帯電話の画面は闇に染まる。
しかしポチはそれだけでは収まらず、車の窓を開け、その機械の残骸を外に投げ捨てた。
「あんなもの、ぼくは知らない・・・!!」
怒りとも悲しみとも取れる声を上げ、ポチは俯いた。
犬飼は声をかけようかどうか悩んだ。
声を掛けるにしても、なんて声を掛ければいいのか。
ぐるぐると思考を廻らせ、犬飼は言った。
「だとしても、ポイ捨ては駄目だろ」
「・・・・・ごめん」
7.
犬飼の家に戻り、犬飼は夕食をとっていた。
ポチはリビングのソファーに腰を掛け、膝を抱えるようにしてクッションを抱きしめていた。
「お前、行く当てあるのか?」
「多分、無い。でも、行きたい所はあった、気がする・・・。行きたいじゃなくて、行かなきゃ?だったかな?・・・」
「それは何処だ?」
「わからない、・・・けど、彼女に会わないと」
「彼女?なんか思い出したのか?」
食事の手を止め、犬飼はポチに視線を向ける。
それに気付き、ポチは目を伏せた。
「本当は、最初ちょっと嘘を吐いたんだ。ちょっとだけ憶えてたんだ。彼女の事。
顔も、名前も、声も、何も憶えて無いけど、どんな雰囲気なのか、どんな子だったかは覚えてる。
犬に会う前から、彼女を探してた。ぼくが行かなきゃいけない気がしてたんだけど・・・」
言葉を濁すポチに、犬飼は続きを促した。
けれどポチは其処から先を語ろうとせず、小さく首を横に振った。
「まあ、お前が行きたいとこってのは、その子の所なんだな」
「・・・うん、まあ」
「でも、明確な場所は分からないと・・・」
「・・・・・犬は、どうしてぼくを警察とか連れていかないの?
さっきの行方不明の子の話も、たぶんぼくの事だと思うのに、なんであんな嘘を?」
「ポチは男だろ。俺は本人の自由意思を優先したいからな。警察に行きたいって言うなら連れてくぜ?」
ポチは腑に落ちないというような顔をした。
そんなポチを気にせず、犬飼は再び食事の手を動かした。
「どうしたいか言ってみろ」
「・・・・」
「言うだけ言ってみろよ。どうすりゃ良いかはその後考えればいい」
「ぼくは・・・、」
悩み、考え、ポチはゆっくりと顔を上げた。
「ぼく、記憶を思い出したくないんだ」
まっすぐと犬飼を見つめ、ポチは告げる。
その言葉を聴き、犬飼は丁度食事が終わったので食器を洗い場へ持って行った。
ポチは続けた。
「だから、ぼくの事を知っている人に会いたくないし、帰りたいとも思わないんだ・・・」
「じゃ、ポチ、お前は今日から俺の遠縁の子だ」
「え?」
「そういうことにしとけ。そうだな・・・自由業に興味があって、弟子入りってことで上り込んでることにしとけ。
あとはポチの自由にしろ。その、『彼女』ってのを探すのもいいし、夜逃げしても構わない」
「いいの?此処にいて?」
「好きにしろー。まあ、家事くらいは手伝ってもらいたいもんだ」
「手伝う!なんなら仕事の手伝いだってする!だから、ぼくをここに居させて!」
「わかった、分かったからっ、大声出すな」
疲れてるんだよ、と犬飼は額に手を当てた。
「ご、ごめん。・・・あの、さ、なんでこんなことまで?」
「言ったろ、お節介病。何度も言わせんな」
「でも、面倒だとか、思うなら・・・かかわらなきゃいいのに・・・」
「・・・・トラウマだよ」
犬飼は深いため息と一緒にそう呟いた。
その意味深な態度にポチは眉を顰めたが、犬飼はぶっきらぼうに小さく笑い返した。
「ま、いろいろあったのさ。そのせいで見過ごせない質になっちまったんだよ」
わしゃわしゃとポチの頭を乱暴に撫でて、満足したのか犬飼は手を止めポチの背中を押した。
「ほら、子供は寝る時間だ!」
時刻はいつの間にか9時を過ぎていた。