クロノ・ホビロン#8 Chrono Hộtvịtlộn#8
今作は、某大学ミステリーサークルOB勢に寄る同人アンソロ雑誌『torso』に寄稿した作品の、一部改訂版です。何処をどう変えたのかは、買って見て、読んで見てのお愉しみ。それではどうぞ、よしなに、どうぞ。
その鮮やかな卵は、無数の卵の殻で出来ていた。
理屈と言えば理屈通りに、けれど、拭い切れないちょっとした違和感は、何と言う事も無い、科学の力で、即ち接着剤の力で、いとも容易く克服される。えいやっ、と、振るわれし大槌が、如何に大元を四散させていようと、欠片さえ残っていれば、どうとでもなる。多少の痕跡はご愛嬌だ。遠目に見る分には問題無い。
次いで欲しいのが、製作者のやる気に根気――いや、これは寧ろ妄執と呼んだ方が正しいか。何故と言って大元は一つでは無く、数え切れない一杯であり、断片はごちゃ混ぜと、撹拌されて取り留めも無く、勿論、素材は鶏卵なんかでは無い、人間のそれである訳だから、一片一片の大きさもちゃんと比例しているし、更に、自ずと付け加えられる条件が、始まりの一振り以外の衝撃を良しとしない以上、この螺鈿細工は、終わりの見えない単純精密作業と化す。砕けた部位の直線が、曲線が、見事に合致するまで試みは行われ、駄目であれば新たな卵が作業台の上に乗せられる。そして、えいやっ、と、再び殻が周囲に飛び散り、先にあった代物の中に紛れ込めば、奇跡と呼ぶには大仰だが面倒臭い事には変わりない接合が、形ざる凹凸の組み合わせが、日がな一日繰り返され、繰り広げられる――中身を問わぬのが、せめてもの救いか。
そんな気の遠くなる作業も、実際に彼方へ行ってしまった心と、それに打ち込むだけの時間と資産があれば、どうにかなってしまうのが、恐るべき人間という生き物であり――それでも余りある欲求と衝動の内の、勿体無いの精神が、ただただ溢れ出ていくだけの得体の知れない内容物――科学はこれをタンパク質とかアミノ酸とかデオキシリボ核酸等などと称する――にも光明を、意味を見出すと言うならば、一連なりと化した殻の塊を染め上げる色彩の中に、それはたっぷりと混ぜ込まれる――えいやっ、えいやっ、と、大槌は一層強く、大きく振るわれ、羽根とか眼球とか指に見えない事も無い肉の塊を細かく、小さく潰していく。
そうしてバケツ一杯に溜められた塗料は、しかし努力の甲斐も無くただの塗料であり、視覚的には、何の代わり映えも有りはしない。第六感を含む残りの感覚はまた別だが、色を塗るという意味に於いては無きに等しい――紫とか青とかオレンジとかの原色である事は付言するべきかもしれないが、まぁその程度だ。
だがそれで、いやさ、それがきっと良いのであろう――かくして復活祭の例のアレ宜しく、とは言え、空っぽ具合は変わらぬまま、その外側をべっとりべたべた塗り込まれた――お陰で多少の痕跡も誤魔化せる――卵には、最後の一手間が設けられる。
取り出したるは、名刺サイズのメッセージカード――愛用の羽根ペンが先端を、先の塗料にちょんと浸し、その白さに盲てしまいそうな紙面へと、役割に則り、言葉を綴る――蚯蚓が這いずる様な、ある種の達筆さで、それは見る者にこう願い出よう。
『たんとお食べ』
そして創造主と、己が名も添えて。
故・辺里秋生・作――『クロノ・ホビロン#6』。
オレンジの輝きも誇らしき、比較的人気の第六子だ。
合わせて七つ作られていた、この芸術作品群が発見された時の世界の反応は、なかなかどうして凄まじいものであった。
兎にも角にも声高に挙がったのは、まぁやはりと言うべきか、生理的な嫌悪感である。いや、気取るのは辞めよう。端的に、顕著に語るとすれば――その手の作風に詳しく、故・辺里秋生研究の第一人者としても知られているピーター・クリスティの著書『こんちわ!こんちわ!』にその詳細が記載されたクロノ・ホビロンの第一発見者つまりは自らを故人とした辺里秋生の第一発見者、隣家在住の大畑雅子が初見で感じたという印象が全てだろう。
『何だか知らないけど気持ち悪い』
美術的感性やら製作経緯やらを抜きにしたその外観が、色付きの駝鳥の卵でしか無い諸作品からすれば、手痛く手厳しい批評だ。御婦人は全く容赦が無い――勿論その大きさは、駝鳥の卵の二倍から三倍を平均とする人間の、現存世界最大の卵を原型としている訳だから、仕方が無いと言えば仕方が無いのかもしれないが。両者何れであれ、スーパーマーケットなんかでは見掛けない代物には違いなく――七つの卵全体を跨いで設けられた言葉、ピーターの書名にも採用された綴り間違いも小粋な友愛の挨拶が、或いは、藍より青し第七子、誉れ高き大トリを飾り立てる希望の文句がどれだけ訴えようと、ちょっとした違和感は拭い切れない。
『撫で撫でして♡』
巷間を眺め見る限り、寧ろ逆効果だと言わざるを得ないか。
ただ、故・辺里秋生の名誉――そんなものがあるとしてだ――に掛けて言っておくと、大畑雅子が抱いたそれは、状況に、環境に、現場の雰囲気が与えたものと見た方が良いだろう――辺里夫妻が相次いで死去して数十年、一切の交友を絶って来た引篭りの一人息子が住まう邸宅に、荒れ放題のその敷地に、『BLAME!』なる不穏極まりない物音とその他諸々を理由に侵入した挙句、私室と化した居間に見出したのが、脚の踏み場も無く敷き詰められた卵の殻と、円卓の上に横並びとなった例の七つ、そして背中を向けて揺れる安楽椅子、とくれば、寧ろ彼女の豪胆さをこそ讃えるべきであるかもしれない。しかもこれは視覚的に限った話。第六感を含む残りの感覚は、特に嗅覚は、見るより余程多くの情報を与えていたに違いない――充満する卵臭さに生臭さ、埃臭さに混じって嗅ぎ慣れない火薬臭さは、だらり右手に握られた箒の柄と、その担い手がこめかみより仄かに立ち上っていたという。
こうして一種の慈悲深さを湛えた一振るいに寄って、辺里秋生は自らを故人とした訳である――『BLAME!』とばかりに、だ。
さてお立ち会い――賢明なる読者諸氏に付きましては、ここまでのお話の中に紛れ込んだ細かい奇妙さに、そろそろ気が付く頃合いだろう。衝動が過ぎ去り、平静が帰って来た、その御頭でしっかりと考えるならば、滲み出る可笑しみが理解出来る筈である。
それが第二の声だった。いやいや待て待てと、ちゃんと考え、調べ、もう一度考えた結果の、恐るべき事実――美術を、信仰を学んだ訳でも無い、孤立無援の男の異常な感性が齎す、隔絶された異端の作品。それは良い。それだけならば問題は無い。問題は、そう、如何にして、だ――銃刀御法度の社会での古き良き自動式拳銃等、ただのちょっとした終止符に過ぎない。七つの卵を産み出す為に打ち砕かれた無数の卵のその殻を、どの位にどうやって、辺里秋生は集めたのか――異常な感性を持つ、孤立無縁の男が?
ピーター・クリスティは、その事も著書に記している。
発見から報告、宣伝から調査の流れと、その解答を――律儀な計測と計算に拠ると、集められた人間の卵は、凡そ一万個であったという。製作材料としてそれが多いのか少ないのかは、議論を分かつ所だが、道徳的観念――そんなものがあるとしてだ――から言えば、それは驚愕して余りある数値に異論はあるまい。
人間の極一部、と、言う事は、百億の一握りが、胎児では無く胎卵(卵胎生から導き出されし新語)を宿す様になったのは、判明している限り、1985年1月の頃合いである――当然、それ自体が驚きを以って迎えられた訳だけれど、それ以上に問題となったのはその数――そう、ここでもやはり数の方だった。
確かに一握り、しかし何と大きな掌だろう――その中に一体何人の夫婦が、兄弟が、姉妹が、祖父母が、友人が、知人が、犬猫が、善意の他人が収まってしまう事か。しかも、そんな異常事態に先があり、孵らざると知られざるのオマケまで付いて来るならば、尚更の話だ――然り。2013年8月21日に至るまで、判明している限り、人間の卵とは、人間から放り出された卵であり、人間が産まれて来る卵では無かったのだ。そして、中に何が入っているのかは、如何なる方法を、科学の力を用いても、誰にも何も分からない――訂正を。力を込めて叩いて割れば、ただただ溢れ出ていくだけの得体の知れない内容物を知る事は出来たが、だから何だと言う話で――『慌てんな』とは、猛き赤き第二子の助言だが、そんな益体も無い言葉に誰が耳を傾けるものか。
原因不明の出鱈目な発生である甲斐もあって、世相はまぁそこそこ荒れた――破滅の予兆、とは言わぬまでも、何かしら不吉だと、ほんの少しでも感じなかった者は居ない筈だ。実際、このまま全ての母親が石女と化せば、それは予兆所の話ではなくなる。
実際の実際を言うと、話はそこまで進まなかった――握られた掌の外側には、まだまだ一杯の人間が蠢いて、今日もせっせと子作りに、胎卵では無く胎児を身籠る作業に勤しみ、そして、それは確かに実りを見せたのだから。極一部はやっぱり極一部であって、地球規模の人口増加を揺るがすには至らなかったのだ。
関係者一同の悲哀と困惑を抜かせば、実害が皆無だった事も拍車を掛けた――明日はどうなるか分からない、と懸念を示す者も居たけれど、それはこの一件に関わる話では無く、寧ろそのどうなるか分からないという一点を元に、避妊を省みない世界規模の性交率(これは関係者一同の同意反意を問うていない)は上昇傾向を示した――とはノーベル性科学賞にも推挙された女性性科学者レニー=ソフィエル・ビゴーの物議を醸し出した発表だが、その正否は置いておくとしても、人間は破滅を免れた。
産めよ殖やせよ地に満ちよ――古き良き格言の、そのままに。
そこでほっと吐息を漏らし、明るい水色が癒やしを誘う事も無い第四子の『一休み一休み 』という囁きに耳を傾けても良かったけれど、お気付きの通り、問題は残されたままだった。
繁殖は構わない――で? 結局その卵はどうするつもりだ?
一難去って何とやら、これは銘々返答に窮してしまった――とても愛情を注げるものでは無いけれど、さりとて、無碍に扱える代物でも無い。無視して放置しようにも些か嵩張る上、生物には違いなく、何時かはきっと腐ってしまう――その何時かが何時か訪れ、どうなったかを確認しよう等と、思う者は居なかった。
後に『在庫処分』と称される事になる、国家の垣根を超えた回収作業は、以上の流れで以って始められた。御題目は『人類の発展と友愛に基く研究への寄付』。科学の力で太刀打ち出来ないのは早々に分かっていたけれど、だからと言って、他の何が言えようか――言える様な人間は、そもそも行政の手を煩わせない。無碍に無視して踵を振り上げ、そして振り下ろす。簡単なものだ。
簡単な――だからこそ、作業は迅速に、的確に開始され、銘々が実に協力的だった。黒いコウノトリ印の運搬車が道々を行き交えば、幾つの人影がその後をそっと追い掛け、追い付き、荷物を渡し――それすら困難だとしても御安心を。道々に敷設された専用の配達口へ、深夜か夜更けに投函してしまえば、事は足りる。
そうやって集められた卵達の向かう先がキャベツ畑だ――無論これは比喩である。出荷されて来た場所へと返品するだけ、という意味であって、何も砕いて撒いて堆肥にしようだなんて訳では決して無い――少なくとも、表向きは、だ。悪趣味な冗句として上がる事はあっても、裏側を覗こうだなんて度胸は、誰にも無い。主に英国と米国界隈で一時期流行した黒い小咄が精々という所だろう――いや、そんな在り来りな場所じゃあ無くて、本当に運び込まれるのは独逸だよ。空輸してから列車で運ぶ。そこで抉じ開け、金歯を抜くのさ。ついでに肝臓も。正に一石二鳥だぜ。或いは――君が食べてる目玉焼き入りのそのバーガー、美味しそうだね一口いいかい? 何ならこのチキンと交換だ――等など。
等など――と、言う訳で、卵達の行方に真に興味を持っている者なんて誰も居らず、その真相は、関係者一同の胸の内にひっそり仕舞われていた――少なくとも、クロノ・ホビロンが見つかるまでは。そう、少なくとも――そこがキャベツ畑だったのだ、日本の某都市郊外の、富裕層が暮らす住宅街の、今となってはうらぶれた一軒家こそが。全てが全ての筈が無く、その数が凡そ一万個だと言うのは先に触れた通りだが、何か個人の、私利私欲の為に消費されている、その可能性だけで充分過ぎたのである。
それに比べれば、他の疑念等大した事では無い――例えば、七つの卵を製造する為の御題目なんかは、創造主がお亡くなりになられ、遺志を記したものが、それこそ卵以外に何も残されていなければどうしようも無く、その卵達を製造する為の手段、方法ならば、専門家共の手に掛かれば、割合直ぐに判明してしまった。そして接着剤や塗料等の道具類は、何と言う事も無い、市販の既成品であり、そうした関連具材は、全てインターネットを経由して輸送されていた――最期の一掃けを齎したものも一緒に、だ。
具体的に言うのは控えるが、その仕事は某大手インターネットサービス会社の手に寄るものだった。悪名と言えば悪名だが、最早その程度で彼の企業が揺るぐ事はあるまい。紫も高貴な第一子が胸を張っている様に――『どんなもんだいっ』。そう言う事だ。
そう言う事で――故・辺里秋生の評価は決した様なものだった。つまりは、評価に値しない、と。いち早く目を付けたピーター・クリスティを始めとする専門家共の言葉はまた違っていたけれど、そんなもの、市井の民には関係無い。漸く収まったかに見えた混乱をぶり返し日常を揺るがした、その罪は真に重い。
更に言うと――発見日が、2013年8月21日以降というのがまた不味かった。それ以前であれば、人間の卵とは、人間から放り出された卵であり、人間が産まれて来る卵では無かったのだから――そうとも。中に何が入っているか、人々はもう知ってしまった後であり、英国人すら唇を紡がざるを得なかったのだから。
2013年8月21日――その日、孵った卵は、南独逸在住の元郵便配達員ヨーゼフ・ハールマンと、イレーネの一人娘だった。
この善良なる老夫婦が他の人間と違ったのは、まず以って、その気の長さだ。実に十四年に渡り、彼等は、生きているのか死んでいるのかすら覚束無い卵を暖め、見守り続けたのだから。晩年になってからの出産だった事、二度の懐妊は母体に悪影響を与える事が分かっていたのも、古き良き宗教観に未だ根付いていたのも、隣近所が理解ある者達であったのも、口さがない英国に対して当局がいい加減むかっ腹を立てていたのも幸いしたに違いない。
これらの条件が都合良く重なり――昇る朝日の中、唐突に、脈絡無く、殻を破って顕れた彼女は、年の頃は正しく十四程の、羽根が無い以外は天使と呼んで差し支えない、見目麗しい少女だった。両親とは似ても似つかない容姿は、波打つ金髪を足首まで垂らし、一糸纏わぬ白い肌は盲てしまいそうで、自然と見る者の眼を、劣情を背けさせ、見開かれた瞳は透き通った青、この世ならざる青を帯び、そうして紅薄き唇は閉ざされたまま、産声一つ鳴声一つ上げる事は無かったけれど、ハールマン夫妻を始め、面と向かい合った者には、余りにも雄弁に、仔細を述べていた。
即ち――この現象は、次なるを導き出す為に与えられた試練であった、と。多くの人間が、その厳しくも無ければ緩くも無い、曖昧さの中で、諦め、挫けて、堕ちていった中で、遂にそれを乗り越え、報いられる時がやって来たのだ、と。その報いは愛らしく美しく、これまでを補ってお釣りが来るものだ、と。
掌が返された――主にインターネットを通じて事実を知った人間は、悔いと歓びと改めの中で涙を流した。コウノトリは去り、キャベツ畑への道は閉ざされよう。変わるのだ、いや、変わったのだ。翼も無しに舞い降りた使徒が、それを成し遂げた。しかもそれは、人間なのだ。紛れも無く――これを讃えず何を讃えよう。
全く以ってその通り――だからこそ、ベビー・ブームならぬエッグ・ブームが兆しの故に、クロノ・ホビロンは忌むべき代物と唾棄された――その熱狂の、反動の凄まじさを予言していた様に、眩い黄色の第五子は『お見逃し無く』と嘯いていたけれど、誰が耳を傾けるものか――訂正しよう。一人居た。たった一人、人間の極々一部、百億のほんの一摘みの中に、たった一人――流れに逆らい、この善き傾向を台無しにするべく立ち上がった者が居た。
それが、そう、私である。
立ち上がり、箒の柄を手にした私が、空を跨いで飛んで行ったその先で、少女目掛けて『BLAME!』、と、一振るいし――それでお終いである。相手は天使なんかでは無い。そう見えるだけの、ただの人間なのだから。違いと言えば、卵から孵ったと言う事位。それとちょっとした可愛らしさ。科学の力を借りるまでも無く、手先の器用さすら重要では無い。ちょっとしたやる気――根気さえあれば、それで仕事は済んでしまう。簡単なものだ。
だが、ここから先は、そう易々とは行ってくれまい――混乱の中で、全てが曖昧な状況に戻ってしまった。悲嘆と困惑を撒き散らして地に堕ちた死体は、丁重に保管され保存され、夢より覚めた者達を議論へと誘い、故・辺里秋生への決定もまた覆ろう。
中には、彼女の――彼女の亡骸と、かつての姿を用いた第八子を、その手の専門家に寄る養子を望む声も聞こえて来る。目を背けて来た一切に対する真の悔恨に則って――その記念に、と言う訳だ。立ち上る御題目は、勝手知ったる『勿体無い』。全く以って。
きっと、これで良かったのだろう――そう述べる事は、到底出来ない。気分は酷く、悪寒がするのは、檻の中が理由だけでは無い筈だ。羽根ペンも震える。折角だからと倣っては見たものの、どうもこうもしっくり来ない。あの男の字が酷く下手糞だったのは、きっと道具の所為では無いか。そうやっかみたくもなる。
やっかみ――何故そんな事をしたのか、と問われれば、私はそう応えるより他には無い。事実そうであるのだから。
だが、誰に、何に対してか――そう付け加えられると、何とも返答に窮してしまう。何故なら私は部外者で、こうして纏めて見た流れの、その全部と関わりを持っていないのだから。
と、言う事は、つまりその諸般の裏側へと通じているという事ではある――徹頭徹尾の省け者、丁度真逆に属していて、雑知識を、物事の仔細を、表向きには知られざるを知っている――例えば、寄付は時と場合と相手次第で見返りが得られる事を――彼を槍玉に挙げた連中が好奇と好色の元に行っていた事を――つまり、コウノトリもキャベツ畑も存在する事を――辺里夫妻と大畑雅子が親しくなっていったのは、日曜の教会であった事を――レニー=ソフィエル・ビゴーの推挙者が、彼女の男女問わぬ恋人達であった事を――やがて付けられる筈だった名が、イリヤ・ハールマンであった事を――総じて、インターネットは偉大だという事を――等などなど――けれど、そうだとしても、やはり実行の、決断の理由にしては頼りない。弱ったものだ。全く以って全く以って。
しかして傍目には、他人から見れば、それは明々白々なものであるのかも知れず――それを期待して書いているのかも知れないし――故・辺里秋生は、それすらも見通していたのかも知れない。
計算の手間は、そう掛からない――時期と番号。必要なのはそれだけだ。それだけで――我が子がどうなったのか、簡単に分かってしまう。そう呼んでいいのかも覚束無いながら、しかし契約書に記載されていない以降の事を――緑の炎も爛々と、第三子が一体何と告げているのかを、だ――偉大な参考文献の提供者こそ、祝福あれ――そうとも。動機は容易い。問題はその中身にこそある――まさか割って見る訳にも行くまい? 少なくとも、その外観は丸々と可愛らしく、希望を秘めたものであるのだから。もしくは、更なる混沌を――それこそ、割って見るまでは分からない。
ENDE