微分 (数学講師シリーズ)
数学講師シリーズの統計学、確率論に続く第3作目です。
「ねえ、あなたは何をなさっているの?」
「数学の講師をしています」
明らかに年下の女の質問に彼は緊張して答えた。
そして、グラスの水割りを飲みほした。
「お作りします」
彼女は、グラスをギュッと握っている、彼の右手に自分の手を合わせた。
「こういうところ初めてで…」
彼女は微笑みで応えた。
彼は、学部長になった数学教授のお伴で、
教授や助教授などと銀座のクラブに連れてこられた。
教授の両隣はモデルのような綺麗な女性が座り、
それを中心に教授、助教授が座り、数学講師は一番端に座っていた。
「有難うございます」
彼は彼女から新しい水割りを受け取った。
「高校生の時、勉強した微分に何か意味があるのかしら?」
彼は、この場を楽しめていない自分に話しかけてくれたとすぐに分かった。
さすが、銀座のホステスと思った。
「微分って本当は女性の方が得意なんですよ」
彼女は小さく首を傾げた。
「女性の方が簡単に見抜くじゃないですか」
「どういうこと?」
「浮気です」
「浮気?」
「恋人の浮気って分かる方ですか?」
「ちょっと鈍そうに見えると思いますが、それに関しては結構鋭い方です」
「どうして、浮気と分かりますか?」
「雰囲気が変じゃない。何か隠そうとするし」
「そうです。それが微分です」
「微分?」
「以前の状態と今を比較して、違和感つまり差を出す。
これが微分の考えです」
「へ~、そうなんだ」
彼女の顔は、心から感心したという表情をしていた。
「女性の脳は、男性に比べて比較能力が優れていると言われています。
ところで、一発屋芸人も、消えていく原因を微分で説明できます」
「微分で?」
「テレビ局はどういう芸人を使うと思いますか?」
「人気がある人でしょう?」
「そうですね。でも、人気だけじゃなくて勢いがある芸人を使う傾向にあります。
特に若手の場合」
彼女は頷いた。
「一発屋芸人の場合、知名度が広がって人気が高まっていっても、
基本的に同じ芸なので、勢いは薄れていきます。
そして人気がピークに達すると、勢いはゼロになります。
その勢いを算出する方法が微分です」
彼は珍しく饒舌になっていた。普段、女性と話すのは苦手だった。
「面白い考え方ね。勉強になったわ」
彼は、少し懐疑的になった。
本当に理解したのか、ただ話を合わせているのかと。
彼は水割りで喉を潤した。
「女性の結婚もそうかもね」
「結婚?」
彼は意味が分からず、彼女の方に身を乗りだ出した。
「相手をだんだん好きになって、ピークで結婚する。
でも、刺激がないといって浮気する。
その刺激が微分ということでしょう」
彼は頷いた。ちょっとずれているようだが、本質は合っている。
頭の良い女性だと思った。
話が進むにつれて、だんだん彼女が好きになっていった。
女子学生にも講義をしているが、女性の免疫がなかった。
彼女はここでいくら稼ぐんだろう。俺の10倍か。
彼は周りを見渡した。
成金っぽい社長らしき客もいたが、上流階級っぽい人が多かった。
自分がいる場所ではないことを思い起こされた。
彼は少し肩を落とした。
「数学講師ってお給料いくらかしら?」
彼は絶望した。
ああ、やっぱり金か~
「350万円」
彼は正直に答えた。もう少し上乗せしてもバレないだろうが。
「凄い月給?」
「年収です」
「冗談よ。でも去年からいくら上がったの?」
「30万円」
「凄いじゃない。私なんて去年より少し下がったのよ。
でも、これが微分でしょう」
彼は大きく頷いた。
彼は無意識に彼女の右手を握っていた。
彼女はそれ嫌がらず、左手をそこに合わせていた。