第2章 一
「センセー、外来の患者さん、少し途切れたみたいですね」
看護師のことばで、天鷲美希はふと電子カルテから目を上げた。梶というこの若い看護師は、せんせい、と発音せずセンセーと学生風にいう。スカートから伸びる足も、子どもっぽさが残っていて、美希は彼女が外来診療についてくれると、いつもよりゆったりした心持ちになった。二〇分ほど前に開けた缶コーヒーを一口すすると美希はうーんと猫のように大げさに、のびをして席を立った。
「じゃあ、ちょっと病棟まであがってくるわ。病棟指示を出してくる」
「センセー、缶コーヒーばっかり。高血糖になりますよ。メタボには早いです」
梶はにやにやしながら言う。
「許してよ。宿直明けの糖分とカフェインは必須栄養素なんだもん」
そう笑うと、診療室のドアから滑り出た。
天鷲美希は内科医である。三十二歳は世間では立派な一人前であるが、医者の場合、まだまだ新米クラスだ。今朝のように比較的症状の軽い外来診察はさせてもらえるようになったものの、入院病棟に上がれば上司の指示をこと細かに仰ぐ毎日だ。もっとも、さっさと分野を決めて専門医の資格を取っている同期もいる訳ではなかったが、美希は敢えて専門を持たず、昇進よりも、広く多く学ぶことを選んだのだ。
「テンちゃんらしいわぁ。いっつも『アフリカ行って医療するっ』って昔から意志が強かったものね」
美希の大学時代の友人の智絵はこの間久しぶりに会った早々そう言った。
「わたしなんか、大学出て旦那とすぐ結婚してこの子が生まれたからね。医者やってるどころじゃなくって。でも、今でも旦那が新しく覚えた手技の話すると、置いて行かれた気になるのよね」
そう言って、テーブルの傍らでよちよち歩いている男の子を、ちっとも残念そうじゃない顔で見やり、
「やっと幼稚園に行ってくれたら、実家の病院でパート医者からまた始めろってパパに催促されてはいるんだけれど。それにしても、テンちゃん偉いなぁ。すっかり遠い世界の人に思えるわぁ」