第1章 三
アルコールの入った伊達の舌は次第になめらかになっていった。違う業種、特に青乃のような金融畑の人間と話すのは、この男にとって新鮮なことだったらしい。経済のこと、市場のことなどを話すうち、いつの間にか、機内の照明は落とされて、動き回っていたキャビン・アテンダントも引っ込んでいる。周りの客も短い睡眠に落ちたようだった。話のタネも尽き、青乃も会話を切り上げようと体を動かしたところ、伊達は唐突に、こう訊ねた。
「青乃さん、認識のずれというのは経済市場で確立し続けられるものなのでしょうか?」
「というと?」
「僕の言うのは、世の中の認識のずれです。つまり、世間がマルと思っていることが実はシカクなんだけれども、皆、シカクをマルだと信じたいと思ってきた。そういう共同幻想は、シビアな株式市場や経済界で存在し続けることはできるのか、そういう事です。僕は経済界のことは全然わからないので」
伊達は酒で濡れた唇を一旦舐めた。緊張しているのか癖なのか、舐める時に目を剥いている。また一口、ウィスキーを喉を立てて飲み、続けた。
「買い手と売り手が、ある条件に合意して、売買するから市場がなりたつのでしょう?一時的な勘違いはあっても、誰も損したくないだろうから、まやかしはすぐに、まやかしとして、正体をあばかれるのではないですか?」
咬みつくような調子で無骨に話す。
「美術品や高級ワインのように、閉鎖的な市場においては、そうとも言えないでしょう。ですが、買い手と売り手が不特定多数で、誰でもマーケットに参加できるという公平性と開放性が担保されている市場では、ずれというのはいつまでもそのままにはしておけないかもしれませんね。逆張りといって、業界の常識がくつがえることに賭ける投資手法もあるくらいですから。僕は市場経済の公平性と智慧を信じていますから、そのような市場もいずれ是正されると思いますが」
伊達は鼻を鳴らして、青乃のことばに返答した。
「じゃあ、話題を少し変えましょう。青乃さん、あなたは、お金に換算できないものが、現実にあると思いますか?」
ぎょろっとした眼で見据えられ、青乃は彼の酒臭い息を近くに感じた。
突然、哲学じみた話をされ、普段こういう系統のことを考えない性質の青乃はどう答えて良いものか迷ったが、結局、即答を避けるいつもの癖で黙っていた。伊達はそんな彼の様子に一向に気にしない風に話し続けた。
「最近、自分の職についてよく考えるんです」
そして、溜めているものを吐き出すように、
「生きていくには金がいる。だから働く訳です。患者を診ると金がもらえるから、医者をやっている訳で、他の職業と大差はない。そこに神聖さを求めるのは矛盾している、と僕は思います。だけど、今まで、日本社会は医者を聖人扱いし、『真心』や『思いやり』を要求してきました」
「なるほど」
「医者だって、毎月給料をもらう。思いやりや良心も、結局は金に換算されるんです。でも、今までそういう風に割り切るのは、タブーと考えられてきました。医者の言動の後ろに、金が見え隠れするのは悪いことだと。金のことなど考えるなどもっての他だという風に、偽善で医者や病院はやってきたのです」
「偽善、ですか?」
「患者だけじゃない、社会も政府も、医者にそういう生き方を迫ってきた。『心のありかた』まで、いちいち干渉されてきた」
仕事の疲れとウィスキーの勢いも手伝って、青乃は、はっきりと伊達に切り返した。
「医者は本当に被害者なのでしょうか? 医者という職業の本音と建て前をうまく使って、したたかに利益を得てきたという見方もできなくもありません。それを偽善と卑下する必要はないですし、逆に社会の聖人崇拝の犠牲と見なすこともない。」
伊達は、一瞬顔色を蒼くしたが、たちまち相好を崩した。
「いやいや、青乃さんを驚かせてしまったみたいですね」
酒で血走った眼が鈍く睨む。
「いえ。そんな意味ではありません。ただ、伊達さんの言うことが私にはわかりかねるだけですよ。あなたは金をはぎ取るのが資本主義や市場主義だと思っている。病院からみたら、外部の世界は竹を割ったような拝金主義の損得勘定に見えるかもしれません。でも、会社はそんな甘い発想で経営できないですよ」
伊達は、グラスに残るウィスキーをゆらしながらわざとらしい軽快を装った。
「僕は、医者は被害者だと言っている訳ではありません。むしろ、今、『日本の病院や医療が崩壊しつつあるのは、無策な政府のせいだ、高齢化のためだ』と言われていますが、被害者面をするだけで、のうのうと生きてきた医者たちや医療業界自身が医療をこじらせた大きな要因だと思うのです。日本の医療界に巣食う、歪んだ理想像の押し付け合い、欲望や権力闘争、惰性と馴合いにまみれたしがらみを、金の力ですべて断ち切りたいのです。命や健康に値段はつけられないといいますが、そこを無理矢理でもつけているのが現代社会です。病院だけ別世界なのはずれている。つまり」
と言うと、伊達は手を無意識にこすった。
「金はあくまでも手段ですが、数字の多寡で決着がつくというのは、どんなに楽かと憧れますよ」
「割り切ることができるから、ですか?」