第1章 二
こちらを向いた男の伸び気味の髪には、ちらほらと白いものが混じる。普段の白衣姿を彷彿させるように、ジャケットを着慣れない肩あたりがすこしずれている。それと対照的に、サイドテーブルの上に置かれたグラスをつかんでいる手は、日に何度となく洗うのか、脂が抜けてふやけたように白くなっていて、節だけが赤みを帯びている。指の毛が黒く太く、粗野な安心感を添えていた。この手を見て、青乃は、なぜか突然冷やっとした。彼の世界や、この機内の中に漂っているふわふわした現実では無く、地に足のついた強さを感じた。
「ええ、まあ」
と相手はぶっきらぼうに答えた。慣れない機内で少し緊張したこめかみをかすかに膨らませている。
三十四、五歳だろうか。企業調査で人を観察することの多い青乃はそう見当をつけた。仕事柄、青乃は相手を注意深く観察する癖がついている。彼の知る金融業界は概して本心を見せない人間で構成されている。交渉を有利に進めるために、まず、相手の出方を見ることは基本所作であり、「そつ」のなさは社会的訓練の証しなのだ。それにひきかえ、この男には、そういう社会的な洗練が欠けていた。医者という職業の特殊性に因るところかもしれないが、青乃のような、包み隠すような社交術を信じる人間にとって、この横の男は、観察しがいのある興味深い存在であった。
「ドイツへは学会で?」
医者とは言え、よく青乃がパーティで出くわすような、病院経営者のそれほど自我の放出がないことから、勤務医、しかも地方の病院と踏んで、渡航の目的の見当をつけたのが、当たったようだ。男は、ちょっと目を開いて、
「ちょっと珍しい症例があったので、それを大学の医局にせっつかれて発表しただけです」
くぐもるように口早に言った。ちょうどそこに、キャビン・アテンダントがお礼を兼ねて、グラスを持ってきたので、飲みながら話をぼつぼつ始めた。地方の公立病院で、麻酔医をしているというその男は、伊達真と名乗った。