第1章 一
金曜の夜だけあって、機内はほぼ満席状態だった。五月の大型連休をヨーロッパで過ごした観光客たちも多いのだろう、ファイナル・コールになっても、搭乗口には、大勢の人間が列をなしていた。しかし、フランクフルトから成田へ向かうビジネス・クラスは、そんな喧騒とは隔たれて、ほの暗い照明の中、ウェルカム・ドリンクのシャンパーニュやジュースなどが、静かに振舞われていた。青乃政利も、革張りの座席に身を沈ませた。暗くて狭い機内に入り、ブラックベリー端末の電源を落とすと、ドイツの城を借り切って開かれた、年に一度の社内合同の投資ミーティングを無事に終えた実感が湧き、張った気持ちが少しずつほぐれていく。ここ数年、青乃が一番リラックスできるのは、飛行機内で過ごす時間になっていた。幸い、隣席には誰もいない。と、その時、最終案内のぎりぎりになって、若い男があわただしく乗り込んできた。キャビン・アテンダントとのやり取りから察すると、エコノミー席が満席のため、アップグレードされてビジネス・クラスに移ったらしい。男は青乃の横の席に、どかっと座った。クッションの抜けた空気が青乃のところまで届く。その空気をさりげなく払うように、青乃は膝を前の背もたれに向けて座り直すと、鞄からノイズキャンセラーのヘッドフォンを出し、耳にあてた。
どれくらい寝たのだろう。
「お客様の中で、お医者さまはいらっしゃいますでしょうか。どうぞ近くの客室乗務員におっしゃってください」
うとうとしていた青乃は、機内の緊急アナウンスで起こされた。どうやら、乗客で気分が悪くなった者がいるらしい。薄目を開けると、隣の男がシートベルトをはずし、立って、キャビン・アテンダントに話に行っている。
しばらくすると、その男は無表情で戻ってきて、また席に座り直した。すっかり眠気を覚まされた青乃は、閉鎖空間にいる気軽さも手伝って、その男に、
「お医者さんですか?」
と声をかけた。