ミランダ・S・ウォリン
ミランダ・サロウミ・ウォリン、24歳。彼女はエッダの中でも比較的裕福な家庭で生を受ける。
長男のアントニオ、次兄のフィリップ、そしてミランダの三人兄妹。父は厳格な仕事人間で、母は大らかで家庭的。厳しい父を、母が子の側から支えるという構図は、古典的でありながら、しかし確実にミランダの家庭環境に平和と安息をもたらしていた。
温かい家庭、充実した生活。だがミランダにはある一つの悩みがあった。
金髪だ。
父も母も、そして兄たちも。ミランダを除く家族全員が美しいさらさらの金髪の持ち主であったが、ミランダの金髪は典型的なくせっ毛だった。
“巻き毛ちゃん”と上の兄たちにからかわれることもあったが、それは愛情の裏返しであると理解していたし、自身の金髪の巻き毛は嫌いではなかった。
だが、母は違った。
彼女はミランダの巻き毛に触れるときだけは妙におどおどして、いつもさっさと切り上げてしまう。そしてどこか痛みに耐えるような表情で、ミランダを見る。幼いミランダにとって、母のその習性は不可解であり、同時に寂しくもある幼少期の難題だった。
15の時、その難題の解答は、ミランダの前に姿を現す。
家に帰ると、母が見知らぬ男性と抱き合っていたのだ。
頬を紅潮させ、目に妖しげな光を灯したその姿は、ミランダが初めてみる“女”としての母の顔だった。
そしてその瞬間、暖炉にくべられた藁が燃えるが如き速さで、全てを理解した。
何故、私だけ巻き毛なのか。
何故、母は髪に触れたがらないのか。
母と抱き合う男の、その特徴的な金髪の巻き毛を見たとき、全てを理解した。
自分は不貞の子だったのだ。
母と――あの名も知らぬ男との。
その瞬間、ミランダの全身を貫いた黒い雷光は、深く鋭い楔となって、彼女の全未来へ横たわる、巨大な影をつくった。
強烈な衝撃のあと、ミランダの胸の内に溢れたのは、憎悪でも嫌悪でもなく――純粋な恐怖だった。
母を告発すれば、最悪この家庭は崩壊する。だが母の不実を黙殺することは、父に対する裏切りに他ならない。
けれど――私はどうなる?
私は父の子ではない。
母の父に対する不実、その生きた証拠である私は一体どうなるの? もしこの家を追い出されたなら――私はどこに行けばいいの?
15歳の娘には、それはあまりにも重く、答えようのない問題だった。
悩みぬいた末ミランダは、沈黙する道を選んだ。それは円満な家庭を維持するという点において、客観的に見て最良の選択であると言えよう。だが同時にミランダの中には、保身のために家族を裏切ったという、拭いがたい後ろめたさが影を落とすこととなる。
それに父を裏切った母は憎かったが、自分を愛してくれた母は憎みきれなかった。
沈黙の道を選んだミランダができることは、毎晩ベッドの中で神様に祈ることくらいだった。母の不実が父にばれませんように。出来ることならば、全てが私の勘違いでありますように、と。
天啓も奇跡も、訪れはしなかったが。
母への愛憎。父や兄たちへの後ろめたい気持ち。そしてなにより――呪われた出生に起因する、自己に対する強烈な嫌悪感。
誰にも話さないという選択をしたことで、それらは時とともに薄れていくことなく、混沌とした一個の塊となり、彼女の中で熟成されていった。
数年後、警官となったミランダがいた。不正を働いた母への反発か、それとも自己を正しい道に置かんとする無意識の願望が彼女に警官の道を選ばせたのか、それは分からない。
少なくとも警官としてのミランダは、優秀とは言いがたいが劣等でもなく、ミスはするが不正はしないという、ごくごくありふれた人材だった。
プライベートでは、身持ちが固すぎるせいで男女関係が崩壊するということが頻繁にあったが、それはある種の彼女の個性として周囲に受け入れられ、社会に順応していた。
概ね順調にいっている。だがそんな時にこそ、大きな崩壊というものは訪れる。
ある日、家路に着くミランダは学生時代の同級生に遭遇した。昔より少し大人びた顔立ち、昔と変わらない――巻き毛の金髪。
久々の再会に二人は喜び合い、杯を傾け語り尽くした。アルコールも脳内に回り、話はますます弾み、気付けば日は暮れていた。
店を出て夜風を感じながら歩いていると、不意に友人が呟いた。
付き合っている人がいること。年上の上司であるということ。そして――その人物は既婚者で、悩んでいることを。
その瞬間、あの日ミランダを貫いた黒い雷光が、心中でのっそりと鎌首をもたげ、吐き気にも似た感覚がフラッシュバックする。
遠くに聞こえる友人の声。暗澹たる気持ちの中、ミランダは悟ったような気がした。過去というものは、どれほど目を逸らしても、どれほど逃げようとしても、自らの後ろをついて回る影法師のようなものだということを。
月明かりに照らされた、友人の金髪の巻き毛。学生時代、“お揃いだね”と笑いあったそれが途端に腹立たしく思え、許されざる不倶戴天の証となった瞬間だった。
そして同時にミランダは、無意識のうちにこの友人を殺すと決めた。
殺さずにはいられなかった。
人気のない路地に誘い出し、ナイフで襲い掛かろうとするも――失敗。激しく揉みあっているうちに、友人が突如炎に包まれた。
炎の中で苦しみもがく友人の姿を、呆けた表情で見つめながら、ミランダ理解した。
これが自分の力なのだ、と。
命乞いをする友人の姿を、当然の報いだとせせら笑いながら、その瞳には自身ですら理由の分からない涙が溢れていた。
白煙を上げ動かなくなった友人の姿を見ていると、途端に不安がこみあげ、腹部にナイフを突き立てた。
何度も、何度も、何度も。まるで自分が殺したことを再び実感するための儀式であるかのように。
何度も、何度も、何度も。泣きながら彼女は刺した。
恐怖か、興奮か、あるいはその両方か。高鳴る鼓動をのまま家路に着くと、自室のベッドに身を預けた。心地よい疲労感と――まるで大きな使命を果たしたかのような、たとえようのない充実感が、胸中を満たしていた。
そのままシーツに吸い込まれるように眠りにつくと、ミランダは明け方まで深く深く泥のように眠った。
早朝目覚めたミランダの冷えた頭には、友人に対する罪悪感や、警察に捕まるという恐怖もなかった。ただ心の一部をどこかに落としてしまったような、清々しさにも似た喪失感だけがあった。
そして翌日から、ミランダのスケジュールには夜の予定が増えた。
母への愛憎、父への罪の意識、そして――強烈な自己嫌悪。
15歳のミランダの心に撒かれた不安の種は、彼女をとりまく数奇な運命によって最悪の形で芽をふき、“自分と似た姿の女性を殺して裁く”という異常な使命感に憑りつかれた殺人鬼、紅蓮が生まれた。
ミランダが見たことを相談できる相手がいたのなら、父が母の不実を許せる寛容な人物であったなら、あるいはミランダの心がもっと強ければこうはならなかったのだろうか。
考えられる理由と原因は無数にあり、枚挙に暇がない。だがそれらの仮定に対する明確な答えは存在しないし、意味もない。
運命とは、それを切り開く本人だけが口にしていい言葉であるように、彼女以外の人間が、“こうであればよかった”などと口を挟む権利はないのだ。それは神とて例外ではない。
ともかく、ミランダ・S・ウォリンという一個の女性は、こうして成るがままに成るべくして――人を殺す鬼と成った。
回帰不能地点は遥か遠く、彼女自身、自分の立っているのがどこかも分からない。
ミランダは――燃えていた。
全身から紅蓮の炎を噴き出し、彼女が殺した被害者と同じように苦しみもがいていた。
ヴィンセントによって再三に渡って差し伸べられた、救いの手を拒み続けた彼女を待つのは――ただ一つの運命。その名の如く、紅蓮の炎で身を焼かれ、煉獄へと堕ちる。
その運命だけだった。